ひかりよりも、もっと

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 それなりの給料さえもらっていれば後は好きなように暮らせるはずだった。実際今おれはそうやって暮らしている。自室にゲームや鉄道模型が整然と並べられている様子を見れば誰だってそう思うだろう。結婚は自由がなくなると得意げに言った先輩は鞄にうさぎのマスコットがいっぱいついている新人とちゃっかり不倫をしていてその新人が鞄の中にひっそり果物ナイフを入れていることもおれは知っている。それに先輩の血がつくことはないだろうことも、たぶん知っている。世の中嘘ばかりでなくなる気配すらないからおれも嘘をついて生きている。今言ったことも嘘かもしれない。嘘をつくことでで税金をもらっているからプロの嘘つきといっても過言ではないだろう。生まれたときからずっと嘘をついて生きている。だから市役所でも同じように生きているだけだ。愚鈍な豚の仮面をかぶっていれば追及されることはないから楽な稼業でやめるつもりはない。やれる仕事だけ淡々とやる。出来ない仕事は派手に出来ないと主張して押しつければいい。そうやって表面上だけは真っ当に愚直に生きてきた。思えばマッチングアプリに登録したのは、そうして嘘をつくことにも少し疲れてきたからなのかもしれなかった。でなければ、他人に誇れるであろう取り柄なんか勤勉くらいしかないおれがあれだけアカウントを放置することはない。それは面倒だったから、というわけでもなく、ただ単に「公務員」という属性で寄ってくる安定目当ての女たちを少しでも疲弊させたいという嫌がらせが多分に入っていたというのが大きい。なんて、それすら嘘かもしれないが。  昔から女が苦手だった。特定の女ではなく、「女」を想起させるものすべてが苦手で嫌いだった。「女」はどんな顔をしていてもやがては「母」となる運命を背負っているのだと思うと苦しくて仕方がないし理解を拒まれているように思えてならなかった。「女」ではなく「母」が嫌いだったのだと気がついたのはその母が死んで数年経ち、おれ自身も「若手」と見なされなくなった頃だった。市役所は「主任」という肩書きがつくと「若手」を卒業したと見なされるがおれはなぜか同期より「主任」がつくのが一年遅かった。上司に媚びを売って特急券をもらうのはばかばかしいし別にそれでいいのだが、おれ以外の全員が先に昇進したのは少し腹が立った。あいつらだって嘘つきなのに。特急券をもらうためだけの軽薄な嘘つきばかりが先に進んでいく。おそらく先に死ぬのはおれだ。毎日茶色い揚げ物ばかり食っている。健康診断は常に最低の判定で保健師からはもう何も言われなくなった。嘘つきがひとり死んだところで社会が嘘をつかなくなるとは思えない。嘘つきなんか大嫌いだ。  すべてがどうでもよくなったとき彼女が目にとまった。ほかにも公務員や高収入の嘘つきはたくさんいるのに彼女はなぜかおれに最初の「いいね」を押した。「のぞみ」という名なのも印象的だった。日本で一番恵まれた特急列車の名前だ。加工アプリでカジュアルに輪郭を削って肌を白くしているような女ばかりなのに彼女は自信があるのか撮ってそのまま(であろう)画像を載せていた。だから色味が暗いし写りが悪かった。その自信が示すとおり猫みたいなかわいらしい顔をしていた。そのせいか見たことない桁の「いいね」がついていた。プロフィールを見たら公務員と書いてあった。ご丁寧に行政区も書いてある。隣の市役所らしい。何もかもが不可解だった。何が目的なのか。本気で出会いを求めているにしてはがっつかなさすぎだし、釣りにしてはつっこみどころが多すぎる。  実は嘘をついていないのではないか。そう思ったとき、「のぞみ」からメッセージが飛んできた。  あなたの隣の市役所で働いているものです。このアプリ、なんか楽しいので使っちゃってます。で思ったんですけど、あなた損してません? せっかくアプリを使っているのだからもっと楽しんでみればいいのに、と思っておせっかいながらメッセージしました。  ずらずら。ずらずらずらずら。おれを豚か何かだと思ってるだろ、みたいな微妙に上から目線の「攻略法」が自分語りの合間にずらずらずらずら並んでいた。