第十三話 夜景

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第十三話 夜景

堀木さんが飲み会メンバーを抜けた翌週の金曜日。昼間に浅見さんから「六本木に夜景見に行かない?」というメッセージが送られてきた。僕も野薔薇さんも二つ返事で了承し、今夜は睡蓮花ではなく六本木での集合になった。 六本木ヒルズ展望台の前で六時に待ち合わせをした僕たちは、全員が集まると早速建物の中に入り、チケット売り場まで向かった。金曜日の夜なこともあって大勢の人で賑わっていたが、まだ六時台の入場は出来るようになっていた。券売機で三人分のチケットを購入し、ゲートを通ると案内係の指示に沿って他の客と共にエレベーターに乗り込んだ。ぐんぐんと上昇していくエレベーターに僕の耳は気圧の変化で押しつぶされそうになった。上手く耳抜きを出来ない僕は目尻を寄せ、大きな欠伸を洩らした。隣で浅見さんも険しい顔付きをしていたが、野薔薇さんだけは平然とした様子で辿り着く夜景の景色を楽しみにしているようだった。 エレベーターが停止すると僕たちはぞろぞろと流れるように外に出て、目の前に広がる東京の夜景に感嘆の声を洩らした。窓際に走り寄った浅見さんの後を追いかけ、僕と野薔薇さんも硝子越しに煌びやかな景色へ目を馳せた。光の絨毯が広がる中、左手には東京のシンボルである東京タワーが紅く輝きを放っていた。人々の営みが折り重なって生み出される幻想的な世界。車がミニチュアのように動いていて不思議な気持ちになった。スマホで何枚もの写真を撮っている浅見さんを余所に僕と野薔薇さんは並んで二人して目を奪われていた。 「綺麗ですね」 口から零れた感想は実にありふれたもので、己の語彙力のなさを恨んだが、それ以上にこの夜景を言い表す台詞が思い付かなかったのだ。僕は野薔薇さんの横顔を盗み見たが、サングラス越しに見えている夜景を想像するのは難しかった。きっとサングラスを外している方がもっと壮麗に景色を楽しむことが出来るはずだが、大勢の人がいる中で彼は決してサングラスを外したがらないだろう。本当の美しさを目に焼き付けることが出来ない野薔薇さんを気の毒に思ったが、彼は小さく息を呑むと「ああ、美しいな」とうっとりとしたような声色で呟いた。 「東京という街は本当に美しい。私はこの街で生まれ、育ったことを心から誇りに思っている」 大袈裟な言葉だと僕は失笑してしまったが、野薔薇さんは大真面目なようだった。僕は改めて夜景に向き直り、東京の美しさを瞳に映した。小さな町にぎゅっと建物を詰め込んで、ひしめき合いながら人々が生活している。まるで、東京そのものがジオラマになってしまったようだ。僕たちはこうして上から東京を見下ろしているが、僕たちも展望台を下りれば夜景の中の一部となるのだ。大勢の人が訪れて、そして出ていく街。東京はいつも煌びやかで、賑やかで、来るものを拒まず、去る者を追わない。僕たちのような異端者もそっと受け入れてくれる街だった。 「もう少し奥に行ってみましょ」 声をかけてきた浅見さんに応え、僕たちは右へ伸びている通路を歩き出した。少し行った先には照明が一切なく、夜景が先ほどよりも鮮明に見えるポイントがあった。僕たちは窓際の空いているスペースに腰かけると、窓に顔を近付けて暫くは無言のまま景色に見惚れていた。星や海のときもそうだったが、美しい景色というのはいつまで見ていても飽きないものだ。更には座ることが出来て、温かい暖房の効いた建物の中なのだからこの場から離れたくなくなってしまうのも仕方ないだろう。それは全員が同じ気持ちだったようで、誰一人として喋ることなく席を立とうとはしなかった。 かれこれ十五分近くはそうしていたいただろうが、僕の意識を隣から聞こえてきた嗚咽が現実世界に引き戻した。白昼夢でも見ていたかのように僕はぼんやりとしながら、薄暗みの中で泣いている浅見さんを視界に留めて茫然としていた。彼女は両目から溢れ出す涙を拭いながら、ポケットからハンカチを取り出した。「浅見さん…?」と僕は状況が理解できないまま当惑して彼女に声をかけたが、浅見さんは泣いてばかりで僕には反応を返してくれなかった。僕とは正反対に浅見さんが泣いていることをまったく気にもしていない野薔薇さんは相変わらず夜景と向き合ったままでいた。 「あの、野薔薇さん」 僕が話しかけても野薔薇さんは意識を完全に切り取ってしまっているよう無反応だった。僕は右隣の彼の肩を揺らして「野薔薇さん!」と声のトーンを抑えながらも先ほどより強く呼びかけた。野薔薇さんは緩慢とした動きで僕に顔を向けると「何だ、朝日野くん」と怪訝そうに聞き返してきた。 「浅見さんが…」 僕は左隣の浅見さんに視線を転じ、野薔薇さんに助けを求めたが、彼は軽く肩を竦めると「放っておけ」とだけ言って夜景に意識を戻してしまった。