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桜の絆
一
あれは、桜の盛りも少し過ぎ、柔らかな陽光が暖かい日の続く、ある春のことだった。
山を少し入ったところに、もうずいぶんと前から、人々に忘れ去られた廃神社がある。そのさらに奥に、ひっそりと立つ一本の桜の古木があり、私はその古木の一番太い枝の上で、気持ちよく微睡んでいたのだ。
すると、うとうととした意識の中に、どこからか歌が聞こえてきた。
見ると、いつの間に来たのか、私の宿る桜の下で、一人の青年が歌を歌っている。
人間が来るなんて珍しい、と思いながら、そのままなんとなしに聴いていたのだが、その歌声はとても心地よく、私はすぐにその青年の歌が好きになった。
二十分かそれくらいの間、彼は休み休み何曲か歌った。中には、言葉の分からない外国の歌もあった。
私は古木の枝の上で、幹に背をもたせ掛け、ただじっと、彼の歌を聴いていた。
歌い終わると、青年はどこかへ行ってしまった。
それから、彼は毎日やってきた。そしていくつかの歌を歌って、帰っていった。
一週間も経ったころ、いつものように桜の木の上で彼の歌を聴いていた私は、無意識のうちにふと、「──いい声だなあ」と呟いてしまった。
ぴたりと歌が止み、はっとこちらを振り仰いだ彼と、私の目が合った。私も驚いていた。彼の目が、桜の花と花の間から、確実に私を見ていたからだ。
「──聴いていたの? ……ですか」
先に口を開いたのは彼のほうだった。
「……お前、私が見えているのか?」
私は彼の問いには構わず、そう問い返した。私の声が聞こえたり、姿が見える人間はとても稀だ。思わず呟いてしまったのも、聞こえるはずはないという油断があったからだった。
「ああ……君はそういう……。ああ見えるよ」
彼の顔に一瞬だけ、ほっとしたような、がっかりしたような、よく分からない表情が見えた。
「俺の歌、ずっと聴いていたの?」
「ああ」
「いつから?」
「一週間ほど前だな」
「初めからなんだ……」
彼は、この日はこれで帰っていった。構わず続ければいい、と言ったが、今日はもういいんだ、というような事をもごもごと言い、そのまま去っていってしまった。
一人になった私は、ひとひら、またひとひらと、止めどなく散っていく花びらをぼんやりと眺めながら、あの青年は明日は来るのだろうか、と思った。
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