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蝿が飛んできた、かと思うと、まるで魔法のようにその小さな姿が消えた。
俺は瞬きをしながら商品棚に置かれた鉢植えに顔を近づける。
植わっていたのは不思議な形をした植物だった。葉の先端から伸びる細長い蔓の先に、いくつもの色鮮やかな丸い袋がぶら下がっている。
「何だこの植物、変わってんなぁ」
呟きながら袋の中を覗き込んだ。ほの暗い底の方には液体が溜まっていて、水面で必死にもがき苦しむ生き物がいた。先ほどの蝿だった。
「それ、ウツボカズラって言うんですよ」
振り返った俺は、そこに立っていた人を前に、思わず顔を赤くしてしまう。
長い黒髪にスラリとしたモデル体型美人。園芸店員のユミさんが微笑んでいた。
「こ、こんにちは! ユミさん、あの」
「袋の口の上にある蓋の部分から」
俺の言葉を遮るようにユミさんはすぐ隣に立ち、ウツボカズラの袋のてっぺんに生える葉を撫でた。
「あまぁい蜜を出して、虫を誘惑するの」
ユミさんから漂う香水の匂いに、頭がクラクラした。ふらついた俺を支えるように、ユミさんは身体を添わしてくる。
「まんまと誘い出された虫は袋の縁に止まって、足を滑らせて消化液の海に真っ逆さま」
ユミさんは耳元で囁き、腕から肘、手首にかけて俺の肌の上を指でなぞる。危うく奪われそうになった意識を何とか保ち、慌ててユミさんから離れた。
「な、なんかそれって虫が哀れですね」
挙動不審になる俺に、ユミさんは小首を傾げた。
「哀れって……何で?」
ユミさんの仕草に胸をおどらせながらも、俺は「だって」と声を張った。
「虫は騙されて、逆に食い物にされてるわけじゃないですか」
ユミさんは俺の目をじっと見つめたまま、ふふっと笑った。
「それが面白いんじゃない。自分を理想の存在と見せかけて、相手を罠に嵌める。生き残るための立派な手段よ。知れば知るほどあなたもウツボカズラの虜に……あ、そうだ」
ユミさんは話の途中で手を叩いた。
「ウツボカズラ、育ててみない?」
突然の提案に、俺は目を見開いた。
「いやいや! 俺、植物なんか育てたことないですよ! ましてやウツボカズラなんか育てるの難しそうですし」
忙しなく左右に動く俺の掌を、ふいにユミさんは優しく包み込むと、女神のような笑顔を浮かべた。
「大丈夫。誤解されがちだけど、やり方を大きく間違えなければウツボカズラは育てやすいのよ。虫も無理に食べさせなくて良いし」
「それに」
とユミさんは付け加える。
「ウツボカズラのことを知ったあなたと、もっとたくさんおしゃべりしたいなぁ」
ユミさんの上目遣いに心を射抜かれた俺は、気づけばウツボカズラを片手にレジへと向かっていた。
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