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「あなたが嫌で無ければ、このまま少し、耳だけお貸しください。お返事はしなくて構いませんからね。」
「……っ、はぁっ…はぁっ………」
(な、何、不安泥棒って言った…?声からするに、男…だよね!?介抱すると見せかけて、悪いコトを企んでいる人の可能性もある…。最悪の場合、お、襲われるかもしれない…。下手に騒いだり突き飛ばして刺激するわけにもいかないし、そもそもこのパニックが治らない限り、苦しくて立ち上がれない…!ど、ど、どうしよう…!!え、もしや空耳とか幻聴とか、そういう何か!?いやいやもしかしたら、本当の本当に、あの世からのお迎えか…!?)
何にせよ、今迫っている危険を回避せねばならないという思考回路のスイッチが入るのを感じた。私の意識は半ば強制的に、背後の存在へと集中した。
「パニックの引き金ともなる不安な気持ちは、あなたの中で、次から次へと際限なく湧いてくる感情です。人間が生きる上で必要な感情ですが、時として大きな苦しみにもなってしまうものです。完全に消すことはできませんが、少しだけ、今ここにあるあなたの不安を、盗んでみせましょう。」
(…え…?)
一瞬のことだった。
背後から伸びてきたもう片方の手は、私の口元を白い布で塞いだ。
「………っ!!!!」
私は咄嗟に息を止め、反射的に顔を大きく横に反らせていた。
(ま、まずい状況なんじゃないの、これ…!!ど、毒!?それとも、気絶させられちゃう薬!?ちょ、ちょっと、ど、どうするの!!!)
一筋の冷たい汗が、背中をつたった。
「はい、お気づきかと思いますが、これ、アロマオイルを染み込ませてあります。」
「…………?」
「あなたの好きな、オレンジの香りです。」
「……………え??」
「諸説ありますが、オレンジの香りは人を落ち着かせてくれるそうです。」
そう言われてみれば、口元に近づけられた布から、爽やかな柑橘系の香りをほのかに感じる。
「では、そろそろお暇いたしましょう。あなたの不安もいくらか頂戴できましたので。」
「……あ……。」
そう言われてから、気が付いた。
いつの間にか震えや動悸は治まり、呼吸の仕方を思い出さなくても、当たり前の様に酸素を吸い込んで二酸化炭素を吐き出せる身体に戻っていた。
私は勢いよく後ろを振り返った。
そこには、薄い水色のポロシャツと、紺色のチノパンというごくありふれた出立ちの細身の男性が、立っていた。
服装に全く合っていない、奇妙なシルクハットを目深に被っており、その表情は、ほとんど窺い知れない。
「…あ、ありがとうございました…。助けて下さった…んですよね?え、えと、あなたは…?」
私の言葉が終わらないうちに、その男性は今まで手にしていた白い布、どうやらハンカチだったようだが、それをさっと広げて私の頭にふわっと被せた。
「…っ!?ちょっ…」
ハンカチを払い除け、遮られた視界を取り戻した時には、既にその男性は私の目の前から消え去っていた。
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