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たまにであればまだマシなのだけれど、日常的なこととなると、結構キツい。虐待の話だ。確固たる蔑みの意を持って戯れるようにして虐げてくるのはゲイリー・ジュール侯爵の長女と次女。十八歳のアナスタシアと、十七歳のエレクトラ。二人はわたしの腹違いの姉だ。二人とも顔を見つけるなり薄笑いを浮かべ、わたしの頬を張ったり、足を踏んだり、ほうきの柄の先でおなかを突いたりする。痛みではなく、そうされることがあたりまえになっているという事実のほうがつらいし、めんどくさい。罵倒の声も耳障り極まりない。
わたしの生まれは貧乏な子爵家だ。早くに夫を亡くした母・ヒョウカは、ある日、庭師の男の強姦に遭った。それが原因で精神のバランスを著しく崩し、環境を変えれば回復が見込めるのではないかという理由のもと、遠い親戚であるジュール家に引き取られた。ゲイリーはむかしから母に目をつけていたらしい。だから、面倒を見ることにしたのだ。そのひどくどす黒い視線に気づいたとき、母はどれほどの恐怖を感じたことだろう。それを考えると、やりきれない思いに駆られる。わたしという子をゲイリーとのあいだにもうけたことについて、母に真意を訊いたことはない。もう訊くこともできない。とっくに自殺してしまったから。やはり相当、病んでいたのだろう。庭師に強姦されたこととゲイリーに犯されたことで、ついには心が壊れてしまったのだ。
母が命を絶った家だ。そんな場所にはいたくない。でも、わたしのルーツである子爵家が爵位を剥奪され、いよいよ貧乏さに拍車がかかってきた以上、ここジュール家で過ごすしかない。悲しいが、仕方のないことだ。
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アナスタシアもエレクトラも美しい金髪にグリーンアイを有している。じゅうぶんに美貌のひとだ。一方のわたしはというと、母親譲りの黒い髪に黒い瞳。顔立ちは幼く、十五という年齢から一つ二つ差っ引かれて見られるのはざらだ。ゲイリーは淑やかな黒を好み、だからだろう、給仕としてとはいえ、わたしを家に置いたままでいるのは。要するに、やがてわたしも彼の相手をさせられるかもしれないということだ――否。かもしれないのではない。決定事項に限りなく近いだろう。それが嫌なら逃げればいい。だけど、逃げてどこに行く? どこに行けばいい? にっちもさっちもいかないのであれば、母と同じくナイフで首筋を掻っ切って死ねばいいのだろうか。それは怖い。とても怖い。わたしに欠けているのは意気地なのだと思う。
屈辱感を覚えなくなったのは、いつからだろう。夕食の際、カボチャの冷製スープが入ったガラスの器を、アナスタシアがわたし目がけて投げつけてきた。「まずいわ。こんなものを食べさせようだなんて、頭がおかしいんじゃありませんこと?」などと言う。器はわたしの頭に当たり、少々切れてしまったらしく、額を伝って細く血が流れてきた。わたしは「申し訳ありません」と頭を下げる。理不尽な目に遭っているのはわかっているのに、反抗心や敵対心はあいまいで薄っぺらい。情けないとは思わない。ただ悲しいし、むなしい。生きることに意味や価値を見出せないのも無理はないと自分でも思う。明るい性格であれば、もう少し、違った感じ方ができたのだろうか。でも、そんなことを言いだしたところできりがない。
わたしが我慢すればいい。
わたしだけが我慢すれば、すべてはうまく回るのだ。
エレクトラに「跪いて謝りなさい」と言われれば従う。アナスタシアに「私の靴を舐めなさい」と言われれば、やはり従う。ほかの給仕は誰も助けてはくれない。くすくすと笑ったりはしないが、物申してやろうという気概は感じられない。そこにあるのは憐れみだけだ。
頭から血を流しつつ、アナスタシアのヒールの先をぺろぺろと舐める。馬鹿馬鹿しい行いでしかないのだろうけれど、わたしの日常にあっては、そう珍しいことでもない。人生自体が悲劇なのかもしれない。そんなふうに考えてしまうからだろう。徹底抗戦の意志は、どうしたって生まれない。
