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 時間には余裕があると言ったけれど、用事がないとは言っていない。ギターを背負って絢斗と同じ電車に乗っていたのだから、なにかやりたいこと、やるべきことがあって池袋を訪れたことは間違いないのだ。 「あぁ、これ?」  絢斗の視線に気づいた彼が、背負っている黒いギターケースに触れた。 「いいのいいの。気分転換にちょっとスタジオで歌おうかなーと思っただけで、誰かと待ち合わせとか、そういうんじゃないから」  俺も一人なんだ、と彼は外国人がよくそうするように肩をすくめた。回答を聞いて安心できた一方で、彼の発言には興味をそそられるものがあった。  歌う。  趣味なのか、本業なのか、やはり彼は歌手、ボーカルであるらしい。  聞いてみたいな、と思った。彼の美しいテノールは、どれほどきれいな歌を奏でるのだろう。 「で、どうする?」  彼は絢斗に決断を迫った。 「行く?」  断る理由が見つからなかった。できれば今日じゅうに水族館に行っておきたいし、なにより、彼の厚意を無駄にしたくないという思いが強い。  絢斗はうなずき、握った右手を鼻先に当て、少し前に突き出す。その手を開き、ゆっくりと下へ動かしながら一緒に頭を下げた。 〈よろしくお願いします〉  ちゃんと伝わったようで、彼ははにかみ、「じゃ、行こっか」と絢斗をエスコートするように歩き出した。 「あ!」  けれど彼はすぐに立ち止まり、勢いよく絢斗を振り返った。 「そういえば、名前聞いてなかった」  確かに。絢斗もあぁ、という顔をした。言われてみれば、名乗った記憶がない。声に出して名を告げることはできないけれど。  まだ中身の残っているミルクティーの缶をいったん彼に預け、絢斗は彼の左手を取り、手のひらを上向けて開かせた。その上に自らの右の人差し指をすべらせ、ファーストネームをひらがなで書いた。 「あやと?」  うなずいて、今度は漢字で書き直す。 「絢斗」  もう一度うなずく。「絢斗ね」と彼はしっかりと覚えてくれた。 「俺は、ユキ。(こころざ)すっていう漢字一文字で、(ゆき)」  志。音の響きは優しいのに、当てられた漢字は凛々しく、男らしい。かっこいい名前だ。  歩き出した志の背中を、絢斗はゆっくりと追いかけた。  なにもかもが予想しなかった展開で、ちょっとだけ混乱している。胸の鼓動の高鳴りが治まらないままだけれど、気分は不思議と晴れやかだった。  今日は本当に、いいものが書けそうだ。  改めてそう思えたことが、心から嬉しかった。
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