やれいいねを押せだの、女はちやほやしてなんぼだの微妙に古くさいのまであった。このご時世にそんなことを気にする奴はヤリ捨てられるだけだ。たぶんそんなこともそれらしい本を読んだだけできっと「ご存じない」のだろう。恵まれている人間は自分がそうであることに気づかない。かつてのおれと同じように。  思った以上にやばい女だった。会ってみたくなった。このおれが「女」に会おうとしている時点で相当に「やばい」必要があるが彼女は余裕でそれを満たしているように思えた。体格には自信がある。怖い男を引き連れているとも思えない。これできっとアイコン通りのすました顔をしているのだろう。文字通り、親の顔が見てみたい。しかしどうやって返そうか。こういう相手は同じ文字数で返すとたぶん満足してしまうだろうから、素のまま、そっけない返事をしたほうがよさそうだ。  そうしておれは結局その女が書いた字数の半分くらいで市境のファミレスで合流することに成功した。光の速さで、と書きたいところだがあいにくおれたち鉄道ファンのあいだでは「ひかり」の速さなんてたかがしれている。  その名前のせいなのかわからないが、集合五分前にファミレスの入口に向かうと写真通りの顔がにこにこと近づいてきた。 「のぞみです、こんにちは」  おれは比較的特徴のある顔をしているし、鉄道ファンが高じてインターネットでのやりとりも慣れているから一見知らない人間に話しかけるのもかけられるのも慣れてはいるが、思っていた以上にひとなつっこく話しかけてくるから少しびっくりしてしまった。 「タカヒロさん、おもったより普通の人ですね」  のぞみの頼んだおろしポン酢ハンバーグが運ばれてきたとき、おれは彼女の顔をまじまじと見つめていた。猫みたいだな。としか思えなかった。  会話は終始のぞみの身の上話と愚痴だった。やれ隣の席の後輩が気持ち悪いだ、市役所の仕事が大変なのに公務員というだけで楽なイメージを持たれるだとか、そういうたわいもないものだった。本来だったら適当に聞いて切り上げて、思ったよりつまんなかったな、なんて考えながらゆっくりブロックボタンを押すのだろう。だが、ふしぎなことにのぞみの話は最初から最後まですべて筋が通っていて面白いのだ。愚痴ひとつとっても、例えば後輩の顔を「ナンの上の方にバターチキンカレーがかかった感じってわかります?」と例えたりとか、職業に対する無理解のことを「払ってもない税金をどうやって泥棒するのか教えて欲しいよね」って言ったりとか、ぜんぜんつまんないネタをさも面白そうに話すのが、見ていて、そして聞いていて面白かった。彼女が勝手に頼んだ赤ワインのボトルはみるみるうちになくなっていくし、おれの頼んだチーズインハンバーグから揚げ付きは気がついたら冷めて固まってしまっていた。これはこれで嫌いじゃないということにも気づいた。  ああ、おれは今「男」として扱われてないな。ということにはハンバーグが運ばれてきたあたりには気がついていた。だからこそ彼女はこんなにいきいきと、まっすぐに嘘もつかずにしゃべることができるのだろう。女子校育ちだって言っていた。おれも男子校育ちだから似たようなものかもしれない。おれが例えば、そこに寝ているハンバーグみたいな顔ではなく、えげつない不倫で話題になったイケメン野球選手とか、朝ドラに出ている爽やかな青年俳優とかみたいな顔だったら、彼女はきっとこんなはなしをしていないのだろう。素の彼女はこんなにもおもしろく、まじめで、ふしぎなのに。不器用なのだ。おれ以上にずっと不器用に、それでいてまじめに生きているのだ。心地よかった。思っていたよりもずっと心地よかった。だからまた、合う約束をした。 「私、夜は暇なので」  と連絡先も交換した。慣れないふりをして、はじめてなんですか、とか笑われてみる。  媚びを売っている?  まあそう言うなよ。おれは今、はじめて「自分から」媚びを売ってるんだよ。誰にも強制されていない、ただおれはこの女に気に入られたいという純粋な思いで媚びを売っている。  それに気づいて愕然とした。このおれが。人間未満のおれがそんなことをふつうに考えていたことに若干引いてしまった。引いている場合ではない。 「タカヒロさんってお酒飲まないの?」  