Alpha

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*  女の姿は昨晩の安モーテルから打って変わり、高級ホテルにあった。元来こちら側の人間だと思わせるような品格と上質さを兼ね備えている為、高級ホテルで辱めを受けることはない。寧ろ、安モーテルが場違いであった。安モーテルでファーストフードのハンバーガーに食らい付くのもキッチュで女の魅力を倍増させるが、やはり女は赤い絨毯に、シャンデリア、ロココ調の設え、そして専属のコンシェルジュがいる場所が似合う。勿論、女が滞在する部屋はテラス付きスイートルームだ。  容貌の優れた者たちを見慣れているはずのホテルマンも女の美貌の前では瞠目してしまう。紳士な皮を被りながら、女の動向を知りたいと内心では考えていた。地位も名誉もある客も羨望の眼差しで女を一瞥していた。そんな憧憬の視線など慣れている女は誰もが見惚れる笑みを携え、ホテルを出る。屈強なドアマンは一瞬、自らの仕事を忘れ、女に釘付けになったがすぐさま、ホテルの重いドアを開けた。 「Merci beaucoup(ありがとう).」  発音が良く仄かにセクシーな吐息混じりのフランス語がシャンゼリゼ通りのある8区に響く。  女は自らの武器を存分に利用した身体のラインが出る黒のワンピースを身に纏っていた。小ぶりなハンドバッグひとつ、ゴールドのピアスひとつ、そして揺れるブロンド。女は着飾らなくても自らが美しいことを知っている。そしてそれは道ゆく者すべてが納得していることだった。女が美しいことは周知の事実だが、その小ぶりなハンドバッグに小口径の銃が隠されていることを知っているのは女だけだ。ワルサーPPKがルージュと一緒にハンドバッグに入っており、太腿のホルスターにはカランビットナイフが息を潜めていた。   「Bonjour, madame(いらっしゃいませ).」  女はシャンゼリゼ通りに構える老舗喫茶店に足を運んだ。老舗とあって、観光客もまばらにいる。女は蝶ネクタイをした男性店員に一言。──静かな場所はあるかしら。店員は──あなたの為なら。と、下心を紳士的に隠し、女をテラス席に案内した。女が座る席の周りにリザーブと書かれたプレートを置く。一等大事にされる女は慣れた様子で、店員に椅子を引かれ、テーブルについた。カフェとソプラノの声を響かせる女。店員は一礼し飲み物を持ちに消えていく。  女は名乗る時、シャロンという名を使う。旧約聖書の『雅歌』2章1節「私はシャロンの薔薇、谷のゆり」から取った。  女──シャロンの父は、36人を殺害したとして名高いシリアルキラーだ。父から貰った元来の名はエージェントになる時に捨てた。
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