あまりにも薄情ではないのかと僕は憤慨したが、かと言って僕も浅見さんに何が出来るわけでもなかった。そもそも彼女がどうして突然泣き出したのかも分からないのだ。自分の世界に没入する野薔薇さんと、泣き続ける浅見さんに挟まれて僕はおろおろとしていた。 「浅見さん、大丈夫ですか」 浅見さんは濡れた頬をハンカチで拭いながら「大丈夫よ」とぐずぐずになった鼻声で返事をした。僕は見守っているしか出来なかったが、彼女の嗚咽が引き、涙が止まり始めたことに安心した。浅見さんの目元はメイクが落ちて黒くなってしまっていたが、僕は指摘せずに黙っておくことにした。彼女自身が一番分かっているだろうし、落ち着いたらメイク直しをするだろう。 「風も三好もいなくなったわね。次はどっちがいなくなるの?」 黙って彼女の隣に腰かけていると、思いがけない質問を投げかけられ、僕は狼狽えながら目を瞬かせた。浅見さんは夜景の光に横顔を照らされながら、僕を真っ直ぐに見据えていた。メイクが崩れていても、彼女の美しい顔立ちを隠すことは出来なかった。むしろ宝石のようなきめ細かい光を浴びる彼女はいつもよりも可憐だった。 「アタシが死ぬよりも先に二人ともいなくなるんじゃないの?」 僕は何も答えられずにいた。浅見さんが普段決して見せない弱い部分を垣間見ているようで、複雑な心境だった。野薔薇さんは僕たちの会話など聞こえていないかのように夜景に釘付けになっていた。 「せっかく出来た友達なのにね」 自嘲的に嗤った彼女の姿に僕は胸が締め付けられ、とにかく何でもいいから言葉を返さなければいけないと口を開きかけたが「馬鹿みたいよね」と諦観した彼女の一言に遮られた。僕は慌てて「馬鹿なんてことないですよ」と励ましたが、どれだけ的外れな言葉であったか、浅見さんの酷く悲し気な面持ちを見て痛感させられた。 「僕も寂しいですよ。堀木さんと天王寺さんがいなくなったのは」 「そんなんじゃないわよ」 素っ気なく言い返されてしまうと、僕はどんな言葉も無意味に思えて仕方なくなった。浅見さんはふいっと僕から顔を背けると「そんなんじゃない」ともう一度繰り返して、窓越しの夜景に意識を注いだ。僕は数秒間は彼女の横顔を見つめていたが、浅見さんの視線が夜景から僕へ向けられることはなかった。 僕には彼女が本当の意味で泣いていた理由も、先ほどの言葉の意味も理解することができなかった。いつも野薔薇さんは変人で、彼を知ろうとするのは無駄な行為だと思っていたが、同様に僕は浅見さん、堀木さん、天王寺さんたちのこともちっとも分かっていなかったのだ。人間観察が得意なんだと豪語して、同じ死にたがり同士本音で語り合うことが出来ているなどと勘違いをして、僕は彼女たちを知ったつもりでいたが、あくまでつもりだったのだ。本当は何も分かってなどいなかった。天王寺さんがあのとき死のうと思った理由も、堀木さんが旅立つ覚悟を決めた瞬間も、僕は知らない。虚しかった。孤独に苛まれた。独りが集まったところで、所詮は孤独には変わりないのだ。僕は達観しているつもりでいて、誰よりも彼らに依存していたのだろうか。 「朝日野くん」 僕は己の滑稽さを突き付けられ、目頭が熱くなるのを感じたが、野薔薇さんに呼びかけられたことで何とか涙を堪えた。僕は鼻をすすると「何ですか」と首を傾げた。野薔薇さんは僕が泣きそうになっていたのも気が付いていないのであろう、心底嬉しそうな表情で窓を人差し指でつんつんと突き「あそこにスカイツリーがあるぞ!」と教えてくれた。僕は野薔薇さんが指さした方向を覗き込むようにして見てみると、彼の言った通りかなり遠くにスカイツリーらしき建造物が立っていた。ぼんやりと青白い光を放っている近未来的建物は東京タワーとは別の東京らしいシンボルだった。 「本当だ、綺麗ですね。野薔薇さんは東京タワーとスカイツリーならどっちの方が好きですか?」 「難しい質問だな。だが…、強いて選ぶなら東京タワーか」 「昔からありますもんね。でも僕はスカイツリーもすごく好きですよ。なんかSFチックでかっこいいじゃないですか」 「ロマンがある建造物だな!」 二人で二つの東京のシンボルについて語り合うのは、実に無益な時間ではあったが、僕は自然とざわざわと騒がしかった心が落ち着くのを感じた。僕と野薔薇さんは夜景をぼんやりと眺望し、人間社会や文明に感動した。野薔薇さんは子守唄のように穏やかな声色で「朝日野くん」と僕の名前を口にした。僕は夜景の中を浮かぶ彼の横顔に目を向けたが、野薔薇さんは夜景を俯瞰したまま言葉を続けた。 「東京という街は、これだけ大勢の人間の営みで作られているんだ。そう考えれば、私たち一人の存在なんてあまりにもちっぽけで、そのことに安心できると思わないか」 「安心ですか?」 「ああ、そうだ。