第十二話 旅立ち

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第十二話 旅立ち

金曜日の夜。呑み屋『睡蓮花』で、僕たちはいつものように飲み会を開いていた。僕、野薔薇さん、浅見さん、堀木さんの四人が揃っていた。今日もまたくだらない話に華を咲かせながら、ああだこうだと言い合っていた。野薔薇さんは飲み会メンバーに新しい人を迎え入れようと日々精進しているようだが、やはり僕はこのメンバーが好きだった。しかし、新しい死にたがりの人を拒むこともないだろう。きっと新たな友人が出来るのは喜ばしいことなのだ。自然と受け入れられるようになっていくのが、人間ではないだろうか。少なくとも僕はそういった人間だ。 「なぁ、もし今どこでも行けるって言われたら、一番行きたい場所ってどこだ?あ、宇宙とかはなし。現実的に行ける場所でさ」 雑談が盛り上がって二時間ほどが経過したころ、堀木さんがおもむろに新しい話題を僕たちに提供した。僕はいつも野薔薇さんが飲んでいるカルーアミルクが気になり、自分も注文して飲んでみたのだが、その程よい甘さと飲みやすさに感動を覚えていたところだった。堀木さんの質問に目線を上げ、頭の中で様々な場所を候補に挙げてみたが、どれも一番行きたい場所とは言い張れなかった。誰よりも早く浅見さんが「パリね!」と自慢げな顔で答えを出した。旅行先としては非常に王道だが、パリの町を歩いている浅見さんを想像してみると、映画の一シーンのようにしっくりときた。 「高二のときに家族旅行で行ったんだけど、良かったのよね」 頬杖を付いてへらりと笑った浅見さんは、家族との思い出に懐かしさを感じているようだった。彼女の家のことを考えれば、これまでに色々な場所へ家族旅行へ赴いたであろうことが予想出来た。 僕は母と旅行に行ったことは一度もなかった。テーマパークや水族館なんかに幼い頃連れて行ってもらったことは微かに記憶に残っているが、泊りがけの家族旅行は思い出になかった。母は毎日仕事で忙しく、家計を支えるためにも旅行の出費なんて余計だったのだろう。子供の頃は友人が夏休みなどを利用して家族で旅行するのを羨ましいと思ったこともあるが、成長するにつれてそんな感情も消えてしまっていた。家族旅行は僕には関係ない行事なのだと割り切るようになっていたのだ。そもそも母と旅行に行ったところで楽しめるのだろうか。母の顔色ばかりを気にして、心労が蓄積されるだけだ。それなら飲み会メンバーで旅行した方がよっぽど楽しいではないかと想像を膨らませた。 「浅見さんは海外旅行の経験とか豊富そうだな。俺は大学の卒業旅行でドバイに行ったことがあるだけだよ」 「まぁね。家族旅行は大抵海外だったし」 海外の知識が乏しい僕はドバイと言われて富豪のイメージしか沸いてこなかったが、確かビジネスマンが多いと聞いたことがある気がする。国内旅行もまともにしたことがない僕に海外旅行なんてものは更にハードルが高く、無縁のものだった。一カ国でも海外に行ったことがあるだけで十分に尊敬できた。とてもではないが、僕は海外旅行をする自信がなかった。 「私が行きたい場所はリヒテンシュタインだ!」 「え、リヒテンシュタイン?」 僕は聞き慣れない名前に眉を顰め、隣に座っている野薔薇さんへと顔を向けた。大きく頷き返した彼は「ああ、リヒテンシュタインだ」と再びその名前を口にした。地理かそれとも世界史の授業か何かで聞いたのかもしれないが、僕は一体その名前がどこの国(若しくは街だろうか)を指しているのか分からず困惑するしかなかった。 「リヒテンシュタインってあれだろ、ヨーロッパの…スイスだけっか。その辺の公国」 「ああ、そうだ。高校時代に世界史の授業で聞いてから、ずっと行ってみたいと思っているんだ」 野薔薇さんが高校時代の世界史と言ってくれたおかげで僕は僅かに記憶を呼び起こすことが出来たが、リヒテンシュタインという名前に聞き覚えがあるという程度で、それ以上の知識を得られることはなかった。 僕はカルーアミルクを数口飲みながら「どんな国なんですか」と野薔薇さんに訊ねた。僕たちの話を聞きながら堀木さんと浅見さんは本日何杯目かのアルコールを注文していた。 