第11話 長い片想い

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 目が覚めると、しばらく二度寝しながらベッドの中で微睡んだ。  昨晩は気落ちして未明まで眠りにつくことが出来ず、ひどく瞼が重かった。  部屋の外が静かだ。  いつもなら、朝食の準備や洗濯機を回す音が聞こえてくるが、今日は何の物音もしない。    寝室を出ると、そっとリビングを覗いた。  カーテンは開けられているが、人の気配がしない。  朝食を作った形跡もない。    時計は9時を回っていた。  ケトルにお湯を沸かしながら、まだぼんやりとする頭で昨日のことを回想する。   ──俺達、やっぱり別れよう。  俺から切り出した言葉だった。  薫は、俺がゲイであることを隠すために、俺たちの関係を守るために森山さんに対して気のある素振りをしたと言った。  だけど、俺のために自分の信念を曲げる必要なんてなかった。  薫は薫のままでいてほしかった。  あいつの良さが、俺のせいで損なわれるなんて耐えられない。  悪影響を与えるだけの存在なら、俺なんていない方がマシだった。   ──素直に思ってること伝えたらいいんじゃない?  ふと、塚田さんの言葉が頭をよぎった。  素直に思っていることを伝える。  俺は、ちゃんと薫に思いを伝えられていただろうか。  別れようと言っただけで、なぜ別れようと思ったのか、薫のことをどんな風に思っていたのか、ちゃんと言葉にしていなかった。    思えば、10ヶ月も側にいて支えてくれたのに、ありがとうの一言もなく、唐突に別れを告げた俺の態度は酷いものだった。    眠気覚ましのインスタント珈琲を口に含み、喉の奥に流し込む。  マグカップ の底が見えてきた頃、ようやく気持ちの整理がつき、リビングを出た。  冷えた廊下を一歩ずつ踏みしめながら、主寝室の向かいの扉をノックする。 「薫、ちょっといいか?」  声をかけるが、返事はなかった。  仕方なく遠慮がちに扉を開くと、視界に写ったその景色に息を飲みこんだ。  白い壁と木目調のフローリング。  ただそれだけの、殺風景な空間。  急速に心臓が音を立て始めた。    勢いよくクローゼットを開けると、中にはマットレスと布団が整然と片付けられていて、それ以外の彼の荷物が全て空になっている。 「っ薫……」  空虚な巣窟の中に、いつの間にか自分1人だけが取り残されていた。    大した説明もなく、一方的に関係を切ろうとした俺のことを責めもせず、薫は黙って家を出た。    自分から切り出したくせに、空き部屋を前に焦りとショックに打ちのめされる。  その場にいることに耐え難い苦痛を覚え、逃げ出すようにして部屋を離れた。  リビングに戻ったものの、足が地につかない。  胸が苦しかった。  心拍が早まり、肩で呼吸を繰り返す。  あいつがもうこの家からいなくなっていたことに、ひどく動揺する自分がいた。      今の今まで気が付かなかっただなんて、俺はなんて呑気なんだろう。  気付いていたら、最後に話をすることくらいできたはずだった。  視界の端に、ローテーブルに置かれた鍵が映り込む。  俺達の現実がそこにあった。  徐ろに手に取ると、それは悲しいくらい冷たくて、薫の熱を感じ取ることはできなかった。  冷静に考えれば、結果的には何も伝えなくて良かったのかもしれない。  俺が理屈を並べ始めると、あいつはきっと納得しなかった。    薄情な奴だと恨まれても仕方がない。  憎んで恨んでくれれば、それだけ早く気持ちを切り替えられるはずだ。  改めて周りを見渡すと、彼が持ちこんだ植物が置かれたままだった。   ──緑があると部屋の雰囲気も良くなるし、空気が浄化されてる気がしませんか?  キッチンカウンターに置かれたポトスの葉が、足元へ向かって垂れ下がっている。  あいつが持ってきた時には、ここまで長くなかったんじゃなかったかな。  今年の夏に伸びたのか。 ──こうやって愛でてると、日々の状態が分かるようになるし、新しい葉が出てきた時には凄く嬉しい気分になるんですよね。時間をかけたらかけた分だけ情が湧くし、愛しいと思うようになる。人と同じじゃないですか。    手入れの行き届いたその瑞々しい葉に触れるうち、輪郭が滲んでぼやけてきた。  薫が好きだった。  本当に、大好きだったんだ。  深い愛情をかけて世話されて、昨日より今日、今日より明日と育っていた芽を自らの手で摘み取ってしまった。  これから先、俺は何を糧に生きればいいんだろう。  しばらく忘れていた感覚が蘇ってくる。  孤独だった。  慣れていたはずだったのに、今は耐え難い苦しみを伴っている。  冷えたソファに横になると、何もかもを遮断したくて視界を閉じた。  喉が震えそうになるのを必死で押し殺す。  瞼の向こうに彼の姿があった。  掻き消したいのに、いつもの温かな眼差しでこちらを見つめている。  もうそんな目で見られることもない。  そう思うと哀しみに飲まれそうになり、抗うように無機質な白い天井を睨みながら奥歯を噛み締めた。  現実逃避して眠りたいのに、睡魔は彼方に去っている。  思えば、安眠できるようになったのもあいつのおかげだった。  時間が経てば、この辛さからも逃れられる日が来るだろうか──。    虚空の中に、いつまでも薫の面影を偲び続けていた。
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