私たち一人や二人、…三人が消えたところで、東京は何も変わらない。小さな変化を変化として受け止めることもなく、平穏な日々を続けていくだろう。だからこそ、私たちは安心して死ねるというものだ」 また僕は泣きたくなった。とても、幸せな気持ちに浸ることが出来たからだ。窓が壊れでもしたら、僕は躊躇いなく飛び降りることが出来ただろう。それほどまでの幸福感が、心も体も満たしてくれて、オキシトシンか何か(幸せ成分)が溢れ出した。「そうですね」と絞り出した一言に、野薔薇さんは満足げに首を縦に振った。やはり、僕は野薔薇さんが死神に思えてならなかった。僕たち死にたがりを穏やかに、安らかに、死へと導いてくれる死神だ。僕も浅見さんも待っているのだ。彼が導いてくれる日を。順番待ちをしているのだろう。だが、それならば野薔薇さんはいつ解放されるのか。死にたがりを死へ導く役目を担っていては、彼はいつまで経っても死ねないのではないか。それとも、いつかは生きる意味を見つけ出すことが出来るのだろうか。そんな、くだらない妄想を頭の中で繰り広げている自分が馬鹿らしくなって小さく笑みを零した。 「今なら死ねそうです」 「ああ、私もだ」 「だけど、ここから離れたら、きっとこの気持ちも消えてしまうんですよ。またただの死にたがりに逆戻りするんです」 僕と野薔薇さんの間には気まずい沈黙が流れた。お互いのことを責めるような僕の正論は、僕だけではなく野薔薇さんの心も傷付けた。しかし、彼は正論でへし折られてしまうような弱い人間ではなく、むしろ僕達の中で誰よりも死に対して真剣だった。 「ならば、ここで死ぬしかない!」と叫び、懐から折りたたみ式ナイフを取り出した野薔薇さんには流石の僕もド肝を抜かれた。まさか刺されるのでは…と思わず身構えたが、相手が死にたがりであれど殺人という大罪を犯そうとはせず、己の死への欲求を満たすために野薔薇さんは自分の首元にナイフの切っ先を当てた。「野薔薇さん!」と僕は悲痛な声を響かせ、彼の両腕を掴むと首元からナイフを引き離した。この非常事態には浅見さんも呆気に取られていたが、僕と野薔薇さんの争いに彼女は我に返って「何してるのよ!」と野薔薇さんからナイフを奪ってくれた。サングラスの奥で彼の目がキッと吊り上がったのが分かったが、僕は興奮している相手を冷静さを失わないように意識しながら宥めた。 「どうして邪魔をするんだ!?」 怒りを露にする野薔薇さんに僕は「落ち着いてください」と何度か繰り返し言い聞かせると、彼は声を荒らげるのを止めて、僕への抵抗も諦めた。腕をだらんと垂らしたのを確認し、血行を止めんばかりの握力で握っていた手の力を弱めた。 「死にたいなら死んでもいいです。でも、ここではやめてください。大勢の人がいますから」 俯き加減の彼に言い聞かせるよう訴えると、野薔薇さんは暫く考え込むように押し黙っていたが、やがて「分かった」と不満げながらに頷いた。僕は安堵の息を吐き、浅見さんからナイフを受け取ると(刃は収納しておいた)、迷った末に野薔薇さんに返した。 「こんな危険な物持ち歩いてたら警察に怒られますよ」 野薔薇さんはこれまでにも何度か警察に通報され、署へと連行されているようだが、危険物を所持していることはバレていなかったのだろうかと疑問に思った。彼がどれだけの要注意人物として知られているのかは不明だが、厄介な事に巻き込まれて、もう飲み会を開けないなんて形で終わりを迎えたり、野薔薇さんと別れるのは避けたかった。 野薔薇さんは僕の注意を聞いても、叱られた子供のように拗ねた態度を取っていたが、いそいそとナイフを懐にしまってくれた。もう持ち歩かないということは約束してくれないが、とりあえずは落ち着きを取り戻してくれたようだ。これ以上この場に留まれば、耐えきれない死への欲求に野薔薇さんが危険な行動へ走ってしまうと判断し、浅見さんへ無言で合図を送ると「もう行きましょう」と野薔薇さんを促して立ち上がった。僕に腕を引かれる形で野薔薇さんも椅子から腰を浮かせた。 僕たちの間には拭い切れない緊張感があったが、それ以上に疲労感が勝っていた。これといって言葉を交わすこともなく展望台を後にすると、近場で夕食を済ませようと適当なレストランへ足を伸ばした。レストランに辿り着いた頃にはすっかり野薔薇さんの機嫌も元通りで、調子よく笑っていた。マイペースが行き過ぎている人だとは思っていたが、これ程までに情緒が安定しない姿を見たのは初めてで、僕は僅かに彼に恐怖心を抱いたが、そんな感情も夕食の席で繰り広げられる雑談に打ち消されていった。 ただ僕の中に残ったのは、僕らは美しい景色を見るといつも死にたくなるのだという事実だけだった。
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