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 音もなく近づいてきた横谷がデスクにA4の紙を置いて僕に声を掛ける。 「川原さん、部内回覧です」 「おお、ありがとう。あれ、横谷お前なんか……」  その顔色の悪さが気になった僕がかけた言葉に背を向け、横谷はそのまま踵を返してどこかへ行ってしまう。  くそっ、なんでこうなるんだよ。  僕は思わず漏れそうになったため息を押し殺し、行き場をなくした視線をぼんやりと窓の外へ移すしかなかった。  横谷浩人、25歳。  僕のふたつ年下の彼とは、去年の終わりごろからお互いに気まずさを抱えたままギクシャクとした関係が続いている。  まあ、あんなことがあったのだから仕方がないと半ば諦めてはいるが、正直なところこの気まずさは僕にとってかなりの負担となっている。  窓の外から総務部の室内に目を戻すと目の前の画面には各部署から上げられてきた経費の報告がずらりと並び、一人ですべてを精査するのには無理があるのは明らかだった。  去年までは僕が行き詰まっているとき、横谷が声を掛けてくれたのに……。  そんな甘い考えが浮かんでしまうほど、僕は追い詰められていた。  しかし僕はこんなとき、自分から誰かに頼ることができない。  ──川原はクールで仕事ができ、いつも弱みを見せない男。  陰気ですぐに誰かに頼ってしまう本当の自分とは大きくかけ離れたキャラクターなのは百も承知だ。  けれど僕は憧れである五十嵐総務課長の完璧な仕事ぶりに近づくため、この総務部に配属されたときから他人を演じることを自分に課していた。  五十嵐さんは女性社員の間で歩く眼鏡ダンディズムなどと揶揄されるほどに見た目も良く、モデルと見まごうばかりの長身に洒落たスーツをまとうその姿はさながらどこかのファッションショーを見ているようだ。  家庭では奥さんとふたりの子供を何よりも大切にし、本人は笑って否定するものの、相当な愛妻家としても社内で有名だ。  公私ともに他者の嫉妬すら生ませないほどの、いわゆる完璧な人。  僕の直属の上司は、社内の羨望の的なのだ。  今度こそ本格的に漏れたため息に、デスクの上でA4用紙が躍った。  デスクの端から滑り落ちそうになるところを慌てて左手で受けとめ、そのままの格好で紙に目を走らせる。 【健康診断内容の一部追加について】  どうやら来週月曜日に行われる健康診断についての回覧らしいが、あと数日しかないこのタイミングで診断内容が追加されることに違和感を覚えた。  代り映えのしない明朝体で綴られた文章を読み進めていくと、どうやら国の指針で健康診断に新たな項目が盛り込まれたにも関わらず、本社の総務部がそれを伝え忘れていたらしい。  呆れたもんだ。  常日頃からこちらの小さなミスに対しては必要以上に改善策を求めてくる奴らが、これほど重要なことを伝え忘れているのだから。  僕はその紙を読み進めながら気分が悪くなっていくのを感じつつも、ある一文が目に入った瞬間に思わず吹き出しそうになってしまった。 【今回の健康診断から、男性社員に対する乳首年齢診断を追加します】
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