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sweet night
それは仕返しだったのか──ご褒美だったのか。
「あ……」
「え……」
花の金曜日。今日は仕事が終わったら湊の家に行く予定だった。数日前の電話でそう約束したのだから間違いないはずなのに。
ドアを開けた湊は心底驚いた顔をしている。
「そか……今日来るんだった」
「忘れてたの?」
目を丸くした湊は悪びれる様子もなく数回視線を彷徨わせる。
やましいことでもあるの、と思わず聞きたくなるような姿に、思わず玄関先の靴に視線を落とした。よく見えないけれど、確かにほかの誰かの靴がある。まさか湊に限ってそんなことあるわけ──。
「湊ー、あのケーブルさ……あ!」
湊の背後から聞こえた声に一度固くなった体が声の主に気付いてゆるりと力を緩めた。
「ヤマトさん!」
「りこちゃん!久しぶりだね。あれ?今日会う予定があったの?」
「……すっかり忘れてました」
頭をがしがしと掻きながら困っている湊に、少し焦ったような先程の態度の理由を見つけてほっと胸を撫で下ろす。
「仕事中なの?」
「うん、少し先輩と一緒にしたい作業があって」
「そっか……じゃあ今日は帰ろうかな」
「ごめん。今度埋め合わせする」
湊の後ろにいるヤマトさんに軽く会釈をしてドアに手をかけると、とんっと湊の体が揺れた。
「何言ってるんだよ!ここまで来てくれてるのに帰らせるなんて可哀想だろ」
ヤマトさんの肘で背中を押された湊は眉をしかめて振り返る。
「まだ作業があるのに、りこがいたら進まな……」
「ある程度終わらせたらまた明日でいいよ。ね、りこちゃんどうぞ上がって」
「あ、いやでも邪魔になっても悪いので今日は……」
「邪魔になんてならないよ。仕事疲れたでしょ、お茶でも飲んで」
「……ここ僕の家なんですけど」
「そもそも忘れてたお前が悪いんだろ!文句言わずお茶を入れて」
いつもはマイペースな湊がヤマトさんのペースに飲み込まれているのが新鮮で可笑しい。
「湊、私どうしたら……」
「先輩がうるさいから入って。適当に好きなもの飲んでていいから」
わいわいと言い合いをしながら二人が部屋に入るのを見送って、リビングの椅子に鞄をおろした。
ヤマトさんには敵わない湊の姿を思い出して、思わず頬が緩む。普段なかなかあぁいう姿を見られないから、今日は少しラッキーだったのかもしれない。
しばらく中の様子が気になったけれど、言われた通り冷蔵庫から水を取って、静かなリビングでテレビでもかけようと思った時、突然作業をしている部屋のドアが開いた。
「わ、びっくりした」
「ごめんちょっと出てくる」
「え?湊だけ?どうしたの」
「ケーブルの調子が悪くて。新しいの買ってくる」
上着を羽織った湊の後ろからヤマトさんも顔を覗かせる。
「湊、俺が行くよ。りこちゃんもいるんだし」
「いや、先輩はそういうの詳しくないでしょ。近くに店があるのですぐ戻ります」
「あ……それなら私が行ってこようか?画像を持っていけば種類も分かるだろうし」
「外、もう暗いから」
それだけ言い残すと湊は足速に出ていってしまった。
「ごめんねりこちゃん。二人で留守番になっちゃって」
「い、いえこちらこそです……」
ここ二人で残されたらさすがに気まずいよ!