何度目か、いつものとおり赤ワインのボトルを空けたのぞみは上機嫌にそう言った。グラスは二つ。どっちにも赤い痕はついている。 「いつも、飲んでも何にも変わらないから」  酒をそういった場で積極的に飲むことはない。飲めないのではなく、飲めすぎてしまっておもしろくないからだ。ただこのワインはこのファミレスのハンバーグにちょうどよく合う。ボディが重すぎないから、つなぎと脂をうまいこと配合しておっさんの胃にもたれないように軽くしているチーズインハンバーグとの相性は抜群だ。のぞみは毎度違うものを食べている。今日はミートソースだった。これにも合うのだろうと思う。 「へえ。ところでさ私と結婚する気ある?」  面食らった。のぞみは急に話題を変えることはあっても、そもそも本題に興味がないのかそういうはなしをしない人間だと思っていた。 「それがね、よくわからないんですよ」  だいたいおれを「男」だと認識してないだろ。どういうことだよ。それで結婚するって。だいたいあんたこそ結婚する気ないだろ。職場の「男」の気持ち悪さをぐだぐだしゃべるくらいには潔癖な人間が、どうして「男」と結婚できると思っているのか。いや、というかするなよ。幸せにはならないだろ。  そこまで考えて、別に恋愛しなくても結婚できることに気がついた。 「私も全然わからないよ」  少なくとも、市境の場末感が漂うファミレスで会話することは楽しかった。しかも文字起こししたら一ミリも楽しくなくなるような内容ですら楽しかった。顔も仔猫に似ていわゆる美人の領域に入るだろう。おれは芸能人を知らないがたぶん誰かには似ているはずだ。みんなばかだな。ばかばかりだ。こんなひとをみすみすほっておくなんて。それが彼女の望みだとしても。 「わかんないけどさ、男と一緒に暮らすとか無理だと思ってたけどさ、タカヒロさんとなら一緒に暮らせるって最近思うんだよね」  ドリンクバーの炭酸水をストローでくるくると回しながら奇妙な目つきでおれを見つめる。  なめるな。おれは嘘のプロだ。嘘をついて税金までもらっている。おれがついたぺらぺらの嘘は公文書よりもずっと白くてちょっと薄い。 「わたし親にお見合いさせられそうになってるんだけどさ」  のぞみの目は赤く腫れていた。それだけ飲めばそうもなるか。 「嫌なの。もう嫌なのよ親に全部決められるの」  ああ、あんたの親もそうなのか。心の中でおれは同情した。打算的なおれが、そんなめんどくせえ親のあるやつと結婚してみろまた同じ事の繰り返しだぞとうそぶいた。 「嫌なら、やめたら?」 「へ?」  並べるはずだった嘘が吹っ飛んで、おれは思ったままを口にしてしまった。馬鹿野郎。なにしてんだ。 「嫌ならやめればいいじゃない。したいことはして、言いたくないことはいわないで生きてみればいいじゃん。おれはあんたの『ほんとう』が見たいよ。あんたに何かを勝手に期待して『ほんとう』を潰す奴がいるんなら、そんな奴から逃げてくれ。おれは絶対にそうしないから。約束する」  バカじゃねえのか。  おい豚いい加減にしろ冗談もほどほどにしろよ。  お前さあ何ほんとの事言ってんだよふざけんなよ。それ嘘にできないやつじゃねえかよばか。ばかばか。ほら固まっちゃったじゃねえかよ。ああもう終わり、終わりだ終わり。終わりです。終わり。  けっ、ざまあみろ。嘘つきなんか大嫌いだ。  おれはおれにしたり顔をする。 「あ、ありがとう」  か細い声が聞こえる。 「そんなこと、いちども言われたことなかった」  それはあまりにも悲しい告白だった。 「仕事、やめようかな」 「やめたら?」 「一緒に暮らしても?」  少し考えた。 「うん」  のぞみはおれの邪魔なんかしない。きっとしようとも思わない。そもそもおれの「邪魔になるかどうか」すら知らない。だからきっと一緒に暮らしても不自由はないだろう。自由も不自由もなくて、単なる「生活」だけがきっとあるのだろう。そう確信した。  暖かな日の光が入る部屋を探そう。できれば公団住宅がいいな。そうしよう。 「タカヒロさんといると、心地よいから」  そういってのぞみはおれの手を取った。  日の光よりもずっとあたたかかった。
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