第三話 堀木の怒り

1/1
前へ
/17ページ
次へ

第三話 堀木の怒り

「あの、クソ上司!ぶっ殺してえ!」 夜の七時に呑み屋『睡蓮花』に全員が集合し、今日は半個室の座敷へと通された。一通りの注文を済ませ、最初にお通しとお酒が運ばれてくると、乾杯を済ませた途端に堀木さんがハイボールを勢いよく流し込み、激しく叩きつけるようにジョッキを机に置いて溢れんばかりの怒りを口に出した。店の前で顔を合わせた時から今夜は機嫌が良くないのが分かったが、どうやら職場で相当嫌な目に遭ったようだった。 乱暴な言葉遣いの彼に「まぁ、落ち着いてください」と僕は乾いた笑みを零して何とか宥めようとしたが、気を回すのも僕ばかりで他の三人はまったく気にも留めていなかった。それどころか野薔薇さんはいつも通りの特徴的な笑い声を放ち「そんなに腹が立つなら殺してしまえ!」と問題発言までする始末だった。余計なことを言わないで下さいと野薔薇さんを牽制し、僕は堀木さんへと顔を向けた。 「アイツ、自分のミスを全部俺のせいにするだけじゃなくて皆が見てる前で怒鳴り散らして俺に無理やり謝罪まで強要してきやがった。おかげで俺は契約先にまで頭下げに行く羽目になったんだよ。しかも自分のミスだって発覚したあとも謝罪一つしねえ。どうなってんだ、あのクソ野郎の神経は!」 アルコールを一気に流し込んだのも理由だろうが、何よりも怒りで顔を真っ赤にさせた堀木さんはどれだけ喚いても心が落ち着かないと言いたげに苛立ちを抑えきれず貧乏ゆすりをしていた。僕はコンビニでバイトをしているが、特別嫌いな先輩が居るわけでもなく、それは僕が嫌われないように必死に気を遣っているおかげでもあるのかもしれないが、とりあえずは職場では良好な関係を築けていた。苦手な人というのはどんな場所にもいるもので、ある程度の諦めや妥協が必要なのも社会で生き抜くためには仕方がないのだが、いつも堀木さんが愚痴を零す上司に至っては問題が多すぎた。暴力とまではいかないが、暴言は日常茶飯事の典型的なパワハラ上司だ。堀木さんの心労は絶えないだろう。せめて仕事を辞めればストレスも幾分かは軽減されるのだが、簡単に退職させてくれるような職場ではなさそうだった。それに堀木さん自身が仕事を辞める気はないのだ。 「そんなに文句ばっか言って働く意味が分かんないんだけど」 実家暮らしで無職の浅見さんはストレスを溜めてまで仕事を続ける堀木さんを理解不能な生物でも見るような目で見ていた。丁寧な所作でお通しを黙々と食べていた天王寺さんが「働かないと生きていけない」と厳しい言葉を返した。人間は働かなければ生きていけないというのは厳しい現実問題だった。働かずに生活できる人と言うのはほんの一握りだけなのだ。浅見さんは恵まれていた。僕も大学卒業後は仕事をして母親にこれまでの恩返しをしなければならない。今は実家暮らしだが、一人暮らしも始めることになるだろう。生活費を稼ぎ、幾らかを実家に渡して、大学の奨学金の返済もあるのだ。仕事がなければ生きていくのは不可能だ。僕はそれまでに命を絶っている可能性も否定できないが、現状生きている限り将来の不安は付き纏ってくる。時々死にたがりが自分の未来を心配している状況の矛盾に心が暗鬱となるのだが、死ねる決心が着くまでは悩み続けるほかないのだ。今の僕は死ねないが生きることもままならない出来損ないだ。 「実家に帰ったらどうなの?そうすればお金が浮くんだからバイト程度でいいじゃない」 「浅見さん、俺はもう三十一のいい大人なんだよ。流石に実家暮らしのフリーターなんて肩身が狭すぎる。周りからの目も気になるし…」 「アタシも成人した大人だけどニートだもん!」 その状況を許されるだけの環境に身を置けているというのは幸せなのだろうが、とても自慢できることではないだろう。しかし、浅見さんは得意げな顔で豊満な胸を張ってみせた。 「そもそもこれは俺への罰なんだ。だからどうしようもないんだよ。分かってる。分かってるんだ…」 ぶつぶつと呟く堀木さんはどんどんと沈んでいってしまったが「ああ、でもムカつく!」と濁声で再び怒りを爆発させて頭を掻きむしった。彼の頭の中では自問自答が繰り返されているのだろう。終止符を打つには周りの意見にも耳を傾けるのが重要だが、堀木さんは真面目な人だった。