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11.
「じゃあな、絢斗」
黒いハットで顔を隠し、全身を黒いトレンチコートで包んだ志が、転がしていたシルバーのキャリーバッグを自分のからだの横に引き寄せ、凛々しい笑みを絢斗に向けた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。ご武運を」
「固いなぁ。決闘に行くわけじゃあるまいし」
二人の脇を忙しなく通り過ぎていったロリータファッションの若い女性が、キャリーバッグの上に積んでいた小ぶりのボストンバッグを志の足もとに落としていった。志はすかさず拾い上げ、振り返った女性に手渡した。
「あ、ありがとうございますっ」
「いいえ。お気をつけて」
絢斗にとってはすっかり見慣れた微笑みを向けられると、ロリータの彼女はポッと頬を赤らめた。慌ただしくお辞儀をし、慌ただしく去っていく。あれは惚れたなぁ志さんに、と絢斗はひとごとのように思った。
ゴールデンウィークも終盤を迎えた成田空港は、朝から大勢の人でにぎわっていた。帰国した日本人、自国へと帰っていく外国人観光客。皆どこか浮かれ気分のふわふわした空気に満ちる中、一人、勇ましい立ち姿をしているのは志だ。今日の彼はピアニストとして、これからベルギー・ブリュッセルへと発つ。歴史ある音楽コンクールで、ピアノ部門の頂点を目指す戦いに挑むのだ。
「でも、戦をすることには変わりないです。ピアノとピアノのぶつかり合いですから」
「うーん……。そいつはちょっと違うかなぁ」
少し考えるような表情を見せ、志は視線を遠くへ投げた。
「俺のピアノは、他の参加者を倒すための武器じゃない。聴き手の心を揺さぶるためのものだからさ」
志の横顔は清々しく、どこまでも前向きだった。切れ長の瞳に映るのは、指先で観客を魅了する未来の志自身の姿。
「いい音楽って、そういうものだろ」
志の視線が、再び絢斗をとらえる。
「他者との争いじゃなくて、どっちかっていうと、自分との闘い。俺の武器で、どれだけ多くの人を感動させられるか。いい気持ちにさせられるか。俺が目指すのはその一点だけだよ。それが評価されたら最高で、明るい未来につながればいいなって」
語る姿は楽しげで、コンクールがどのような結果に終わっても後悔しないとすでに心に決めているような口調だった。
潔くて、かっこいい。人生、なるようにしかならないと割り切っているようにも見えるけれど、そういうさっぱりとした性格、ポジティブ思考に絢斗は惹かれた。悩んでも、苦しんでも、自分を曲げない強さを持っている志は、どちらかと言わずとも後ろ向きで内向的な絢斗にとって、あこがれの存在でもあった。
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