第十一話 大学

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第十一話 大学

月曜日の朝。一限の講義を受けるために大学へとやって来た僕は、正面玄関を抜けたすぐ先で野薔薇さんの姿を発見した。大勢の生徒がキャンパスへと歩いていくなかを上手く縫って走り回りながら「大学生諸君!」と拡声器を通して呼びかけをしていた。僕は目を伏せると耳に差し込んだイヤフォンから流れているクリーピーナッツの『たりないふたり』に意識を集中させていた。ここは知らなないフリをして通り過ぎるのが賢明だろうと判断した。だが、こういった時に限ってやたら周りに目を向けることが出来る彼は僕の姿を見つけてしまった。 「朝日野くん!朝日野くんじゃないか、おはよう!」 野薔薇さんは拡声器を通して僕の名前を呼び、破願して挨拶を投げかけてきたが、僕は僅かな罪悪感を覚えながらも無視を決め込み、早足でキャンパスへと向かっていく。それでも諦めないのが野薔薇さんである。「朝日野くん?聞こえてないのか?朝日野くーん!」と何度もしつこく声をかけてきた。野薔薇さんとの距離を考えても、朝日野が僕であることを周囲が特定するのは生徒の数を考慮しても難しかったが、そう繰り返し名前を呼ばれると僕も羞恥心がみるみると広がっていき、自然と行き交う生徒が僕を見ているような錯覚を覚えた。 僕は小声で悪態を吐き、イヤフォンを抜いてケースにしまいながら野薔薇さんの下へ走り寄ると拡声器を奪って「やめてください!」と叱責した。怒られているにも関わらず野薔薇さんは「何だ、聞こえていたのか」とにっこり笑った。呑気な彼を見ていると僕は東雲くんとのやり取りなど悩みの種にもならない些細なことではないだろうかと思えてしまった。 「こういうこと止めた方がいいですよ。迷惑になりますし」 「だが、飲み会メンバーも新人を迎えたいと思わないか?」 僕は半ば強引に野薔薇さんの腕を引くと、キャンパスに向かって足を進めた。拡声器を取り上げたおかげで彼は一先ずは大人しく付いて来ていた。会話を弾ませて意識を別のところへ向けようと作戦を頭の中で練りながら、野薔薇さんの問いかけに「どうですかね…」と曖昧な返答をした。実際に迷っているのだ。僕、野薔薇さん、堀木さん、浅見さん、天王寺さん。この五人がいわゆる初期メンバーで、今は天王寺さんがいなくなって四人になっていたが、僕はメンバーが増えた方がいいなんてことはまったく考えていなかった。増えても問題はないが、特別それを望んでいるわけではない。どちらでもいいというのが正直な気持ちだ。 「私としては人数が多い方が賑やかで楽しいと思うが」 「あまり多すぎるのはどうかと…四人から六人ぐらいがちょうどいいんじゃないですかね」 僕の意見を聞いた野薔薇さんは真剣な顔で「なるほど」と囁くと、考え込んでしまった。何もそんな真面目に思案するようなことでもないだろうと僕は失笑したが、飲み会メンバーを招集した本人には重要な問題なのかもしれなかった。先週の金曜日に堀木さんと話したことを思い出し、野薔薇さんが飲み会を開こうと思ったきっかけを訊ねようとしたが、キャンパスに入ってすぐに彼は足を休めた。 「私はこっちだから、拡声器を返してくれ」 「もう勧誘するのはやめてくださいね」 僕は再度注意をして、言われた通り野薔薇さんに拡声器を返した。 野薔薇さんは心理学を専攻しており、主に社会心理学について勉強していた。心理学を勉強することで自分の病気や死にたい気持ちと向き合い、生きる意味を見つけることに繋がるかもしれないと考えたそうだ。どこまでも真摯に生きることに向き合う死にたがりは、傍から見れば継ぎ接ぎで無茶苦茶な行動だろう。だが、僕は生きることに必死な人間ほど、生きることに真面目な人間ほど、死にたい気持ちを抱えるのだと知っていた。