第九話 結局

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第九話 結局

「お疲れ様、乾杯!」 野薔薇さんの乾杯の音頭により四人でグラスを鳴らし、僕はフルーツカクテルに口を付けると長く息を吐きだした。 天王寺さんが居なくなってから早一週間が経過して初めての飲み会だが、僕たちの間に漂う雰囲気は五人で集まっていた頃と何ら変わらなかった。元々天王寺さんが浅見さんの隣に座っていたが、今夜は堀木さんが座っている。それ以外には何の変化もない。彼女がこの世から居なくなってしまったのかどうか。それとも何処かで生きているのか。連絡を取る手段をなくした僕たちには知る由はなかったが、この世でもあの世でも場所は何処でもいいのだ。僕は天王寺さんが幸せになってくれれば十分だった。誰も彼女の話題を出そうとしないのは、声に出して言ってしまうと寂しさが押し寄せてしまうのか、それとも飲み会のメンバーがたった一人減ったことなど一週間も経てば気にも留めていないのか、僕には三人の表情を観察しても推測の域を出ることはなかった。 運ばれてきたお通しは胡瓜とカニカマを酢で浸した酢の物だ。僕は手を合わせると箸を手に取り、口の中に運んだ。咀嚼すると酸っぱい味が口内に広がった。生ビールを半分まで一気に飲み干した浅見さんが口元に付いた泡を拭うと「今日は最悪の日だったわよ」と瞳に怒りの色を宿しながらぼやいた。 「初パパだったんだけど自分のことを棚に上げてアタシに説教してきたのよ!こんなことして恥ずかしくないのかとか、親が知ったら悲しむぞとかね。マジでキモイんだけど!自分のやってることだって恥ずかしいでしょ!」 女性らしい甲高い声で鬱憤を発散するように叫び散らす浅見さんに堀木さんが苦笑いしながら「そっくりお前に返してやるよって感じだな」と彼女の怒りを肯定した。浅見さんの行いは世間的には良いこととはされず僕自身もあまり賛成は出来ないのだが、先ほどの話に関しては相手の男性に盛大なブーメランが刺さっていると僕も失笑してしまった。 彼女はお小遣い稼ぎにパパ活をしているらしいが、その発端になったのは元彼氏だ。最悪のDV彼氏だったと話しているのは聞いたことがあるが、その内容を詳細に語ってはいなかった。その男のせいで彼女はPTSDを発症したのだから思い出したくないのは当然で、僕たちもわざわざ聞き出そうとはしなかったが、一人僕たちの飲み会には無神経な男がいるのだ。 腕を組んだ野薔薇さんは神妙な顔付きで浅見さんを見ると「君が援助交際を始めたきっかけは元恋人だったな」と問いかけた。何を今更と言いたげな面持ちの彼女は頬杖を付いた。少しばかり二人の間の空気が悪くなったことに僕はハラハラとした。 「男に対して恐怖心を抱くようにはならなかったのか?男が理由でPTSDを発症して援助交際に走るなんて、とんだ矛盾のように思えるが」 野薔薇さんにとっては純粋な疑問でしかなかったのだろうが、僕と堀木さんは浅見さんの逆鱗に触れたのではないかと恐ろしくてたまらなくなり、二人して無意識のうちに背筋を真っ直ぐに伸ばして彼女の様子を見守っていた。しかし、浅見さんは「アタシだっておかしいなんて分かってるわよ」とどこか悟ったような口ぶりで応えた。拍子抜けしてしまった僕は目を瞬かせたが、彼女が怒り狂わなかったことに内心安堵もしていた。堀木さんもキョトンとしながら隣に座る浅見さんに対して困惑していたが、店員が料理を運んでくると全員が取りやすいように中央に並べる作業に移った。 「あのクソ男は浮気性だったのよね。でも、アタシは別れたくなかった。好きだったから」 浅見さんがよく僕に対して、散々な扱いを受けているのにそれでも母を愛しているのはおかしいと言ってきていたことを思い出した。彼女も同じだと思ったわけではないが、彼女も僕と似たようなアンバランスな感情を抱いていたことがあったのだ。憎しみと愛情。何かをきかっけに彼女の感情は大きく憎しみに傾いて、その男と別れることが出来たのだろう。きっと彼女は僕を見ていると昔の自分と重なる部分があって腹が立つのかもしれない。 「浮気されてたってよかったのよ。アタシの傍に居て、アタシのこと好きでいてくれたら。でもアイツはすぐにアタシに暴力を振るった。アタシが会いたいときじゃなくて、アイツが会いたい時にしか来てくれなかった。