Alpha

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 シャロンが滞在するホテルに帰ったのはそれから数時間経ってからだった。  ヴァンドーム広場から歩いてすぐの場所にあるカルティエ本店に現れ、普段愛用している時計の革を新調した。サービスとして提供されるシャンパンを悠然と飲みながら、シャロンは自らの白い肌に似合うブラウンのベルトを手に入れた。煌びやかにシャロンの手首を彩る腕時計。シャロンは昼も夜も忙しさとはかけ離れた優雅な時間を過ごしていた。ホテルに帰る道すがら、可愛らしい菓子店を見つけ、ノネットを購入。ホテルでアールグレイと共に口に運ぼうと決めていた。 「おかえりなさいませ。良い時間を過ごせましたか?」 「えぇ。旧友に偶然会えたの。パリに来ていたみたいだわ」 「それは素敵なひと時を。甘い香りがしますが、なにかお飲み物をご用意致しましょうか?」 「ノネットを少し…。アールグレイを頂いても?」 「かしこまりました。少々お待ちを」  専属のホテルマンに指示を出すシャロンはピアスを外しながら、自らの部屋に人が入った形跡を確認した。開けていかなかったバルコニーの扉が開いており、ドレッサーの前には花瓶に入った花束が置いてある。ピンヒールを脱ぎながらドレッサーの前にある巨大な花を見つめる。百合を主役に様々な花が集まる花束はドレッサーの前を陣取っている。その花の間には“Eve”と書かれた手紙が差し込まれていた。  聖母マリアを象徴とする白い百合の間に対照的な“Eve”の名前にくすり、シャロンは笑う。皮肉的な演出が好きだ、と部屋に入った誰かに想いを馳せた。  上等な封筒を開けてみれば、オペラの招待状が入っている。ジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』の招待状だ。シャロンは招待状の後ろに、もう1枚なにかが入っているのに気付く。写真だった。30代後半と見えるブラウンの髪の毛を携えた男性。今回のターゲットはいつもより若い、年端もいかぬ者だな、とシャロンは内心で考えた。オペラの招待状も入っているところを見れば、今晩はお近付きになれば良いといったところだろう。  シャロンはその写真をライターにかざし、燃やした。ふと、ここは火災探知機があるだろうか、あれば感度はいいだろうかと考えるが手の中にある写真はオレンジ色と青色を纏いながら、隅から燃えていく。黒くなるそれが崩れぬうちに灰皿に持っていく。灰皿の中で蠢く火。シャロンは小さくなる火を吐息で消した。 「失礼致します」 「ごめんなさい。煙草が燃えてしまって、灰皿を変えてくださるかしら」 「かしこまりました」  完全に灰になった写真は誰がどう見ても修正不可能だ。他者に渡ったところでどうこうできる代物ではないだろう、女はそう考え、ホテルマンに灰皿を渡した。  ホテルマンはスムーズな手つきで灰皿を回収し、上質なカップに適度な温度のアールグレイを注いだ。女は菓子店から購入したノネットを取り出す。どうやらこのノネットはアプリコットのジャムが入っているらしい。
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