「自然が豊かな場所だ」 「自然…、でも自然が豊かな場所なら他にも沢山あるんじゃないですか」 「朝日野くんは分かっていないな!」 呆れを滲ませながら首を横に振った彼に僕は「はい?」と聞き返した。流石に僕もヨーロッパの自然と日本の自然の景色が同じだとは言わないが、堀木さんがスイスの傍だと話していたのが事実なら、それこそスイスの方が有名な観光地も多く、美しい山脈も見れて、自然も豊かで旅行には持って来いではないのだろうかと思った。リヒテンシュタインにどうしても行きたい理由には乏しいように感じたが、野薔薇さんは当然のような顔で「一目惚れしたんだ」と言った。僕は意外な一言にキョトンとして目を瞬かせたが、僕の反応が野薔薇さんには奇妙に映ったのか訝しげな面持ちを浮かべていた。 「一目惚れですか。リヒテンシュタインに?」 「ああ、そうだ!不思議と惹かれたんだ。私はあの場所に呼ばれているように感じる。だからこそ行きたい気持ちがずっと消えないんだろう」 突然スピリチュアルな話をされて僕は何と言葉を返せばいいか分からなかったが、堀木さんが「そういう場所ってあるよな」と共感をしたことに口を噤んだ。僕は今までにどうしてもこの場所に行きたいという感情が芽生えたことがなかったのだ。ましてや呼ばれているように感じるなど、経験したこともなかった。野薔薇さんがまたおかしなことを言っているだけではないかという考えは堀木さんの一言で打ち消されてしまい、僕はそれ以上の発言が怖くなってしまった。実は僕の方が人間的に何か欠落していて、僕の方がおかしな人間ではないのかという恐ろしい疑念を植え付けられたからだ。だが、その恐怖は同時に僕は野薔薇さんを変人とすることで、自分は普通の人間だと安心していることを表していた。 「朝日野は行きたい場所ないのか?」 「僕は、そうですね…」 興味がある場所はいくつか候補があったが、一番行きたい場所ではなく、僕は返答に困ってしまった。ここで行きたい場所がないと答えて場を白けさせるのも憚られて、迷った末に候補の中の一つから適当に選ぶことにした。 「北海道ですかね。電車の窓から銀世界なんて見られたらいいなって」 「北海道いいな。俺も行ったことないんだよ。カニ食いてえ」 「熊鍋だろう!」 「いや、カニだろ!」 野薔薇さんの熊鍋発言に堀木さんは納得がいかないといった様子で反論し、二人はどうでもいいことで言い争いを始めたが、僕は彼らをよそに改めて電車の窓越しに流れる雪原を想像し、強烈に北海道に行きたい衝動に襲われた。僕の答えはあながち間違いではなかったのかもしれない。 北海道の冬の寒さは死を覚悟しなければならないが、それも死にたがりの僕には恐るるに足らないことだ。何処までも続く純白の世界に自分一人が降り立った瞬間、この地球上には僕しかいないという錯覚が生れるだろう。誰にも穢されていない雪の上に足跡を付けることはたまらない高揚感を覚えるはずだ。そして、どんな柵にも囚われることのない解放感に身を任せて、歓喜の声を上げながら雪原を走り回るのだ。やがて、疲れて地面に仰向けに倒れ込み、しんしんと雪を降らす灰色の空を見上げる。弾む呼吸が落ち着くにつれて、僕はたえきれない孤独感に苛まれるんだ。僕は、その孤独感から逃れる術を知っている。目を閉じればいい、ただそれだけだろう。 僕はそこまで想像をして、自分が北海道に旅行に行きたいわけではなく、誰もいない銀世界で命を絶ちたいだけではないだろうかと自問自答した。つまりは北海道が僕の死に場所だと感じているのだ。これが、野薔薇さんの言っていた呼ばれているということなのか。 「それで、三好は何処に行きたいのよ?」 浅見さんの質問に僕は自分の思考の渦から浮上すると、野薔薇さんと無益な言い合いを止めて運ばれてきていたビールを豪快に飲み、口元に付いた泡を拭った堀木さんを見た。僕たちに話題を振った当の本人がまだ答えていないのだ。彼はジョッキを机に置くと、全員に注視されていることに少し恥ずかし気にしながら「ハワイだな」と答えを教えてくれた。浅見さんは「ハワイ?」と何故か不満そうな声を上げて目を据わらせた。 「定番中の定番だって思うだろ。でも、行きたいんだよ。ハワイの雰囲気を体で感じてみたいんだ。あの海をこの目で見てみたいんだよ。大学生の時はそんなこと思ってなかった。