適当に生きていくことが出来れば、妥協の連続を許すことが出来たなら、気が付かないでいいことから目を背ける術を身に付けていたら、僕らのような死にたがりは生まれないはずだ。 因みに僕はデザイン工学部。就職先はIT系で考えていた。特にプログラミングが好きというわけでも、得意というわけでもなかったが、これからの時代まだまだ需要がある職業だろう。 挨拶もそこそこに野薔薇さんと別れると、一限目の物理学を受けるために講義室へと足を運んだ。 昼休憩。月曜日は講義を詰めている僕は、大学の食堂で昼食を取るようにしていた。食券機の前に並びながら今日は何を食べようかと悩んでいると、偶然にもトレーを持って歩いていく野薔薇さんの姿が視界に映った。同じ大学に通っているとは言えども、一日のあいだに二回もバッタリ出くわすというのはなかなかないことだった。僕の番が回ってくると千円札を入れ、カレーうどんのボタンを押した。カウンターで食券を渡し、トレーに載ったカレーうどんを受け取ると野薔薇さんが座っている窓際の端の席へと向かった。二人掛けの座席で野薔薇さんは一人焼きそばを食べていた。「お疲れ様です」と声をかけ、卓上にトレーを置くと向かい側の席に腰を下ろした。咀嚼していた麺を呑み込んだ野薔薇さんは「お疲れ様」と目線を軽く上げた。そこで僕は食事中だというのに彼がサングラスをかけていることに気が付いた。食事の席は飲み会以外で一緒になったことはなかったが、飲み会の際はいつもサングラスを外していたため、てっきり食事中は外しているものだとばかり思っていたのだ。 「野薔薇さん、サングラス外さないんですか」 「いつも付けているだろう」 僕の疑問に野薔薇さんはサングラス越しに目を丸くした。僕は両手を合わせ、割り箸を割ると湯気の上がるうどんを絡めとって息を吹きかけた。 「ほら、飲み会の時はいつも外してるじゃないですか」 それだけ言うと、シャツにカレーが飛ばないように慎重にうどんを口の中へ運んだ。食堂のカレーうどんは僕のお気に入りメニューの一つだ。丁度よいスパイスが効いているカレーと大きな野菜がごろごろと入っているのが特徴的だ。納得を示した野薔薇さんは「飲み会はアルコールが入っているからな」と返答した。「なんですか、それ」と僕は目を据わらせ、自然とサングラスの話題になったことで出会った当初から気になっていたことを聞いてみるチャンスだと思い、グラスに注がれた水を口に含んだ。 「というか、なんでいつもサングラスしてるんですか?」 「人に直接目を見られるのが嫌いなんだ。まるで心を見透かされてるような気がして、気分が悪い」 何かコンプレックス的なものに関係しているのかもしれないと考えていたため(だから今日まで聞かずにいた)、野薔薇さんがあっさりと答えてくれたことには驚いた。そして、その内容にも意外性を感じていた。野薔薇さんが自分の心の中を知られるのを恐れているとは、想像もしたことがなかったが、人間なんて皆そうなのかもしれない。僕も誰かに心を覗かれるなんて御免だ。しかし、そんなことはただの被害妄想であるずもない現象だ。だからこそ野薔薇さんが怯えているのが不思議に思えてならなかった。 「心なんて見えませんよ、大丈夫です。特に野薔薇さんなんて、とても理解できませんから」 笑いながら言った僕に野薔薇さんはいつも通りの特徴的な笑い声を上げた。 四限目を終えた僕は漸く家に帰れると、疲労しきった体に鞭打ってキャンパスの外に出た。自宅に帰っても洗濯物を取り込み、夕食の支度をして、それからバイトに行かなければならず、月曜日は一週間の中でも一番ハードな日なのだが、僕は己の若さゆえに尽きない体力に感謝していた。 コートのポケットからイヤフォンケースを取り出して耳に装着しようとしたとき、大学の敷地内のベンチに腰かけている野薔薇さんを発見した。