Alpha

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 女は男の名前を知らない。男は語らず、女は訊かない。それが彼らの均衡の取れた関係だった。だが、名を知らずとも両者は異性。女と男は互いに腹の内を探り合い、夜を共にしたこともある。 「それにしても、シャロン、こんな場所で呑気にコーヒーなんて飲んでいて大丈夫なのか? 君の首には懸賞金がかかっているだろ」 「北北東420yd(ヤード)にいい狙撃場所があるわね。風速3m、狩には適しているわ」  女はまるで他人事のようにソーサーに乗っていたチョコレートを摘む。狙撃に適しているテラス席のそこで煙草とコーヒーを嗜む女に男はやれやれ、と頭を抱える。男は大袈裟な態度を取ったが最初から心配する気などさらさらなかった。女に限って易々と撃たれるとは思っていないからだ。だが、女の首に懸賞金がかかっているのは確か。バウンティハンターが女の尻を付け回しているというのは界隈では有名な話だった。女の懸賞金は跳ね上がり、国をひとつ傾かせられるだけの金額がぶら下がっている。 「君はどのくらい撃てるんだったかな?」 「TAC-50の50口径で3800yd」 「……勿論、1人だろ?」 「いいえ。孤独が傍にいたわ」  女は先ほどの男の言葉を捩って言葉を返す。  おおよそ3.5kmにいる対象物に弾丸をぶち込めると聞いた男は、やはり女が賞金稼ぎに殺されるという有り得ない思考を捨て去った。男は、皮肉混じりに言葉を返す女──シャロンを心底愛した瞬間があった。女に似合うブラックダイヤモンドを購入し、求婚までした。女が希少なダイヤ如きで靡くとは男も思わなかったが、それでも精一杯の愛を証明した。この明日を補償されない世界で。 「……今晩、空いているかい?」 「それは空けろ、という命令かしら?」 「懇願だよ」 「なら空いていないわ」  求婚も今のようにやんわりとだが、しなやかに逞しく一蹴されてしまった。女は美貌と雄々しさを兼ね備えていた。男はふ、っと小さく自らを嘲弄して笑う。男はこれ以上女を口説き落とせないと思ったのか、店員を呼び女の分と合わせた会計をスマートに済ます。  男もまたエージェントだった。ターゲットに近付く為にここ数ヶ月はパリにいる。 「君の気が向いたら電話をくれ」 「番号が変わっていないなら」 「あぁ、変わっていないさ」  この世界で同じ番号を使い続けるというのは、それだけ腕が確かだということだった。訓練を受けた物は自らの身が危険に晒される時は痕跡を消す。電話番号はその最たる物だ。同じ番号を使い続けられるというのは箔が付くのと同義だった。  男は女──シャロンのほおに口付けをひとつ落とし、姿を消した。  その後に姿を現した店員は男が残していった小銭を女に渡す。女はチップにでもして、と言おうとしたが、店員がわざと床に小銭を落としたことを見逃さなかった。女の可憐な足元に転がる小銭。あらあら、そう思いながら女はくすりと笑う。店員は小銭を拾う動作をしながら、女の脚にひとつキスを落とす。  女にとってそれは取るに足らないことだった。
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