『鈴木』

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 笑いたい時に笑う。  それがどれほど難しいことなのかと知ったのは社会人になってからだった。  年齢という数字が増えていくごとに、人生の年表が増えていくごとに感情をそのまま表情にすることが難しくなる。  全ては円滑な人間関係を保つためだ。 「まだ入社五年目だろ。それにお前は仕事時間が短い。若い頃はな、誰よりも長く働くんだよ。朝は早くきて夜は遅く帰る! 分かったか? まったく、仕事を分かってないな」  同期入社した鈴木が課長にそう怒鳴られている。  わざわざ自分のデスクの前まで呼び出し怒鳴りつける課長は、まるで演説でもしているかのような声量だった。  声の大きさで競っているのかとさえ思ってしまう。せめて商品が国産和牛の塊だったらそれくらいの声を出してもいい。  そんなどうでも良いことを考える余裕があるくらい、俺は離れたところから見ていた。  実際の距離ではない。あえて存在しない言葉で表現するなら他人事度数が高いという意味だ。 「鈴木さんってそんなに仕事できないんですか?」  俺の隣に座る相澤がそう尋ねてくる。  こいつの目は節穴なのだろうか、と呆れながら仕方なく答えた。 「そんなわけないだろ。同期の中じゃあ一番仕事してるよ。ミスだって少ない」 「じゃあ課長はなんで鈴木さんを?」 「見てたらわかるだろ。鈴木は思ったことを全て言葉にしてしまうからな、簡単に言えば嫌われてるんだよ」  俺がそう答えると相澤は一気に興味を失ったかのように自分の仕事に戻る。  おそらく自分より仕事が出来ない人間を見つけて安心したいのだろう。  俺たちが誰にも必要とされていない会話をし終わったと同時に鈴木は課長に言い返し始めた。 「何言ってるんですか。仕事はかけた時間じゃないでしょう。効率と結果が全てのはずです」  おいおい、それが原因だよ。そう思いながら俺は自分の仕事を続ける。  確かに鈴木の言っていることは正しい。限りなく正論に近いだろう。仕事にかけた時間で褒め称えられる時代はとうの昔に過ぎ去った。  土偶や貝塚、古墳と一緒に並べてもいい。  けれど、未だ時代に乗り遅れた精神的難民が一定数いることも確かだ。  そういった相手と向き合う時に必要なのは自分を自分じゃないと思い込むこと。  相手の望む人間であることだ。 「多少、文句があってもヘラヘラしてれば結局は楽なのにな」  俺がそう呟くと相澤が不思議そうにこちらを見てくる。 「何か言いました?」 「いや、なんでもない。残ってる書類を片付けてしまおうか」  再び俺と相澤は仕事に戻った。  どうやら鈴木の言葉が課長のお猪口ほどの器から溢れたらしく、怒りのボリュームを一段階あげる。 「ふざけるな! 上司に口答えするのか」 「いや、会話になってないじゃないですか。今話しているのは、仕事を評価する基準ですよ。それに口答えじゃありません、意見です。より良い仕事をするために自分の意見を」 「それを口答えだと言うんだ! いいか、お前程度の社員が会社のことを考える必要はない。言われたことを言われた通りにするだけだ」  横暴な言い方をする課長。すると鈴木は呆れたような表情でこう言い返した。 「話になりませんね。何のために仕事をするのかを考えることは何よりも大切なことでしょう?」 「知った風な口を聞くな! お前と話していると気分が悪くなる。ちっ、私は帰るぞ、あとはやっておけよ!」  好きなだけ言いたいことを言った課長は荷物をまとめて事務所を出ていく。  冷ややかな視線で背中を見送った鈴木は深いため息をついてから自分の荷物をまとめた。  ようやく壮大な演説が終わった、と安心した俺は帰宅しようとしている鈴木に声をかける。 「災難だったな」 「ああ、声の大きさが正しさだと思っている相手には何を言っても仕方ないしな」 「それにしたって、もっとやり方はあるだろ。作り笑いの一つでも演じてれば楽だろうに」  茶化すように俺が言うと鈴木は意味深に口角を上げた。 「それは俺なりに・・・・・・いや、お前はそれが正しいと思うのか?」 「正しいとは思わないさ。だけど、相手に合わせることも大切だろ」 「間違ってる相手に合わせて自分も間違うのか? 腐った蜜柑って・・・・・・まぁ、いいさ。俺も帰るよ」  鈴木はそう言ってから事務所を出て行った。  腐った蜜柑。その意味はわかる。だが、大人になるとはそういうことじゃないのか。  誰だって仮面を被って生きてるに違いない。  鈴木を怒鳴りつけていた課長だって自分よりも上の人間には媚び諂うはずだ。  俺はそうしない鈴木に憧れながら見下している。 「現実社会は学力テストじゃないんだ。間違いを正すなんて簡単にできるわけないだろう」  そう呟いてから、鈴木のデスクに財布が置いてあることに気づいた。  どうやら忘れ物らしい。 「あー、まだ近くにいるかもしれないな」  自分に理由を言い聞かせ俺は財布を手に取った。  上司から嫌われている同期を見捨てない良い人間という仮面を被り、俺は鈴木を追いかける。  決して遅すぎない速度で走り、会社を出てすぐのところで鈴木の背中を見つけた。 「よかった。おい鈴木、財布を」  そこまで声に出してから鈴木が誰かと通話していることに気づく。  声が入ってはいけないと思い、静かに背後から近づいた。もちろん盗み聞きなんてするつもりではない。だが、鈴木との距離と反比例するように会話の内容が聞こえてくる。 「大丈夫だよ、父さん。バレる気配もない。もう五年も一般社員のフリをしてるんだからさ。うん、そうだね。・・・・・・え? 変わりそうにはないね。木崎課長だよ、ほらうちの課長」  木崎課長。先ほどまで鈴木を怒鳴りつけていたあの課長だ。  誰かと課長の話をしているらしい。 「前時代的って言えばいいのかな。とにかく、必要な人材だとは思えないんだ。うん、新入社員すら彼に染められているよ。うん、大丈夫。もう少し様子を見るよ。心配しないで誰も社長の息子だって想像すらしてないよ」  何も言葉が出なかった。  鈴木は『鈴木』という役を全うしていたのである。  社会に溶け込んだつもりでいた俺は役に溺れ、達観したフリをしていた。要領よく生きているつもりになって、分かった気でいた。  何枚も仮面を被り見えなくなっていたのだろう。  文字通り鈴木は役者が違った。
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