まさか一日のうちに三回も大学内で野薔薇さんに遭遇するとは。まるで伝説のポケモンが連続で出現したような、お得な奇跡に近いものを感じるが、野薔薇さんと出会っていいことの方が少ないだろう。 野薔薇さんはベンチに腰かけてただひたすら人の流れを観察しているようだった。こういうことは彼にしてみれば珍しいことではないのだ。人の波を見ていたり、蟻の行列を観察したり、雲の流れを追ってみたり、そういうことを突発的にするような人間なのだ。一見無意味に思える行動をする野薔薇さんは「世界の真理が見えるような気がするんだ」と語っていたが、そんなものを知ったところで何になるのだろうか。大気汚染で地球は破壊するとか、平和がある限り争いはなくならないとか、僕ら人間は所詮操られているだけの存在だとか、そういうことを真実として突きつけられたとして、僕ら一個人に出来ることなどない。抗うだけ無駄なのだ。だが、野薔薇さんは抵抗しようとしている。無駄なことだと頭の片隅で理解していながら、抵抗を止めないのだ。力尽きてしまうのも時間の問題ではないだろうか。諦めなければ彼は死にたがりのままだ。 何かに集中している野薔薇さんは話しかけてもまず反応を返さない。今も人の波から情報を処理するのに忙しくて僕が近付いても心ここに在らずといった具合になるだろう。ならば、わざわざ話しかける意味もないと僕はイヤフォンを耳に差し込んでスマホを取り出したが、ずっと真っ直ぐに人の流れを見ていた野薔薇さんが突然ベンチから崩れ落ち、身を丸め始めた。遠目で見ても苦しんでいることが分かり、僕は混乱しながらも慌ててスマホとイヤフォンをポケットに突っ込み、彼の下へ駆け寄った。野薔薇さんは酷い過呼吸の状態になっており、ひゅうひゅうと途切れ途切れの呼吸を繰り返しながら激しく胸を上下させていた。冬場だというのに額には玉の汗が浮かび、サングラスで見えない両目の焦点が合っていないことは安易に想像が付いた。 「野薔薇さん、大丈夫ですか!?」 僕は両膝を地面に付き、野薔薇さんの背中に手を回して彼の顔を覗き込んだ。返事をする余裕もないようで野薔薇さんは乱れた呼吸を繰り返すばかりだ。ポンポンと一定のリズムで背中を叩き「深呼吸してください!」と促すが、首を横に振ってまったく言う通りに動いてくれなかった。やがて自分の胸倉を右手で握り締めた野薔薇さんは数回嘔吐くと吐瀉物を口から吐き出した。煉瓦造りの地面に嘔吐物が広がると、ツーンとしたアンモニア臭が鼻孔を刺激した。 「救急車呼びますから!」 これ以上は僕にもどうしようもないと判断し、救急車を呼ぶためにスマホを取り出した(大学へ生徒が救急車を呼んでいいのかどうかなど考えていられるほどの心の余裕はなかった)が、野薔薇さんが僕の手をガッチリと掴むと「やめてくれ」と息も絶え絶えに訴えかけた。 「何言ってるんですか、早くしないと…!」 「いいから、呼ぶな!」 野薔薇さんがこんなふうに声を荒げるのを初めて聞いた僕は思わずド肝を抜かれ、硬直してしまったが、再び「呼ばないでくれ」と弱々しく言われると僕はスマホを持っていた右手を下げて「わ、分かりました」と返事するほかなかった。 「救急車は呼びませんから、深呼吸してください」 僕のお願いにやっと耳を傾けてくれた野薔薇さんは大きく息を吸い込んだ。僕は背中を叩くのを再開すると「次は吐いて」と促した。大きく深呼吸をしたことで少しばかり野薔薇さんの呼吸の乱れは良くなった。何度か吸って、吐いて、と僕が促すのに倣って深呼吸を続けていくと、過呼吸は収まり、野薔薇さん自身も余裕を取り戻した。もう平気だろうと判断した段階で僕は野薔薇さんから手を離し「大丈夫ですか?」と声をかけた。 「ああ、もう平気だ。ありがとう」 「いえ。これで口元拭いてください」 僕はポケットからティッシュを取り出して差し出すと腰を浮かせた。