ふらふらする心、自我。
どこかに置いてきてしまったプライド。
生きている感覚自体が不確かで、ふわふわしている。
えいやぁで死んでしまおうか。
わたしに必要なのは、やはり踏ん切りをつけるだけの勇気なのだと思う。
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ジュール家の屋敷では、定期的に催し事がある。今夜も立食形式のパーティーで、様々な料理が出席者に振る舞われる。大きな皿を並べたり、食器を下げたりと、わたしはせっせと働いた。ひとの目がある場においては、令嬢姉妹も無茶な要求をしてきたり、人非人のような振る舞いはしない。その美貌をもって男性を魅了し、彼らに囲まれ、自慢げで得意げな表情を浮かべるだけだ。とにかく楽しそうに映る。
炊事場に皿を運んできたときのことだった。「フェイ、ちょっといいかい?」と声をかけてきたのは給仕長の中年女性。比較的、わたしに優しく接してくれる。でも、わたしが二人の姉に虐げられているときは、だんまりを決め込むように努めているみたいだけれど。
「いましがたおいでなさった若い男性に、フェイを呼んできてくれって言われたんだ」
当然、わたしは訝しみ、人違いだろうと結論づけた。
わたしに友人なんていないからだ。
その旨を伝えた。
「フェイ・ツキシタとおっしゃっていたから間違いないよ。そうでなくても、この屋敷にフェイはあんたしかいないじゃないか」
わたしは耳を貸さず、白い皿を洗う。
すると、給仕長にその皿を奪われ。
「いいから行っておいで。あの方はどこぞの立派な貴族に違いない。だったら、無視をするわけにはいかないだろう?」
わたしは鼻から息を漏らし、嘆くようにして小さく首を振ってから、男性の特徴を訊ねた。
「奥の壁際に立ってらっしゃる美青年さ。肌は褐色。碧色の瞳が綺麗だ。黒い背広にえんじ色のネクタイを合わせてる。なに。一目見ればわかるだろうさ」
わたしはやむなく炊事場を出て、ホールに向かった。
――その人物はホールの壁に背を預けていて、わたしを見つけると、にこりと目を細めた。さらに微笑み、小さく手を振ってみせる。どうしてなのかはわからないけれど、顔を見ただけでわかったらしい。給仕の恰好をしているまごうことなき給仕であるわけで、だから一直線にホールを横切るのは気が引けた。壁沿いを歩き、迂回する格好で男性のもとへと至った。
すらりと背の高い美青年。波打つ黒髪をポニーテールに結っている――が、女性的な感じはない。まとう雰囲気はあくまでも男性的なものだ。ともあれば見つめてしまいそうな碧色の瞳は、どんな宝石より気高く見える。
なんの前触れもなく、わたしは男性に抱き締められたのだった。
「ヒョウカの娘よ。私はきみに会えて、とても嬉しく思う」
ヒョウカ。
母の名前。
この男性は母を知っている?
「ああ、そうだ。わたしはきみの母上を知っている。辺境の国家に傾国の美貌を持つ女性がいると耳にしてね。どうしても会ってみたかった。会ったのは一度きりだ。一度だけ会うことにこそ価値があり、また、それがすばらしい行動だと考えた」
よくわからない言い分に、わたしは首をかしげた。
「ヒョウカが悲惨な最期を迎えたことは、最近、知った。ゆるせない事象と言える。私は悲しくてしょうがない。彼女にはずっと元気でいてほしかった」
凪のように穏やかな口調で話してくれた男性が、ようやく離れてくれた。男性はわたしの両肩にそれぞれ手を置き、この上なく優しげな笑みを向けてきた。
「会うのは一度きり。そう決めはしたが、いまの私は多少ならず後悔している。だからこそ、せめてきみのことは守りたい。どうか私とともに来てくれないか?」
困ったし、怖さも覚えた。初対面の男性にいきなり「一緒に来てほしい」などと言われても……。ひょっとしたら、いまの状況よりはマシになるのだろうか。でも、やっぱりすぐには決断できない。わたしは答えを保留した。死にたいと思っているのに、どうなってもいいと考えているのに、変な話だ。
名前くらいは聞かせてもらおうと思い、訊ねた。
「私はレオンハルト。魔王をやっている」
そんなふうに、冗談みたいな返答があったのだった。
