第9話・君の泣き顔

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 僕はあやうく柱の陰で飛び上がるところだった。一部始終を見ていた人がほかにもいたのだ。板谷君はその声に弾かれたように身をひるがえして駆けだした。しかしその人物は素早く彼を抱きすくめてとらえてしまう。三十歳ぐらいに見える男性だった。この学校の先生だろうか。白いシャツに濃紺のカーディガンをはおったカジュアルな服装のその人は、細身だけど板谷君と同じぐらい上背があって、押し負けそうになりながらも彼を離さない。 「俺、写真部顧問の白川(しらかわ)といいます。俺あてに怪文書を送ってきてるのも君だろ。俺は草壁と違って、売られたケンカは倍の値段を出して買うタイプでしつこいからな。覚悟しておけよ」  僕は思わず柱の陰から出ていきかけた。――先生、白川先生。待ってください。彼の話を聞いてあげてくれませんか。絶対に何か理由があるはずなんです――。  しかし結局、僕は出て行けなかった。板谷君が暴れるのをやめてずるずるとくずおれ、白川先生の腕のなかで嗚咽を漏らしはじめたからだ。初めて見る板谷君のそんな姿に、僕は激しく動揺した。先生は彼を抱きかかえるようにして座り込み、ゆっくり彼の背中を撫でている。あやすように体をゆすりながら、静かに話しかけた。 「君にとっては他校のセンセーだけど。よかったら話、聞くよ。お名前は?」 「……言うわけ、ないでしょ」 「そうだよな。聞くのはやめにしておこう。あのね、俺の勘違いだったらごめんね。もしかして草壁に惚れてたりするの?」 「まさかっ」  板谷君がキッと顔をあげて先生に抗議する。 「告白してきたのはあいつなんだ。俺はあれから人生おかしくなったのに」  泣きじゃくる板谷君を腕のなかに抱き留めて、白川先生は穏やかな笑みを浮かべていた。そんな二人の様子を見て、僕はそっと柱の陰から体を離した。そして足音を立てないように昇降口を出て、校門に向かった。  今このとき、僕の出番はないと思ったから。  あの白川先生という人なら、たぶん板谷君を悪いようにはしない。きっと大丈夫だと思ったから。    ……いや、そうじゃない。  泣いている板谷君を目の当たりにしてしまって、少なからずショックを受けたからだ。  僕は校門を駆け抜けて駅に向かった。  急いで寮に戻ろう。話は、いつか板谷君が話してくれるまで待てばいい。  ◆  そう、板谷君が話してくれるまで待てばいい。  今日のところはそっと学校に戻って、素知らぬふりを決めこむつもりだ。  ……決め込むつもりだったのに。  間抜けな僕は、初めて乗り降りした急行停車駅の構内で迷ってしまった。しばらくウロウロして、ようやく目的の下り方面のプラットホームにたどりついたとき、――なんということだろう――、板谷君と鉢合わせしてしまった。  上り方面のホームと違って、下り方面のホームはがらんと空いている。向こうから歩いてきた板谷君が僕に気づいてハッと足を止め、顔をこわばらせた。  僕たちはしばし、距離を置いて見つめあった。板谷君、逃げるかな。まさか電車に飛び込んだりしないだろうな。とっさにそう思って身構えてしまったけど、板谷君は悲しいくらいきれいな顔で笑って、ゆっくり僕に近づいてきた。泣いた後の赤い目。それを見たら僕まで泣きたくなってしまった。うつむいて立ちつくす僕に彼は小さな声で話しかけてきた。 「天野君じゃん。何してるの、こんなところで」 「……ごめん」 「もしかして俺の後をつけてきたの?」 「……」 「ずっとここにいた?」 「……ううん。滝ケ瀬(たきがせ)高校まで……ついていっちゃった」 「そっか。みっともないところ、見られたかな」  僕たちはホームのベンチに並んで座った。下り電車が入ってきたけど乗らなかった。次の電車にも乗らなかった。そうして無言で何本か見送ったあと、板谷君がやっと口を開いた。 「天野君、そろそろ戻らないと遅刻だよ」 「……うん」 「先に行きなよ。俺はどうせ朝補習をすっぽかしてるからペナルティの反省文だし。ちょっと頭を冷やしてから帰るよ」 「いやだ」 「えっ?」  僕が即座に強い口調で断ったから、板谷君が驚いたように僕の顔を見た。僕はそれを視界の端でとらえた、自分の膝先を見つめたまま。 「板谷君と一緒にいたい」 「……何、言ってるの。やめといたほうがいいよ」 「僕のことがウザいんだったら追い払ってくれていい。でも一緒にいても構わないならここにいる」 「天野君までペナルティくらっちゃうよ。俺といるのはあんまり得策じゃないと思うけど」 「得策とかどうでもいい。板谷君のそばにいたい」 「……」  そこでまた会話が途切れる。もう一本、下り電車が入ってきた。ドアが開いて、閉まって、発車してホームを出て行く。耐えかねたように口を開いたのは板谷君だった。 「……聞かないの?」 「えっ」 「俺が何をしでかしたか、聞かないの」  なんと答えるのがいいのだろう。僕は少し迷ったけど、正直に自分の気持ちを伝えた。 「話してくれるなら聞きたいけど、無理には聞かない」 「……」 「あの先生……白川先生が、悪くないようにしてくれそうだったし」  板谷君は黙っていた。前を向いたまま深いため息をついて顔を覆う。また泣き出したんじゃないかと思って、僕ももう何も言わずにまた自分の膝先を見つめていた。 「天野君」 「はい」 「……ごめんね」  板谷君が絞り出すように、謝罪の言葉を口にする。 「僕は別に、何も」 「俺、もう自分がぐちゃぐちゃでわかんないの」 「……うん」  ホームにまた下り電車が入ってきた。板谷君がのろのろと腰を上げたから、僕は彼に従った。そして無言のまま、ふたりで桐令に戻った。
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