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6 先輩
個室の外からは賑やかな笑い声が響いている。
僕の隣では横谷が美味そうにビールを流し込んでいるが、その心中はきっと喉で弾ける炭酸のように爽やかに違いない。
向かいの席ではそんな横谷の様子に目を細める五十嵐さんが枝豆を頬張っており、町外れにある居酒屋の個室にはここ数日の葛藤などまるで初めから無かったかのような穏やかな空気が流れていた。
この雰囲気のなかでどう話を切り出していいものか迷っていたが、僕の様子に気付いたらしい五十嵐さんが口火を切ってくれた。
「それにしてもすごい喘ぎ声だったな、ふたりとも」
あまりの直球に僕は両手をぎゅっと握り締めた。
自分でも顔が紅潮してゆくのが分かる。
言葉をなくしてうつむく僕の隣で、ごとりとジョッキを置く音が聞こえた。
「五十嵐さんが助けてくれたから今の俺たちがあるんすよ。五十嵐さんにはマジ感謝してます!」
鼻の下に泡をつけたまま横谷が頭を下げる。
釣られて頭を下げた僕の頭に五十嵐さんの声がかかった。
「なあに、俺はこのバカを守りたかっただけさ」
僕の頭を軽く小突き、五十嵐さんが笑う。
じわりとした鈍痛を感じながら頭を上げると、優しい顔をした五十嵐さんと目が合った。
「あのときお前の様子が変なことに気づいてやれて本当に良かったよ」
口の端を上げながらジョッキを持つ五十嵐さんは、そう言いながら小さく笑った。
そう僕たちは、結果として五十嵐さんに救われた。
ことの起こりは、乳首年齢測定の知らせを受け取った直後に遡る。
慌ててトイレへ向かう僕の手に虫刺されの薬が握られていたことに違和感を覚えた五十嵐さんは、僕の机に置かれた乳首年齢測定のお知らせとパソコン画面に映る診断の説明画面を見て、僕の性感帯が乳首なのではないかと思い当たったらしい。
そこで僕が個室に入ってすぐにいちばん奥の個室に忍び込んだところ、キャップを開ける音の直後に「えぬんっ!」という僕の声が聞こえたことで予想は確信に変わり、おおよそのことを察してくれたそうだ。
僕が健診当日、絶対に声を漏らしてしまうだろうと予想した五十嵐さんは、僕のプライドの高さから喘ぎ声を苦にして会社を辞められでもしたら総務部にとって大打撃だと考えた。
それならばいっそのこと……。
そして今から数時間前、待合室で頭を抱える僕の肩を叩いてから軽く親指を立ててみせた五十嵐さんは、乳首年齢測定の開始と同時に一番乗りで検査部屋に入っていった。
僕はその行動の意味を理解できないまま五十嵐さんの背中を見送ったが、それから30秒ほど経ったとき、誰も予想しなかったことが起こった。
「あぃやん! んふぅっおうんんっ! それヤバっんっ! ああぁぁぎぃいっ! 羽根んっ! 羽根はダメえぁッ!」
フロア全体に響き渡らんばかりのどぎつい喘ぎ声が部屋の窓を震わせた。
思わず横谷と顔を見合わせた僕は、先ほど五十嵐さんが立ててみせた親指の意味を瞬時に理解した。
五十嵐さんは自らを犠牲にして、僕が声を出しても恥ずかしくない状況を作り出してくれたのだ。
僕が感動に震えている間も、部屋の中からは甲高い喘ぎ声が響き続けている。
しばらくして部屋から出てきた五十嵐さんは何歳も歳をとったかのようにやつれていたが、眼鏡の奥の目は僕に優しく微笑みかけてくれていた。
「川原さん、あれ、見て!」
横谷が指差した先にある真っ赤に腫れたふたつの乳首と目が合った僕は、五十嵐さんもまた性感帯を刺激物の痛みで鍛えようとしたことを理解した。
この瞬間、僕たち三人は見えない絆でがっちりと繋がった。
こうしてめでたく、社内のあちこちで総務部の乳首三人衆と呼称される集団は誕生したのだ。