若しかしたら好きでもなんでもなくて、ただストレス発散対象でしかなかったのかも」 浅見さんは食事に手を付けることはなく話を続けた。僕たちは誰一人として口を挟まずに傾聴していた。こうして元彼氏のことや当時の気持ちを彼女が打ち明けるのは初めてのことだった。満足いくまで話す方が浅見さんの精神的に楽になるかもしれないと判断したのだ。 「自分の思い通りにならなかったらすぐに殴ったり、蹴ったりしてきた。アタシの関係ないことでムカついても暴力を振るわれた。人格否定も数えきれないほどされた。セックスだって自分だけが満足すればいいようなのばっかり。デートした先で置いて行かれたこともあった。友人の目の前で貶されて嗤われたり。本当に色々嫌なことされたのよ。でもアタシはあのクソ男にしがみついてた。だって暴力を振るった後、何度もアタシに謝って好きだって、愛してるんだって言うから。発作みたいなものなのよね、アタシが分かってあげなくちゃ、なんて考えてたわ」 唐揚げに七味を振りかけて食べていた野薔薇さんは「どうして別れたんだ?」と単刀直入な質問を投げかけた。浅見さんはビールを数口飲み、暫くは答えるべきかどうか迷っているようだった。無理に話をしなくてもいいと声をかけるべきだったのかもしれないが、所詮は僕も汚いハイエナのような人間で、好奇心には勝てなかったのだ。彼女が語るのならば聞いてみたいと思った。そんな醜い頭の中を覗かれたくなくて、僕は無関心なフリをしてサラダを小皿へと盛りつけていた。 「殺されそうになったのよ。理由は何だったか覚えてないし、そんなことは些細な問題よ。大事なのはアイツがアタシを殺そうとしたこと。それだけでしょ」 僕はドレッシングがかかったレタスを口に運ぼうとしていた手をピタリと止め、底冷えするような酷くさめざめとした声で陳ずる浅見さんを凝視した。宙で停止していた手がゆっくりと下がっていき、レタスを小皿に戻すと箸を置いて彼女の言葉を反芻した。これまで何年も母親に暴言を吐かれ続け、人格否定をされ、作った料理を滅茶苦茶にされたり、物を壊されたりとした。時には頬を叩かれたりもしたのだが、本気で生命の危機を感じる事態に陥ったことはなかった。母親と息子という関係だからなのかもしれないが、激しい暴力の虐待を受けてはこなかった。だから殺されそうになったと滔々と話す彼女に僕は末恐ろしいものを感じていた。 「ベッドの上で首を絞められたわ。息が詰まって、涙が止まらなくなって、顔も真っ青だったと思う。やめてって叫んだけど、アイツはやめてくれなかった。どんどん意識が遠のくのを感じたの」 「……浅見さん、もうこの話はやめよう」 聞くに堪えなくなったのであろう堀木さんが彼女の話を中断させようとしたが、浅見さんは閉口する気配がなかった。堀木さんの声が聞こえていないのかと僕は彼女の顔を覗き込み、震え上がってしまった。机の木目を凝視する彼女の両目は瞳孔が開き、虚ろに浮かんでいた。いつもの彼女の愛らしい面影は身を潜めていた。 「今でもアイツが時々夜になったら現れるの。枕元に立ってアタシを見下ろすのよ。ニタニタ笑って恐怖で動けなくなったアタシに馬乗りになって首を絞めるの。アタシは…アタシは……!」 浅見さんはアイロンで丁寧にセットされた髪に指先を食い込ませ、頭を抱えるとぶつぶつと呟きだした。僕たちはどうすることも出来ずに茫然と彼女の気が触れた姿を見ているしかなかった。トラウマを呼び起こさせてしまった。何か言わなければならないと心の中で自分を鼓舞しても、僕は彼女に声をかけられずに唖然としていた。堀木さんが「落ち着け、水でも飲め」と言ってグラスに並々に注がれている水を差しだしたが、彼女の視界にグラスなど映りはしない。僕たちの姿さえ認識出来ているか怪しい。今の浅見さんに見えているのは元恋人の影だけだ。 「あれは現実なの?違うでしょ、幻覚よね?ただの妄想よね?アタシがアイツのことを怖がってるから見る幻覚でしょ?ねぇ、そうなんでしょ!?」 頭を上げた浅見さんはヒステリックに叫び、僕たちをぎろりと睨んだ。僕たちを殺せば幻覚から解放されるとでも言いたげな彼女の双眸からは明確な殺意を読み取ることが出来て、僕は蛇に睨まれた蛙のように体を硬直させ、ぶるぶると怯えて震えていることしか出来なかった。最低だと分かっていたが、今の僕には彼女の容態を心配する余裕がなかった。