そういうことを気にせず出ていっちゃうのが湊らしいというか、なんというか……。
私がいるから気を遣わせてしまっている申し訳なさと、ほんの少しの居心地の悪さに床に視線を落とすと頭の上から優しい声が降りてくる。
「湊、りこちゃんのこと困らせてない?」
「え?」
「あの子あんな感じだから苦労するでしょ」
呆れたような口調とは裏腹に優しいヤマトさんの声に、自然と頬が緩む。
「そんなことないですよ。湊はいつも……」
「いつも素直じゃない?」
「え、あ、それはそうですね」
つられるように口にした私にヤマトさんは声を出して笑っている。
「やっぱり苦労してるね。ごめんね、今日も僕がいたせいで二人の時間を取っちゃって」
「そんな!むしろ私の方がご迷惑を……」
「とういうか、誰が悪いって湊だよね」
「確かに……そうですね」
楽しそうな笑い声につられて笑っていると、「そうだ」と突然何かを思いついたように手を合わせたヤマトさんは自分の鞄を漁りはじめた。
「ねぇりこちゃん。仕返ししよう」
「仕返し?」
「湊、自分が約束を忘れていたくせにせっかく来てくれたりこちゃんを追い返そうとするし、仕返しするべきだよ」
ヤマトさんがあまりに楽しそうに言うから、まじまじと鞄を漁る手を覗き込んだ。
「何、するんですか?」
「あった、これこれ」
「香水……?」
ヤマトさんがカバンから取り出したのは、綺麗な瓶に入った香水。それをシュッとひと吹きすると、上品な甘さの中にほんの少しイチジクの香りが広がる。ヤマトさんから香る匂いと同じだ。
「いい香り。これってヤマトさんがつけている香水ですよね」
「そう、これいい匂いだよね」
ヤマトさんはそれを手にすると、作業部屋の隣にある寝室のドアを開けた。
「湊には内緒だよ」
何をしようとしているのか部屋の中を覗き込むと、ヤマトさんはシュッシュッとベッドに香水を振りかけている。
「よし、仕返し完了」
「これが仕返しになるんですか?」
これじゃ寝室がいい香りになっただけじゃ……。
「湊にとってはね」
どういう意味か分からないけれど、艶やかな笑みを前にそれ以上聞くことが出来ず首を傾げると、ヤマトさんは時計に視線を移す。
「湊が向かったお店ってここから近いの?」
「はい、大通りに出てすぐの……」
「なら、もうすぐ帰ってくる頃かな?」
ヤマトさんはにっこり笑うと今度は私の髪の毛に手を置いた。
「りこちゃん少しだけごめん。許してね」
「え……」
その瞬間、ヤマトさんの大きな手で髪の毛を乱雑にかき混ぜられる。
「わ、わわわ……」
「これも仕返しの一部だから。って、少しやりすぎちゃった。ごめんりこちゃん」
申し訳なさそうにヤマトさんが髪の毛を直してくれていると、ドアの向こうで微かに人の気配がした。
「あ、帰ってきたかな。いいタイミング」
満足そうに微笑むヤマトさんを見上げていると、予想通りがちゃりとドアが開く。
「おかえり湊!ありがとう」
「すいません、待たせて」
まだ乱れているであろう髪の毛を手ぐしで直しながらおかえりと声をかけると、湊が目を細めた。
「何してたの」
「え……?」
咄嗟に上手く嘘がつけなくて言葉を詰まらせると、後ろからヤマトさんが湊の持っていた袋を取り上げた。
「他愛のない話をしていただけだよ。仕事の話とかね。それよりケーブルを繋いでみよう。早く終わらせたいし」
ヤマトさんのフォローで湊はそれ以上何も言わずに部屋へ向かった。
その後ろでヤマトさんが口元に指を当ててしーってするから、コクコクと頷いて二人を見送る。
──危なかった。ヤマトさんが考えている仕返しが何かは分からないけれど、たどたどしい私のせいでバレるところだった。
ところで、ヤマトさんが考えた仕返しってなんだろう。
寝室の扉を見つめて考えてみるけれど、全く思いつかない。湊のベッドを俺の匂いにしてやったぜ……的な……?いや、湊なら無表情でそのまま寝そうだけど。その姿を想像するだけで、ふっと息が漏れた。
まぁいいか。ヤマトさんもなんだか楽しそうだったし。
微かに自分の服からも感じる甘いヤマトさんの香りに包まれながら、私はそのあとしばらく二人の作業が終わるのを待っていた。
「悪い遅くなって」
「ううん、私こそ邪魔してごめんね」
終電まであと数時間。