ただ五十嵐さんのおかげで僕も、横谷も、他の男性社員たちも、乳首年齢測定のあいだは遠慮なく恥ずかしい声を上げることができた。
結果としてその身を挺した行動は男性社員の間で尊敬を集め、五十嵐さんはさらに社内での信頼を得るに至ったことは言うまでもない。
喘ぎメガネというあだ名の誕生と共に。
「まあ、男は乳首をいじられても声を出しちゃいけないなんて法律はないからな。これでみんな来年から検査を受けやすくなっただろ?」
五十嵐さんは豪快に笑ってから一万円札を懐から出してテーブルに置いた。
「え、もうお帰りですか? 本当は僕がご馳走したいぐらいなのに……」
慌てて僕が口にしたのを遮って、五十嵐さんは笑う。
「気にしなくていい。お前は以前、木原くんと付き合っていただろう? そのせいでどれだけこの検査に怯えていたかなんて簡単に想像がつく。今日はその労いも含めているんだよ」
僕はやはり何も言えずにうつむくしかなかった。
「あざっす! じゃあ、遠慮なくゴチになります!」
威勢よくそう口にした横谷は、テーブルに置かれた一万円札に手を伸ばす。
「横谷、お前はもうちょっとだけ遠慮ってモンを身につけような」
五十嵐さんの冷静な言葉に手を引っ込め、すんません、と首をすくめる横谷を見ながら、僕は声を出して笑った。
「じゃあ、ありがたくいただきます。今日は本当にありがとうございました!」
僕が頭を下げるのに合わせて、見送りはいらないと軽く手を上げた五十嵐さんは、そのままするりと個室を出て行った。
さっそうと部屋を後にした頼れる先輩がいなくなったあとには、ほんのりと柔軟剤の香りだけが残った。
「いやあ、やっぱカッコいいっすね、あの人」
五十嵐さんが店を出て行ってから、横谷がぽつりと口にする。
「だな。少なくとも俺はあの人を目標にして頑張ってるつもりだ。まあ、まだまだ背中は遠いけどな」
僕はぬるくなりかけのビールをあおった。
「俺も五十嵐さんを目標にしたいとこっすけど……。俺、まずは川原さんの背中を追っかけます。今回の件で、自分がいかにガキだったかよーく分かったんで」
確かに今回、エリカの件も含めて僕も横谷も自分を客観的に見つめ直すことができた。
そのお陰で自分の足りなさ、ひいては五十嵐さんという存在の大きさを改めて知ることができた。
そういう意味においては、あれだけ僕たちの乳首をいじくり回し、ここまで開発してくれたエリカにもそれなりの感謝をしないといけないのかもしれない。
そう考えると、不思議と笑いが込み上げてきた。
「何笑ってんすか、気持ち悪いっすよ」
ニヤけた横谷と目が合う。
「うるせえよ、さっき遠慮を覚えろって言われたばっかだろ?」
うへ、と肩をすくめた横谷が不意に真剣な表情を浮かべる。
「どうした急に真顔になって? 腹でも痛いのか? あ、もしかして今日の検診を思い出して乳首が疼いてんじゃねえのか?」
僕の挑発に乗ることなく、横谷は何か真剣に考え始めた。
こんなに真面目な横谷の顔など、ここしばらく見たことはない。
「うん、そうだよな。やっぱおかしいよな」
「なんだよさっきから、なにがおかしいんだよ?」
僕は苛立ちを隠さずに横谷を問い詰めた。
「五十嵐さん、さっき『木原くんと付き合っていたんだからこの検査に怯えてるのは想像がつく』って言ってたっすよね?」
「ああ言ってたな。けど、それがどうしたよ」
「なんで五十嵐さんはエリカさんと付き合うと乳首を開発されること、知ってたんすかね?」
ここにきて僕は、完全に言葉を失った。
僕の脳裏ではいたずらっぽい笑みを浮かべたエリカが、五十嵐さんの両乳首をフェザーさわさわで弄んでいた。
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