だから卒業旅行先がドバイに決まった時だって何も思わなかったんだよ。だけど、社会人になって、日に日に心が荒んでいくにつれてハワイに強烈に惹かれるようになった」 熱が籠って饒舌になりながらも冷静に淡々と語る堀木さんに僕たちは意識を奪われていた。誰も彼の話を邪魔しようとはせず、黙って聞き入っていた。堀木さんは隈の酷い目を細めると微かに笑みを零した。 「俺はさ、どうして日本人がハワイに行きたがるか分かる気がするよ」 僕たちの間には不思議な静寂が流れ、誰もが呼吸を忘れたかのように微動だにしなかった。緊張感ではないが、それと似た空気が流れていた。まるで僕たちの座席だけ別空間に切り離されたようだ。僕の生唾を呑み込む音が嫌に響いた気がした。全員が未だに堀木さんから視線を逸らせずにいたが、唐突に野薔薇さんが「堀木くん、ハワイに行くのか?」という問いかけに僕と浅見さんは当惑した。訊ねられた本人も目を白黒とさせたが、堀木さんはぷっと吹き出すと、ゲラゲラと愉快そうに笑って「さすが小鳥遊だな!」と野薔薇さんのことを賞賛した。僕はいったい二人のやり取りにどんな意味が込められているのか理解できずに戸惑うばかりだったが、浅見さんも同じ状況なようだった。 「ちょっとどういうことよ?」 耐え切れなくなった浅見さんが堀木さんに詰め寄ると、彼は笑いの波が引いたタイミングで大きく息を吐きだし、ハイボールを喉に流した。 「明日、ハワイに行ってくる」 「明日ですか!?」 あまりに急すぎる旅立ちに僕は素っ頓狂な声を上げたが、堀木さんは憑き物でも落ちたような清々しい笑みを広げた。そんな風に笑う彼を初めて見た僕はドギマギとしたが、少しずつ訳が見え始めていた。 「今日会社は辞めてきた。実は家も水曜日に引き払ってて、ホテルに泊まってるんだよ。少ないけど貯金もあるし、最期にハワイで楽しんでくるかな」 堀木さんの決意に僕たちは言葉を失っていた。天王寺さんとの別れも唐突に訪れたが、堀木さんとの別れもこんなに呆気ないのか。いや、こうして最期に挨拶を出来るだけでも僕たちは十分幸せなのか。 だが、僕は堀木さんの笑顔を見て、寂しさよりも安堵の方が強かった。何年も己の罪と対面し、罰を受け続けてきた彼がようやく解放されるのだ。いつも疲労を滲ませて、自分自身を呪うように笑っていた堀木さんが、こんなにも楽しそうに笑うのだ。僕は友人が幸せであることが嬉しかった。何よりも、誰よりも、幸せになってほしいと思っているのだ。この飲み会のメンバーたちには。 「俺は弱い奴だから、ハワイに行って生きたくなるかもしれねえ。そうなった時はそうなった時で、今後どうするか考えるさ。でも、とりあえずはこれで終わりだ。一区切りだ。お前たちと会うのも、話すのも、これで最後だよ」 僕は、天王寺さんの時のように言葉に迷うことがなかった。友人との別れには決して慣れることはないだろう。寂しい気持ちだって十分にあるのだ。堀木さんは飲み会メンバーの中では最年長で、僕たちにとっては頼れる兄のような存在だった。堀木さんは自分自身を嫌っていたかもしれないが、僕は口が悪くても、過去に罪を犯していても、僕たちと一緒になって騒ぎながらも、誰より面倒見の良い彼が好きだ。それでも、堀木さんとの別れは学校の卒業式に抱く気分に似ていた。旅立ち、正にその言葉が相応しいだろう。 「今日までありがとうございました」 堀木さんに向き合って深々と頭を下げた僕に、彼は照れたようはにかんで髪を掻いた。「ハワイ楽しんできてくださいね」と顔を上げて笑いかけると「もちろん」と彼も笑顔で返してくれた。 これで終わりだなんてまだ実感が沸いてこなかったが、僕はすぐに自然と受け入れてしまうのだろう。変化に身を任せ、流されるままに生きていくのが僕なのだ。人が増えても、減っても、結局僕のすることは同じままだ。周囲が変わっても、僕は変わらない。僕は、いつまで見送る側の人間でいるのだろうか。堀木さんのように心の底から笑える日が訪れることを願っているのだ。 「まぁ、最期にハワイに行くっていうのは悪くないかもね。ダイヤモンド・ヘッドだけは絶対に登っときなさいよ」 「ああ、分かった。あんまり体力には自信ないけどな」 苦笑いした堀木さんに浅見さんは「最期ぐらい頑張りなさいよ」と呆れを滲ませた。