それは彼女の変貌っぷりに恐怖しているのもそうだが、ヒステリックな姿が僕の母親と重なって見えてしまったからだ。 どうして彼女に話をさせてしまったんだろうと深く後悔していると、突然野薔薇さんが水の入ったグラスを手に取り、一切の迷いもなく狂気と憤怒に彩られた浅見さんの顔面に水をぶちまけた。あまりにも衝撃的な光景に僕も堀木さんも目を疑った。水をかけられた本人もポカンとしていたが、徐々に彼女の眼に人間としての理性が光として戻っていった。 「…ちょっと、いきなり何するのよ!?」 浅見さんは先ほどとは違う色を含んだ怒鳴り声を上げ、野薔薇さんに対して目くじらを立てた。野薔薇さんは怒られているにも関わらず、特徴的な笑い声で「正気に戻ったようだな!」と得意げな顔をして見せた。すっかり呼吸を忘れていた僕は大きく息を吸い込み、長く息を吐きだすと浅見さんが普段通りに戻ってくれたことに安堵感が押し寄せた。未だに笑っている野薔薇さんに浅見さんは「最悪」と呟くとハンカチを取り出して濡れた顔を拭いた。 「化粧崩れたじゃない!」 「安心しろ、化粧が崩れても浅見くんは可愛いぞ!」 「そんなこと分かってんのよ」 髪を払いのけた彼女はぶつくさと文句を垂れながら鞄から化粧ポーチを取り出すとコンパクトミラーを机に置き、この場で化粧直しをし始めた。僕と堀木さんは互いに顔を突き合わせると、神妙な面持ちを浮かべていたが、乾いた笑みを零して事態が収拾したことを素直に喜ぶことにした。野薔薇さんの行動は些か問題があったが、あのまま浅見さんを放置していれば更に最悪な事態が待っていたのかもしれないのだ。ここは行動を起こしてくれた彼に感謝しておこう。声に出して感謝を伝えると浅見さんの機嫌を損ねてしまいそうで、隣でサーモンを食べている野薔薇さんに目配せをしたが、彼は気が付いている様子はなかった。 「あーあ、昔のこと話したせいで死にたい気分よ」 「いつでも私が手伝ってやろう!」 「アンタに手伝って貰うなんて屈辱的!」 べっと舌を出した浅見さんに、野薔薇さんはなぜ自分が拒否されているのか分からないといった表情で首を捻った。僕は鈍感な彼の代わりに浅見さんに謝罪をしたが、彼女の話を聞いて僕も内心落ち着かなくなってしまった。死にたい気持ちが波のように押し寄せては引いていく感覚がした。きっと浅見さんにヒステリックな日の母の影を見たせいだ。 「僕も今夜は一段と死にたい気分です」 「おいおい、今夜に二人もいなくなるのかよ」 堀木さんが場の空気を取り繕うように冗談半分に言ったことに僕は疲労を滲ませた笑みを返した。「僕はきっと死ぬ死ぬ詐欺ですね」と返して、無性に虚しくなった。死にたい死にたいと口に出しながら生き続けていることは、間違った行いをずっと続けている気分にさせられた。生きていてはいけない人間が、何の間違いか今日も生きてしまっている。何だか僕の存在自体が罪のようだった。 「無駄に考える必要はない。生きたいときまで生きて、死にたくなったら死ねばいい!」 「僕もそうなれたらいいんですけど。きっといざ自分で死のうとしたら怖気づいちゃうんですよ。僕は弱い人間だから」 「自殺ってのは勢いが大事だからな」 ハイボールを流し込み、目尻を下げながら口元を綻ばせた堀木さんに同調して頷いた。すると野薔薇さんが僕の背中を痛いぐらいにバシバシと叩いた。 「朝日野くん、思い悩む必要はない。そういう時は下を見ればいい。私は幼い頃からずっと死にたがりを続けているんだぞ?なのにこの歳まで生きている。自殺未遂を繰り返してな。私の方が余っ程弱い人間だろう!」 ちっとも笑えることではないのに野薔薇さんは相変わらず豪快に笑っており、僕はつい呆れてしまってつられて微かに笑みを浮かべた。だが、僕は野薔薇さんが弱い人間だなんて思わなかった。死にたいと思いながら、それでも生きる意味を必死に見つけようと藻掻いている彼は強い人間だ。死にたがりが死に踏み切ることだけが勇気ではないのだ。そこから這い上がろうとする姿勢も勇気の一つだ。僕は野薔薇さんのそういったところを素直に尊敬していた。 「野薔薇さんは下なんかじゃありませんし、弱い人間でもありませんよ」 彼を慰めるだとかそんなつもりではなかったが、僕はどうしても言っておきたくなって強い口調で返すと、野薔薇さんは目を丸くしてから嬉しそうにはにかんだ。
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