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第1話 発令
「尊! 弁当忘れてる」
玄関先で革靴を履いていた俺の背後から、橘 薫が弁当鞄を持って廊下を歩いてきた。
高身長ですらりと伸びた手足、ワックスの効いた黒髪の下に覗く切長の瞳が俺を見つめている。
奴も既にスーツに着替えていた。
同棲を始めて3ヶ月。
勤め先は同じだが、世間の目を気にして出勤時刻は敢えてずらしている。
それが2人の間のルールだった。
いや、正確には一緒に出勤しようとするコイツを拒んで俺が決めたルールに従わせているだけだが。
「ごめんな、ありがと。行ってきます!」
「行ってらっしゃい。あ、待って」
長い腕を俺の胸に伸ばすと、スーツに付けていた徽章の位置を調整してくれている。
「発令式、緊張する?」
「いや、もう何回も経験してるしなぁ。それより新職場ってのが緊張する。部下も知らない奴等ばっかだし」
「尊なら大丈夫。綺麗で優しくて可愛いから、すぐに受け入れてもらえるよ」
「ふざけんな、お前目線だろそれ──」
まだ文句を言い終わらないうちに、その大きくて温かい手が俺の腕を引いた。
整髪料特有の、華やかで爽やかな果実の香りが鼻に抜ける。
ふいに頬に触れた唇の感触に顎を引くと、俺を横目から流し見る強い眼光に胸を衝かれた。
その瞳に帯びる感情は、媚びでも甘えでもない。
殺風景な面差しの奥に、野生的な本能が垣間見え、捉えたものを離さない。
橘は、そんな魅惑的な炯眼の持ち主だった。
「行ってらっしゃい。今日の晩飯は尊の好きな生姜焼きにする」
棒立ちしていた俺を見下ろし、さも何事もなかったかのような顔をして微笑を浮かべている。
5つも年下で、昨年度までは俺の直属の部下だったにも関わらず、こいつのペースには振り回されてばかりだ。
マンションを出ると、最寄り駅となる市営地下鉄上大岡駅までの下り坂を一直線に歩く。
駅から勤務先の横浜市役所までは、電車で13分の距離だ。
俺は、昨年度まで河川事業課で工事担当の係長を任されていた。
そこで、地元の有力者を相手に、河川改修事業に必要な用地の買収交渉を進めようとしていたが、事業への理解が得られず難航を極めた。
そこに輪をかけて、事業の停滞を良しとしない課長からのパワハラを受け、潰れそうになっていたところを、まだ付き合い始めて間もなかった橘が「全力でサポートするから」と、半ば押し切られる形で同棲を始めたのだった。
宣言どおり、毎日毎食、気持ちの込もった手料理を作ってくれ、掃除に洗濯と家事全般をこなしてくれる奴の甲斐甲斐しさには、目を見張るものがある。
混み合う通勤ラッシュの人波に呑まれながら、片手に持つ弁当の重みを感じているうちに今日もやる気が湧いてきた。
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