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家を出ると、俺の数メーター後ろを歩く尊の気配を感じながら腰越へと向かった。
地下鉄上大岡駅から俺のマンションがある戸塚駅で降りる。
そこからJRの熱海行きに乗り換え、藤沢駅で下車した。
連休の観光客で、俺たちと同じく江ノ電に乗り換えようとする人の流れが出来ている。
先頭車両は特に人気で、他の車両に比べて乗車待ちの列が長い。
比較的少ない3両目の列に並ぶと、後ろを振り向いた。
相変わらず数メートルの距離を置いて辺りの様子を窺う不審者がいる。
周りを見渡すが、当然ながら知り合いらしき人物は見当たらない。
『来いよ』
自分の隣を指差した。
渋々、重い足を引き摺りながら肩幅一つ分の距離を置いて隣に立つ。
「結構混んでんな」
「心配?」
「そりゃまあ……」
表情が冴えない。
連休に外へ連れ出したことへの責任を感じていると、鎌倉方面からビリジアングリーンのレトロな車体が滑り込んできた。
折り返し運転で再び鎌倉方面へと向かう電車だ。
「江ノ電ってさ、いつ見てもワクワクするよな。このローカルな感じ、めっちゃ好き」
声が弾んでいる。
隣に目を向けると、まるで少年のように無邪気な笑顔を見せる尊がいた。
ようやくこの外出に楽しみを見出せたようで、内心ほっとする。
江ノ電様々だ。
藤沢駅を出ると、10分ちょっとで腰越駅に到着した。
どの店で昼飯を食べるかは俺に任されていたが、昼の混雑を避けるため、開店時間の11時前には店に到着する予定だった。
腰越駅前は生活道路が取り付いている。
住宅地を道なりに東へ進むと、狭い路地を南へ曲がった。
海沿いの国道に出ると、左手に生しらすを提供する店が見えてくる。
開店前から並んだおかげで、スムーズに店内へと案内された。
海鮮を提供する店のイメージとは異なり、木目調が目を惹くカフェのように落ち着いた空間だ。
窓際のテーブル席に向かい合わせに座ると、メニュー表を2人でのんびり眺めた。
こうやって外食するのも、久しぶりのことだ。
同じ職場にいた頃は、残業帰りに2人で飲みに行くこともあったが、異動後は関係を怪しまれることを怖れ、プライベートでの外食には一切付き合ってくれなくなった。
寂しいけど、仕方がない。
嫌々付き合わせても意味がない。
注文を済ませて待っている間、尊がふと顔を上げた。
「飯食ったらもう帰る?」
「どっか行きたいとこでもある?」
「いや、行きたいとこって言われてもなぁ……。ただ、折角朝から気合い入れて来たんだしと思って……」
「うん確かに。尊の相当な気合いのおかげでここに来れたことに感謝してる。あ、あんころ餅の美味しいお店が実家の近くにあるんだけど、買って帰る? こっから電車で15分くらいの距離だけど」
彼は酒も飲むが、甘いものも食べる。
幸か不幸か、それが肉として身体につきにくい燃費の悪い体質だが。
「いいね! 食べたい。あ、あと安産祈願の神社で有名なところがあれば寄りたいんだけど」
「ああ、俺の子産む?」
「あほか。塚っちゃんが来週から産休入るだろ? 御守り渡してあげたいなと思って……」
やられた。
こういうところだ。
尊の良き上司っぷりが冴え渡るのは──。
塚田さんは彼の同期で、俺と同じ係で働く今年31歳の女性職員だ。
色白の肌にはっきりとした二重瞼の猫目美人で、さばさばとした男勝りな性格をしている。
俺がその事実を知ったのは、彼女が妊娠して5ヶ月が経ってからのことだった。
仕事を休みがちだった原因は、悪阻にあったらしい。
尊は直属の上司だったし、同期でもあったため、早くからその事実を把握していたようだったが、俺にも内緒にしていた。
人のプライバシーに関することについては、公私混同せずきちんと配慮する。
そんなところも、彼の真面目な性格を物語っていた。
「係長に想われて、塚田さんは幸せでしょうね」
ふと本音が溢れるが、相手は嫌味と捉えたようだ。
「何だよそれ。係のみんなからってことで渡せばいいだろ。その方がきっと塚っちゃんも喜ぶよ」
「はいはい、わかりました。じゃあ、長谷寺に御守り買いに行きましょう」
そこへ、オーダーしていた丼が提供された。
釜揚げしらすと生しらすが半分ずつ盛り付けられていて、今が旬の生しらすは透明度が高く、光の加減できらきらと輝いて見える。
そこに小鉢と漬物、味噌汁が添えられていた。
「うまそー!」
手を合わせると、早速口一杯に生しらすを掻きこむ。
どちらからともなく、互いに目を合わせた。
臭みは一切無く、ぷりぷりとした弾力と喉越しが最高にうまい。
無言で丼と向き合うと、外で列を成して待つ客に配慮し、早々に店を後にした。
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