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ぼろの屋根裏部屋がわたしのささやかな居場所だ。ベッドの上でひとの気配を感じ、目を開けるとレオンハルトの姿があった。わたしの寝顔を覗き込んでいたらしく、にこりと笑んでみせる。いったいどうやって、この部屋に入ったのか。それでもそれほど怖いとは思わなかった。彼の物腰が柔らかいからだろう。
身体を起こして、眠い目をこする。
「フェイ、いいのか? ずいぶんと寝坊をしているように思うが」
月に一度だけ、休暇がある。今日がその一日だ。
あの日、あの夜、レオンハルトから冗談みたいな素性を聞かされたわけだが、不思議とわたしはその言葉を信じてみようという気持ちになりつつある。本人に超絶した雰囲気があるからだ。
ここからずっと離れたところにある大帝国の中心地、帝都。魔王の軍が当該を支配地にしてから、もう久しいと聞く。帝都を焼いたのがレオンハルトなのかもしれない。そんな危なっかしい男が目の前にいる。なんだかおかしく思えてきて、わたしはくすくす笑った。
「そうだ。もっとたくさん笑ったほうがいい。きみは花のように美しいのだから。ところで――」
なんの話だろうと思い、小首をかしげた。
「私が魔王だと謳ったところで、正直、怪しいと思うだろう?」
実際のところは、そのとおりだと考え、うなずいた。
「だったら、とりあえずニンゲンでないことくらいは証明しよう。これからきみを抱いて、空を舞おうと思う」
わたしは驚き、目を見開いた。次の瞬間、わたしの口から「きゃっ」と小さな悲鳴が漏れた。レオンハルトに横抱きにされたからだ。「目を閉じて」と言われ、その指示に従った。するとまもなくして、頬に風を感じた――たしかにわたしは空に浮いていたのだった。彼はまた、にこりと笑んだ。
「ヒョウカの娘よ、きみはほんとうに美しい。ゲイリー・ジュール侯爵はでっぷりと太ったカエルのような存在だったが、きみを生む要因の一つになったことについては、感謝しなければならないな」
わたしは思いやりを知らずに育った。だから、誰かを思いやることもできなかった。だけどいまのわたしはわたし自身に価値を見ている。世界は案外、美しいのかもしれない。
期せずして、わたしの両の瞳からは涙が溢れたのだった。
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わたしはニンゲンで、レオンハルトはそうではない。帝都を滅ぼした件もある。人類の敵に違いない存在においそれとついていくわけにはいかないと考えたりもするのだけれど、その矢先に、また彼がやってきた。今日も黒い背広姿。「頃合いだろう。きみをもらい受けるべく参上した。ゲイリー・ジュール侯爵と話がしたい」とのことだった。魔王と名乗るのかと訊いてみた。「まさか」との答え。「貴族を謳う」と言うと、ウインクをして見せた。
ゲイリーはレオンハルトの申し出を拒んだ。当然だ。実った時期を見計らって、ベッドの上でわたしに覆いかぶさることを望んでいるのだから。ゲイリーのそんな下卑た考えを覆すだけの条件を、レオンハルトは提示できるのだろうか。心配だと思いながら彼の隣に立ったまま話の行く末を見守っていると、「金をお支払いしましょう」と言いだした。ゲイリーが食いついた。「いくらだ?」との問いには、「言い値でかまいません」と答えた。これにはゲイリーも折れた。豪快な笑い声を部屋中に響かせ、「金には代えられんからな。家を大きくするには金が欠かせん」と満足そうに言った。下品なゲイリーのことは、やはりどうしたって好きにはなれない。
わたしはレオンハルトに「三日後に迎えに来てほしい」と告げた。あと三日、仕事をこなせば、満足感や達成感が得られると考えたのだ。最後までやりきった、がんばったという事実が得られれば、強くなれるような気がした。
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ジュール家の夕食時。なにか言いつけられてもすぐに対応できるよう、食堂の壁際に立っていた。食事を終えたアナスタシアが、「私の部屋に来なさい」と声をかけてくる。エレクトラと一緒に立ち上がった。また折檻だろうと思うと気が滅入りそうになる。だけど、三日間はやり通すと決めたのだ。その思いは絶対的であり、その誓いは蔑ろにできない。
