180人が本棚に入れています
本棚に追加
時間には余裕があると言ったけれど、用事がないとは言っていない。ギターを背負って絢斗と同じ電車に乗っていたのだから、なにかやりたいこと、やるべきことがあって池袋を訪れたことは間違いないのだ。
「あぁ、これ?」
絢斗の視線に気づいた彼が、背負っている黒いギターケースに触れた。
「いいのいいの。気分転換にちょっとスタジオで歌おうかなーと思っただけで、誰かと待ち合わせとか、そういうんじゃないから」
俺も一人なんだ、と彼は外国人がよくそうするように肩をすくめた。回答を聞いて安心できた一方で、彼の発言には興味をそそられるものがあった。
歌う。
趣味なのか、本業なのか、やはり彼は歌手、ボーカルであるらしい。
聞いてみたいな、と思った。彼の美しいテノールは、どれほどきれいな歌を奏でるのだろう。
「で、どうする?」
彼は絢斗に決断を迫った。
「行く?」
断る理由が見つからなかった。できれば今日じゅうに水族館に行っておきたいし、なにより、彼の厚意を無駄にしたくないという思いが強い。
絢斗はうなずき、握った右手を鼻先に当て、少し前に突き出す。その手を開き、ゆっくりと下へ動かしながら一緒に頭を下げた。
〈よろしくお願いします〉
ちゃんと伝わったようで、彼ははにかみ、「じゃ、行こっか」と絢斗をエスコートするように歩き出した。
「あ!」
けれど彼はすぐに立ち止まり、勢いよく絢斗を振り返った。
「そういえば、名前聞いてなかった」
確かに。絢斗もあぁ、という顔をした。言われてみれば、名乗った記憶がない。声に出して名を告げることはできないけれど。
まだ中身の残っているミルクティーの缶をいったん彼に預け、絢斗は彼の左手を取り、手のひらを上向けて開かせた。その上に自らの右の人差し指をすべらせ、ファーストネームをひらがなで書いた。
「あやと?」
うなずいて、今度は漢字で書き直す。
「絢斗」
もう一度うなずく。「絢斗ね」と彼はしっかりと覚えてくれた。
「俺は、ユキ。志すっていう漢字一文字で、志」
志。音の響きは優しいのに、当てられた漢字は凛々しく、男らしい。かっこいい名前だ。
歩き出した志の背中を、絢斗はゆっくりと追いかけた。
なにもかもが予想しなかった展開で、ちょっとだけ混乱している。胸の鼓動の高鳴りが治まらないままだけれど、気分は不思議と晴れやかだった。
今日は本当に、いいものが書けそうだ。
改めてそう思えたことが、心から嬉しかった。
最初のコメントを投稿しよう!