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「お父さん、そっちじゃないよ」
「……瑛子?」
父が振り返って、そして、申し訳なさそうに「すみません、人違いでした」と頭を下げ、小径に消えようとする。
「人違いじゃないよ。私。瑛子だって」
驚く口をぽかんと開け、「ずいぶん変わったなあ」と言った。今まで、何度となく想像してきた、どんな言葉よりも陳腐だった。
あらかじめ購入してあったガムテープで扉と窓をの隙間をすべて塞いだ。幸い部屋には一つしか窓がないので作業はすぐに終わった。
父のリュックから練炭コンロを取り出し、着火する。
「ごめんなあ」
「何が?」
「……うーん」
何が悪かったのかわからないのなら謝らないで欲しい。
乙女さんに言わなかったことは山程あるけど、その中でも一つ、絶対言わないって決めていた話がある。
――私ね、こんな駄目親父でも、小さい頃は将来おとーさんと結婚するんだと思っていたんだよ。
「お前が整形したいと言ったとき、俺は話も聞かず頭ごなしに叱ったよなあ。年頃の娘の言うことだと思って。学校でいじめられていたなんて知らなかったよ」
まったく、死ぬ間際に懺悔なんて。自己満足しか頭にないんだから。これだから男は。
「私が出て行くとき、お父さんは私に『失敗した』って言ったの、覚えてる?」
「勿論、覚えてるよ」
円筒のコンロから、静かに煙がたなびく。空気の配分が有毒に変わってゆく。
父は深く、息を吸い込んだ。
「俺は愛することに失敗したんだ。父親失格だよ。見放されて当然だ」
ああ、そう。
あれはそういう意味だったの。
そんなこと、今頃知ってもね――。
笑おうとして涙が零れるのを、皺の刻まれた乾燥した指が拭ってくれた。その濁った眼球は私の顔すら映さない。
瑛子。あんたが忘れていたものは、憎らしかったこの男が持っていたみたい。……まあ、死ぬ間際のぎりぎりに気づいても遅いのだけども。
――欲望はいつだってシンプルだ。愛されたかった。ただそれだけ。
父の方が、先に意識が朦朧とし始めた。
「この部屋、事故物件になっちゃうなあ……」と今更なコメントを残し、彼の薄い頭ががくんと落ちた。
そうだった。こういうとぼけたところがある人だったな、と懐かしく思った。
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