アナスタシアの部屋には給仕長ともう一人、執事の若い男性がいた。なにをされるのだろうと思っていると、男性にいきなり腹を蹴られた。膝蹴りだ。効果は抜群。酸っぱい物が込み上げてきて、醜い液体を吐いた。たがいに姿を見かけたら笑顔を向け合う仲なのに。男性は悪いひとではないはずなのに。アナスタシアとエレクトラに命令されて不本意ながらも従ったということだろう。誰だって働き口を失うのは嫌だ。
「また蹴られたくなければ、とっとと服を脱ぐのですわ」
アナスタシアの声は低く、怒気にも似た響きを孕んでいる。わたしは仕方なく給仕服を脱いだ。白い下着姿。晒してみると、とても恥ずかしい。胸と陰部を手で隠し、身をよじると、また腹に膝。いよいよ耐えられなくなってがくりと膝から落ちる。今度は強い力でうつ伏せにさせられた。男性に左腕を、給仕長に右腕を押さえつけられる。足をばたつかせようにも恐怖で身体が動いてくれない。いったい、なにをされるのだろう……。
――アナスタシアがナイフを使って、わたしの背に線を引き始めたのだった。痛い。とても痛い。何本も何本も引く。そのたびわたしの口からは、あるいは官能的に聞こえなくもない苦痛の声が漏れる。わたしは訊いた。いくらなんでもいきなりエスカレートしすぎだから。そのわけを聞かせてもらいたかった。そもそもわたしは言ってみればもはやレオンハルトの奴隷なのだから、傷物にしてしまったら問題になるだろう。彼は怒るはずだ。それがわかっていながらの虐待。アナスタシアには、なにか思うところがあると見て間違いない。
「レオンハルト様というのですね」
「どこでそれを?」
「そんなことはどうだっていいでしょう?」
「……はい」
アナスタシアはまだ線を引く。
それから、いまある気持ちを打ち明けた。
「あなたごときがあのような美しい男性に見初められるだなんて、到底、ゆるすことなどできませんわ」
ということは、わたしを殺そうというのだろうか。でも、ナイフでいたぶっているだけでは、死をもたらすことなどできやしないだろう。だったらどうやって……。ひょっとして、次は強く突くつもり?
部屋の戸がノックされた。誰か入ってきたようだけれど、うつ伏せを強いられている状態では確認できない。背中が痛い。傷つけられたことがよほどキツかったのか、なんだかぼーっとしてしまう。「ねえさま、どいてくださいませ」エレクトラの声だ。なにをされるのだろう。ほんとうになにを……。
次の瞬間、わたしは悲鳴を上げた。
たくさんの傷がある背に、熱湯をぶちまけられたのだった。
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ナイフの傷もやけども致命的なものにはならなかったけれど、レオンが迎えに来てくれた夜、わたしは痛みで動けなかった。動けないものだから、事情だけ包み隠さず打ち明けた。レオンハルトは怒りはせず、ただただ冷めた目をして「そうか」とだけ呟いた。屋根裏部屋のぼろのベッドでうつ伏せになっているわたしの背に、彼が触れる。痛いと感じるより先に、背中になにか温かいものがふわりとのったような感覚に陥った。それからすぐに痛みが引いた。「痕については向こうでゆっくり治そう」とのこと。「きみが傷つくと、自分のことのようにつらい」という言葉には深い愛情を感じた。
レオンハルトはわたしをそっと横抱きにし、また瞬間移動。次に空間を認識したとき、これはどこかの城の通路だろうと予想した。大きな城なのだろう。幅広の石畳の通路は螺旋状になっているらしい。燭台の数は少なく、薄暗い。
レオンハルトはわたしを通路に立たせ、部屋へと導いた。
「部下に言って綺麗にさせた。自由に使ってくれてかまわない」
わたしは痛みをなくしてくれたこと、加えて、ほんとうに家から連れだしてくれたことについて、感謝を述べた。
「怪我の痕を消すことは簡単だが、そのまえにすべきことがある」
すべきこと??
怪訝に思い、首をかしげる。
「二人を迎えに行くのさ」
二人?