どっぷりと暗くなった寒空の下、お疲れ様と手を振ってヤマトさんは湊の家を出て行った。
バレないように私にウインクを残して。
結局仕返しはどうなったんだろう──。
「終電までもう時間ないな。とりあえず何か食いに行く?そのまま駅まで送る」
「うん、疲れているのにごめんね」
「ちょっと待ってて。着替えてくる」
今日はずっとリビングで二人を待っているだけだったけど、時折作業部屋から聞こえてくる二人の会話が面白くてなんだか私まで楽しい時間だった。いつもと違う弟っぽい湊が可愛かったな。緩む頬を押さえつつ上着に手を伸ばすと、寝室のドアが勢いよく開いた。
「わっ、びっくりし……っ、」
寝室からそのまま歩いてきた湊は私の首元に鼻を寄せる。
「……お前、僕がいないとき先輩と何してたの」
「え……」
えっと、さっきのヤマトさんは確か……。
「し、仕事の話を聞いてもらってたよ!最近任された企画の話とか……えっと、それで」
「どこで?」
「どこでって……リビングで」
湊は私の腕を掴むと、寝室へまた歩き出す。
「この部屋、先輩の匂いがするんだけど」
「あっ……」
「お前からも微かに先輩の香水の匂いがする。どういうこと?」
それは──ヤマトさんが香水をわざと振ったからで──。
「髪の毛……」
「髪の毛?」
「僕が帰ってきた時、りこの髪の毛乱れてたよね。それはなんで?」
「え、あ……そ、それは……」
え、なんで湊怒ってるの。どういうこと。これがヤマトさんの仕返し?
「何やってたのか言えよ」
何って、ヤマトさんが湊に仕返しって……。これってもうバラしていいのかな。ヤマトさんに怒られないかな。ど、どうしたら──。
「このベッドで先輩と何してたの」
ベッドで、ヤマトさんと──?
「え……?待って、まさか湊……」
「なんだよ、言えないことしてたの?」
ヤマトさんの仕返しってまさ、か。
「ま、待って、湊!ご、誤解……これヤマトさんが……っ」
「先輩が?やっぱり二人でここに……」
「違っ、ぁ……みなっ……」
湊の指がブラウスにかかると、乱雑にそれをたくし上げていく。
「何したか教えて。早く」
「な、何って……」
すぐに説明したいのに、湊の舌が首筋を辿って指が素肌に届くと伝えたい言葉が上手く口から出てこない。
「ぁ……ま、待って……」
「僕が約束忘れてたから?仕返しのつもり?」
「まさか……!違っ……」
「どこ触られたか言って、全部」
「さ、触られてなんて……んっ、ぁ」
「お前、僕以外に触られていいと思ってんの」
「……っ、湊」
「誰のものか分からせてあげる」
「は……なにそれ……なんでもっと早く言わないんだよ!」
「だ、だって!湊全然話聞いてくれないんだもん!」
「……完全にやられた」
「ご、ごめんね。私、ヤマトさんの仕返しがどういうことか全然分からなくて。まさか……湊にこんな風に思わせることだったなんて……」
「何顔を赤くしての。大体分かるでしょ」
「わ……分かんなかったもん!」
「りこは鈍すぎなんだよ。ベッドから他の男の香水の匂いがしたらおかしいと思うのが普通だろ」
「う……」
「それに髪の毛まで乱れてるし」
「あれはヤマトさんが手で……」
「……用意周到な先輩め……」
まだヤマトさんの香水が香るベッドで、湊は悔しそうに髪の毛をガシガシとかき混ぜた。
まさかヤマトさんが考えていた仕返しがこれだったなんて──。
時計を見るととっくに終電の時間は過ぎている。
「湊……あの、ごめんなさい」
くしゃくしゃになった髪の毛が絡まないように優しく指を通すと、その指を湊が絡めとる。
「二人きりにするんじゃなかった」
そしてもう一度私の首元に鼻を寄せる。
「……まだ先輩の匂いがするんだけど」
「そ……それはこの部屋に匂いが付いているからで……」
「先輩の匂いがするの気に入らない。髪の毛に触れられたのも気に入らない」
「湊……」
「だから全部僕の匂いになるまで帰さない」
沈み込んだベッドから香る甘い香り。
それに混ざる、体の奥まで熱くなる刺激的な香り。
ヤマトさん──湊に対する仕返しは私にとってはとっても甘いご褒美だったみたいです。
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