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「ただいま」と「おかえり」
「おかえり、灯香」
妻の声が聞こえる。そのあとにも何やら話している声や靴を脱ぐ音もした。
「お邪魔します」
妻のものでも娘のものでもない、明らかに男のものとすぐに分かる低い声が聞こえた。どくんと心臓が大きく跳ねる。
動けない。今度こそ、私は息を呑んでじっと固まってしまった。
……来るな。来なくていい。お前みたいな泥棒、認めてなるものか。
胸に宿る黒い靄が濃くなるに任せてそう思う。しかし同時に拒否などできないことも、認めなければならないことも、私はもう充分に分かっていた。ただ、感情が追いついてこないだけなのだ。
そのことが分かっているからこそ、自ら動くことができずにいた。拒否も否定もできないのなら、流れるままに身を任せるしかない。
「来たよ、お父さん。ただいま」
もやもやと座る私の背後に明るい声がかけられる。かすかに緊張しているように聞こえるのは、気の所為ではないだろう。今日は彼女にとっても大切な日。私の一挙手一投足に神経を張り巡らせているはずだ。
「……おかえり、灯香」
ようやく私は振り返る。娘は普段よりもすっきりとした雰囲気に見えた。余所行きというやつだろう、ピンクのワンピースはいかにもよく似合っている。
「お邪魔します」
可愛い娘の姿に顔が綻びそうになるも、直後にその後ろから現れた人影に、私はまた全身に力を入れて固まってしまった。
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