それってまさか――。
レオンハルトはその場からパッと消えた。
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ほんとうにすぐに戻ってきた、レオンハルト。彼はまたわたしのことを横抱きにすると、またもや一瞬で別の場所へと降り立った。一目で留置所、あるいは刑務所の類だとわかった。牢屋がいくつもある。饐えたような悪臭が鼻を突く。どの牢の中にもひとはいない。明かり取りから月明かり申し訳程度に差し込んでいる。
まっすぐに続く通路を半分ほど進んだところで、ひとを見つけた。牢の中に二人の姉の姿があった。相変わらず、値が張りそうな着衣だ。ブラウス一つとってもいくらするのか。アナスタシアが「レオンハルト様、ひどいですわ。なぜ私たちをこのような場所に?」と訊いた。エレクトラも「そうですわ」と同意する。二人とも少なからず面食らい、動揺しているように見える。実際、そうだろう。こんな得体の知れない気味の悪い場所に――しかも一瞬で連れてこられて、驚かないわけがない。
「きみたちはフェイに対して、それはもうひどい仕打ちを続けていたようだね」
アナスタシアは「のろまなフェイが悪いのですわ」と、ひどいことを述べてくれた。
「熱湯はやりすぎだ。へたをしたら死んでいた」
「いま、生きているのだから、問題はないのではありませんか? そして、もう私たちが手を下すこともできないわけですから、安心でございましょう?」
「そうか。きみはなにも反省していないのか。妹君のほうはどうかな?」
「妾の子に人権なんて……」
二人とも、まるで自らの正当性を謳うような口振りだ。
「もはや見損なったいま、私自身、きみたちには相応の罰が必要だと考えている」レオンハルトの冷静な声。「フェイ、きみは彼女たちに仕返しがしたくても、やり方がわからないだろう?」
というより、やり返したいのかどうかすらもわからない。憎しみはある。怒りも。ただ、わたしは生きている。だったらもう、それだけでよいのではないのか。最初は早く出せだのなんだのとうるさかったけれど、いまはもう、「ねぇ、出して? お願いよ、フェイ」などと下手に出てきている。大部分は演技だとしても、少しでも悔いているのであれば――。
「きみはもう少し、残酷になるべきだ」
レオンハルトの声のトーンは無情な響きを持つ。わたしは彼を見る。碧色であるはずの彼の左の瞳が真っ赤な光を放っていた。恐ろしげに映る。まるで悪魔――やはり魔王なのか。母がジュール家に身を置くようになってからのことを思い返す。庭師に強姦されて以来、おかしくなってしまった母は、さらにゲイリーに望まぬ性交を強いられ、結局、ナイフで首を掻っ切って死んだ。わたしはわたしでただただ事務的に育てられ、気づけば二人の姉から虐待を受けていた。いったいわたしが、わたしたちがなにをした? そう考えると、ふつふつと湧き上がるものがあった。
わたしはお願いしますという意味を込めて、頭を下げた。「よろしい」と満足げに応えたレオンハルトは、「ただ、手を下すにあたって、フェイ、私と一つ、約束してほしい」と言った。なんだろうと思い、わたしは目をぱちくりさせる。
「私ときみと強い絆で結ばれたい。生きてゆくのも一緒だ。死体となるときも一緒だ。切り離すことはゆるされないし、ゆるさない」
わたしに妻になれということだろうか。
そんなふうに考えていると、「そうだ」と言われた。
「きみはもう、私のものだ」
投げやりになったわけではない。魅力的な条件だと感じたわけでもない。ただ「そういう生き方もアリかもしれない」とは思った。魔王とニンゲン。レオンハルトとわたし。善悪の境界線なんて、もはやどうでもよくなっていた。
魔王然とした邪悪な笑みを浮かべ、真っ赤な左目をしたレオンハルトは牢の中の二人と改めて向き合った。彼女らは身を寄せ合い、抱き合うようにして身を震わせている」
まもなくして、レオンハルトの瞳の色が碧色に戻った。
「もう済んだ」
済んだ?