嘔吐物の掃除を清掃員の人に頼まなければならないだろう。それから野薔薇さんに水を買ってこよう。頭の中で行動の段取りを組むと、野薔薇さんにはベンチに座って休んでおくように告げ、清掃員を探して走り出した。 先にキャンパス内の自動販売機で水を購入すると、中庭で掃除をしていた清掃員に事情を話して野薔薇さんの待っているベンチまで来てもらった。清掃員のおじさんは嫌な顔一つせずに掃除を済ませた。僕と野薔薇さんはぺこりと頭を下げ、おじさんが去っていくのを見送った。ペットボトルの水を半分ほどまで飲み干した野薔薇さんは大きく息を吐きだし、隣に腰を下ろした僕へと目配せして「悪かった」と申し訳なさそうに謝罪をした。野薔薇さんのこんな姿は稀有だと思いながら「気にしないでください」と笑い返した。 「時々先ほどのようにパニックになるんだ。この世界はあまりにも情報が多すぎる。すべての情報を処理しようとすると脳がパンクする。朝日野くんも、そういう経験がないか?」 「パニックってほどではありませんけど、人混みがあまり得意じゃないんで、その気持ちは少なからず分かりますよ」 ふっ、と笑みを零した野薔薇さんは背もたれに体を預けると空を仰いだ。僕もつられるようにして空を見上げてみた。もう陽は沈みかかっており、青、紫、オレンジのグラデーションが巨大なキャンパスに描かれていた。夕景色に染まっていく街はとても美しく、緊迫していた空気を払拭して心を和やかにしてくれた。行き交う生徒たちの賑やかな話し声や大通りを走る車のエンジン音が遠くに反響していた。滑るように空を飛ぶ鴉の群れが巣に向かって急いでいた。僕も早く帰らなければ夕食の支度が間に合わなくなってしまうのだが、もう暫くはこうして夕焼けを眺めていたい衝動に身を任せてしまっていた。 「まったく生きにくい世の中だな!」 「そうですね、本当に」 失笑した僕に野薔薇さんは豪快に笑うと腕を組んだ。 「だが、生きにくくしているのは自分自身なんだろう。私たちは知っているはずだ。世界がとても美しいことを」 僕の脳裏には五人で見た星空と朝焼けの海が蘇っていた。そして、意識はいま目の前にある夕焼けに戻された。世界はこんなにも美しい。醜いのは、汚らわしいのは、人間だ。人間社会だ。僕自身だ。 「野薔薇さんは僕が助けを求めたら、手を差し伸べてくれますか?」 僕の発言が相当野薔薇さんにとっては愉快だったのか、ケラケラと腹を抱えた彼は「無理だな!」と嘘偽りもない一言をあっけらかんと返した。あまりにも素直で正直な言葉に思わず僕も頬が緩んでしまった。 「私には人を助けられるだけの力はない。私が出来るのは一つだけ、一緒に死ぬことだけだ!」 野薔薇さんと共にこの世を立とうとは思っていなかった。僕は僕のタイミングで、その瞬間を決して見逃さないようにして、自らの手で世界に別れを告げたかった。最後の最期まで誰かに頼りたくはないのだ。死ぬ時ぐらいは一人で平気になりたかった。それでも、共に死んでくれる相手がいるという事実は僕の心をどんな言葉よりも救ってくれた。守ってくれていた。壊さないように、崩れないように、消えないように、大切に包み込んでくれていた。世界で最も優しい台詞だ。 「ありがとうございます」 僕のお礼がいったい何に向けられているのか、野薔薇さんには分からないだろうが、それでも構わなかった。僕が望んでいるものを与えてくれる存在に寄りかかるのは、都合が良すぎるだろうか。僕は僕を守るために他人を平気で利用出来てしまうクズだが、心は痛まなかった。誰もが誰かを利用して生きている。嘘を吐いても、開き直っても、事実が変わることはないだろう。世界はクズで溢れているのだ。 僕はスマホを取り出すとメッセージアプリを開き、東雲くんをブロックした。
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