幕が下がりきるまで

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 祐樹が「滝沢和真」としてこの家にやってきて、約10年が経とうとしていた。  滝沢家の二人、彼の両親となった者たちは、彼に本当によくしてくれた。当然と言えば当然である。彼らは祐樹を本当の息子「和真」だと思っているのだから。  本当の息子の和真は7歳の頃突然いなくなってしまったそうだ。和真の失踪から6年後の秋、13歳の祐樹は警察に保護された。祐樹は元いた場所が嫌で嫌でしかたなく、逃げ出してきたのだ。帰りたくなかったので、警察には何を聞かれても記憶がないと答えた。 警察から連絡を受けた滝沢夫妻は、記憶喪失だと言う祐樹に面会すると、驚いたような顔をした。 「間違いありません…この子は私たちの息子、和真です!」 震え声で妻は言った。 「この首筋のほくろが二つ並んでいるのは、うちの子ですよ。」 夫も確信を持って頷く。  正直な話、滝沢夫妻は祐樹にとって全くの赤の他人だった。しかし、祐樹にとっては大きなチャンスだった。元の場所に帰らないで済むかもしれない。彼にとっては帰りたくない気持ちの方が、二人を騙す罪悪感や嘘がばれる恐怖心よりもはるかに大きかった。 祐樹は二人のことはぼんやりと思い出せる等と適当な嘘を吐き、滝沢家の一員となることに成功した。  今年から社会人となる祐樹は、最大限の努力をし、今までずっと本当の息子として過ごしてきた。しかし、この歳になって両親を騙し続けることに耐え切れなくなってしまった。両親の思いやりや愛情が祐樹の罪悪感を徐々に重たくしていった。さらに、祐樹はいつも本物の「和真」が現れることを恐れていた。 本当のことを言ったら、どうなるだろうか。 勘当されるだろうか。 警察へ突き出されるだろうか。 それとも…。  夕飯を食べ終わりのんびりと家族3人でお茶を飲んでいたいつも通りの夜。祐樹は意を決して、両親に真実を伝えた。  自分はどうなってしまっても、文句は言えない。ただ、ここまで育ててくれたことへの感謝と償う気持ちがあることは信じてほしかった。  祐樹の話を黙って聞いていた母親は、祐樹の手を握り口を開いた。 「正直に話してくれてありがとう。ちょっと…ショックが大きすぎて実感が湧いてないけれど…なんであれ、私にとってあなたはもう大切な家族なのよ。」 父親が祐樹の目を真っすぐに見てゆっくりと、言葉を選ぶように言った。 「嘘を吐いていたことはよくない。けれど、13歳だったお前が迷わずその選択をするほどの立場だったと思うと…むやみに責めることはできない。」 祐樹の目には涙が溢れた。自分は責め立てられ非難されてもおかしくない立場だ。そんな自分を「家族」であると、「むやみに責めることはできない」と思ってくれる。 両親は祐樹の思い出話に一通り花を咲かせ、最終的に今までの関係を続けることを提案した。 「話を聞いてしまった以上、なにもなかったように今まで通りにとはいかないかもしれないけれど…私はあなたとの関係を変えたくはないわ。」 「僕もだ。騙していたとはいえ、君は親思いの優しい、自慢の息子だ。」 祐樹は起こりえないと思っていた理想の結果に話が終わり、自分はなんて幸せ者なんだと胸をいっぱいにして、自室へと戻った。  祐樹が部屋へ戻りドアを閉めた音がした。滝沢夫妻は顔を寄せ合いひそひそと話し合う。 「まさか記憶喪失ではなかったとはね。結局、私たちにとってはより都合の良い事情だったけれど。」 「ああ。記憶を取り戻して、出て行くといわれたら厄介だからな。」  およそ16年前、実の息子和真は失踪したのではない。虐待により亡くなったのだ。滝沢夫妻に殺すつもりはなく、出来の悪い我が子への躾のつもりだったのだが。 罪に問われるのを恐れ、この夫婦は事件を隠蔽した。遺体は見つからないように処分したが、気が気ではなかった。 警察から「息子さんが見つかったかもしれません。」と連絡がきた時は驚いた。もちろん実の息子なわけはないが、記憶喪失の彼を利用しようと思い警察署へ出向いた。 記憶喪失の「和真」がいる限り、滝沢夫妻に疑いの目が向けられることはなく、遺体は絶対に見つからない。 また何かあっても困ると思い、一人目の反省を活かして優しく穏やかに接した。幸いなことに、二人目の「和真」は従順で優秀だった。 二人には心の平和が訪れた。 それぞれの思惑の元、彼らは役を演じ続ける。 それが終わるのは、人生の幕が完全に下がりきるまでかしら…と滝沢夫人は湯呑の底に残った苦い緑茶を飲みほした。
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