なにがだろう。
考えを巡らしていると、彼は「きみたちを一生、この牢に閉じ込めることにした」と宣言した。
二人は「えっ」と声を発し、アナスタシアは「そ、それは嫌ですわ。ごめんなさい。これまでのことは謝罪いたしますわ」と焦ったように言い、エレクトラは「戯れが過ぎたわ。フェイ。わたしはほんとうは嫌だったのよ」と弁解した。
「それでも一生だ」静かでありながら、はっきりと物を言うレオンハルト。「この環境では一週間もしないうちに気が狂ってしまうだろうが、容赦はしない。これは生物の尊厳に関わる問題なのだから」
「たかが虐待だというのに……」悔しげな、アナスタシア。「いいですわ、かまいませんわ! 気が狂うまえに舌を噛み、命を絶ってご覧にいれますわ!」
「それはかなわない」
「なぜですの?」
「きみたちには魔法をかけた」
レオンハルトは懐から取り出した細いナイフを、牢の中へと投げ入れた。
「さて、突然だが、どちらか一人は出してさしあげようと思い直した。そのナイフを有効に使って、どちらかだけが生き残ってほしい」
その言葉を聞くや否や、アナスタシアが動いた。素早くナイフを拾い上げ、素手のエレクトラに刃を向ける。
「おねえさま……」
「エレクトラ、あなたのことは嫌いではないけれど、私のほうが価値のあるニンゲンなの。だから、お願い。死んでちょうだい」
ひどい話だと思う。たった二人の姉妹なのだ。だったら、どちらかが自らの命を絶つことで相手を生かそうとしても、まったくおかしくないのに。
アナスタシアがエレクトラの腹部を刺した。白いブラウスが見る見るうちに赤く染まる。アナスタシアはナイフを抜き、エレクトラは傷を押さえたまま、膝から崩れ落ちた。かっと目を見開き、狂ったように「痛い痛い痛い痛い!」と叫ぶ。レオンハルトは冷静沈着。「死にはしない」と冷たい口調で述べ、「正確には、どんな傷も無意味だ」と告げた。
「エレクトラの血はもう止まっている。すぐに止まるんだよ。痛みは感じてしまうがね」
「どういうこと、なの……?」
「だから、アナスタシア、私の魔法によって、きみたちは死ねない身体になったんだよ」
「死ねない……?」
レオンハルトはまさに魔王のように高らかに笑った。
「舌を噛もうが心臓を刺そうが生き続ける。それがいまのきみたちだ。この牢をきみたちの永遠の居場所とする。生ける屍どもと同居させてやろう。性に強い執着を持つぎらついた彼らのことだ。年がら年中、発情期でもある。膣が腐っても行為をやめたりはしない。恐ろしいだろう?」
「ま、待ってくださいませ、レオンハルト様! ですから、私たちはもう反省したと!」アナスタシアは「フェイ! いくらなんでもこれはあんまりですわ!」とわたしに訴えてきた。「ゆるしてちょうだい! なんでもするから!」
いくらなんでもこの仕打ちはやりすぎではないかとも考えた。だけど、それ以上の感情を抱くことはなかった。二人が死んだところでわたしには関係ない。涙一つ流さないだろう。にしても、舌を噛んでも死なないということは、噛みきってもすぐに生えてくるということだろうか? たとえば首を切り落としたらどうなるのだろう。その点については二つほど案が浮かんだ――浮かんだだけだ。二人のことなんてもはやどうだっていい。
どうやらわたしの根っこは思ったよりも腐っていて、頭の中には悪魔的ななにかが巣食っていたらしい。揃って格子を握り、「助けて!」と懇願してくる二人に対して、わたしはゆがんだ笑みを向けてやった。憎たらしい声で「ざまあみろ」と言ってやった。
レオンハルトが、クックと喉を鳴らした。
「気は済んだかな?」
「ええ。でも、勘違いしないで。わたしはあなたのものじゃない。あなたがわたしのものなのよ」
「愛している、と?」
「顎で使ってやるって言ってるの」
「気が強いことだ。しかし、それも一興」
「だったら、永遠に仕えなさい」
「イエス、マイ・ロード」
片膝をついたレオンハルトが、私の右手の甲に口づけをした。くすぐったくはなかった。色艶に満ちた少々の快楽だけが得られた。
今日を新しい誕生日にしようと、わたしは決めた。
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