最期だからこそ後悔のないように。死ぬ前にハワイに旅立つ堀木さんの決断を羨ましいと思った。僕にはない行動力を彼は持っている。それとも、僕も本当に最期を覚悟したとき、どんなことでも出来るようになるのだろうか。 「堀木くん、お疲れ様。過去のことは忘れて、思う存分楽しんでくるといい」 「ありがとう、小鳥遊。お前が声をかけてくれたおかげで、俺の気持ちも少し救われた」 堀木さんの心からの感謝の言葉に、野薔薇さんはいつもの特徴的な笑い声を上げると「何よりだ!」と言って、得意げな表情をした。 声をかけられた場所も、きっかけも違えど、同じ死にたがりが野薔薇さんによって集められ、一週間に一度また生き延びてしまったことを嘆きながら、くだらない雑談に身を投じるのだ。僕らは当たり前になっていたこの奇妙な飲み会に、心を救われていたのは間違いない。天王寺さんも、堀木さんも、浅見さんも、僕も。そして、僕たちを引き合わせてくれた野薔薇さんも。皆が辛いばかりの日々を楽しくしてくれたこの飲み会に感謝しているのだ。傍から見れば、死にたがり達が集まって傷の舐め合いをしているだけの滑稽な集団かもしれない。それでも、僕らは憐れだと中傷されようとも、こうして睡蓮花で集まることを止めない。 堀木さんが明日にハワイに立つということが判明したため、今日はもう解散にしようと意見が一致し、僕らは席を立った。レジで会計を済ませ、店の外で割り勘にした分を支払ってくれた堀木さんに渡した。 僕は吹き付ける真冬の寒風に体を震わせ、きゅっと身を縮こまらせながら「ハワイって今も暖かいんですかね」と特に誰に問うでもなく独りごちた。 「確か二十度前後ぐらいだったと思うぞ」 「へぇ、じゃあ日本の春とか秋ぐらいの気温でちょうどいいですね」 北国と比べると東京の寒さは大したものではないかもしれないが、それでも東京生まれ東京育ちの僕にとっては冬の東京は十分に寒い気温だった。肌を突き刺すような冬風から逃れて、心地よく柔らかい陽が降り注ぐリゾート地に降り立つ堀木さんにはこれまで苦労したご褒美だ。ハワイの空気は彼の肌に馴染むだろうか。悲しいことばかりがあった東京を離れて、陽気な町に溶け込むことが出来たら、彼は変われるのかもしれない。僕はただ友人の幸せを願うばかりだった。 僕達は浅草駅に向かって歩き出した。華金で賑わう繁華街を進みながら、呑み屋だけでは飽き足らず他愛もない話をあれやこれやと交わす。駅も近くなり、会話が途絶えたとき堀木さんが僕の傍へ歩み寄って来ると「なぁ、」とやや声のトーンを落として話しかけてきた。 「ダニエル・パウターのバッドデイって聴いたことあるか?」 「結構有名な曲ですよね。でも中学生の時に英語の授業で聴いただけかもしれません」 「また気が向いたら聴いてみてくれよ。俺のオススメの曲だからさ」 「オススメですか…分かりました」 なぜ最後になって僕にオススメの曲を提供してくれたのかは不明だったが、彼がこの楽曲に励まされていたのであろうことだけは予想が出来た。 僕達は、これで堀木さんともお別れだというのに、まるで毎週金曜日と変わらないように「それじゃあ」と軽く片手を振って、それぞれのホームへと足を運んだ。僕はホームに立つと、小説を取り出した野薔薇さんを横目にイヤフォンを耳に装着し、スマホの画面をタップした。 『一番大切だった瞬間はどこにいったのだろう。 葉を蹴りあげると、魔法が解けた。 君の青かった空が灰色に色褪せてしまった。 君の情熱は消えてしまったんだ。 もう僕は頑張らなくていい』 『君は落ち込むために新しい列に並ぶ。 コーヒーを持って、作り笑いを浮かべてる。 君は人生を踏み外してばかりだと言うけど。 君はいつもボロボロになっている。 もう、僕は頑張らなくていいんだ』 『今日はついてなかったのさ。 また落ち込んで。 気分を変えたいから悲しいうたを歌うんだ。 あなたには分からないって言うけど。 嘘を吐かないでって。 笑顔を作って、またどこかへ出かけるけど』 『今日はついてなかったのさ。 カメラは嘘を吐かないから。 現実に戻ってきても気にしないで。 今日はついてなかった。 今日はついてなかっただけさ』
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