己の過去の罪と真正面から向き合い、逃げようとはしないのだ。被害者が見ているわけでもないのに。他の誰かに命令されたわけでもないのに。自分で自分を追い込み続けていた。堀木さんを苦しめるのはパワハラ上司は無論だが、一番は彼自身ではないだろうか。僕たちはそういったことを踏まえて何度か転職を勧めたこともあったが、彼は聞く耳を持たなかった。意見を聞いてもらえない以上、僕たちは彼の気が済むまで愚痴を聞くしか方法はないのだ。 「俺が死んでもクソ上司がのうのうと生き続けるのが許せねえ」 「君が上司を殺害してから自害するのはどうだろうか。遺書に会社のことを詳しく書いておけば、世間は堀木くんに同情するぞ」 野薔薇さんの物騒な提案に堀木さんは目を細めると不気味な笑みを零して「悪くないな」と口元を歪めた。自殺するだけの度胸がある人間には、もう怖いものなんてないだろう。堀木さんが本当に犯罪を犯すのではないだろうかと僕は心配になったが、そんな眼差しに気が付いた彼が僕へと疲れ切った笑みを向けた。 「安心しろよ。結局俺に人を殺す度胸なんてないさ」 「そうなのか。つまらないな!」 「野薔薇さん、失礼ですよ」 デリカシーのない野薔薇さんの返答に僕は呆れてしまいながら叱咤すると「野薔薇さんは一人暮らしでしたよね」と首を傾げた。運ばれてきたお気に入りの唐揚げに七味がけを頬張り出した彼は口をもごもごと動かしながら大きく頷き返した。 「私は半ば追い出されたようなものだが、家賃は両親が負担してくれているおかげでバイト代だけで生活は十分に出来ている」 「追い出されたんですか?」 「ああ、一緒に住んでいるのに疲れたそうだ」 僕は失礼ながら野薔薇さんの両親の気持ちが痛いほど分かった。彼のような変わり者と一つ屋根の下で暮らすなんてストレスが蓄積されるに違いない。だが、それを実の親に言われてしまうのは子供として酷く悲しいことだと思えた。僕も母に「お前なんて生まなきゃよかった」と悪態を吐かれる度に胸が締め付けられる思いをするのだ。僕は母を恐れ、憎んでいる反面愛してもいるのだ。愛している人に自分の存在を否定されるのは辛くてたまらない。野薔薇さんだって同じではないのだろうかと考えてみても、彼の何とも思っていないような声色や笑顔からは真意を読み取れなかった。 「俺は家族と不和があるわけじゃないし、その点では恵まれてるかもな」 もう早くも一杯目のハイボールを飲み終わった堀木さんはため息交じりに独り言ち、店員に二杯目のハイボールを注文していた。僕は牛タンにワサビを付けて口の中に運び、ツンとした辛味と肉の歯ごたえを楽しみながらずっと黙りっぱなしの天王寺さんの様子を窺った。おでんの大根を一口サイズに切り分けて食べようとした彼女は垂れ下がる髪を耳元にかけた。その女性らしい仕草に僕が思わず見惚れてしまうと、視線に気が付いた彼女が大根を咀嚼しながらこちらをじっと見つめ返してきた。真っ直ぐに目が合ってしまったことにドギマギとして目線をさ迷わせると天王寺さんは大根を呑み込んだ。 「それぞれ家庭の事情はあるだろうけど、私は家族がいることが羨ましい」 吐露された天王寺さんの本音に僕と堀木さんは気まずくなって視線を交差させた。サラダを小皿に分けていた浅見さんが「じゃあ家族作ればいいんじゃない?」とあっけらかんとした態度で提案をした。僕はすぐにその言葉の意味を理解すると両目を見開いたが、相変わらず天王寺さんは動揺など見せなかった。 「私と結婚してくれる人なんていない。私みたいな見た目じゃ誰からも愛されない」 「誰からもというわけではないだろうが、普通の女性よりは難しいだろうな」 「ちょっと、野薔薇さん!」 チューハイに口を付けようとした僕は無遠慮な野薔薇さんの返答に咳き込んで声を荒げた。他人の気持ちを考えられない冷たい人だとは思っていたが、まさか友人の傷を抉る真似が出来る人だったとは思わず、僕は少なからず彼に幻滅した。野薔薇さんは僕の侮蔑に対してもケロッとした表情で「事実なのだから仕方ないだろう」と笑い声を上げた。 「私は恋人の裸を見た時に大きな火傷痕があったら引くぞ。どんな理由があろうとな。朝日野くんはすぐに受け入れられるのか?」 「そ、それは…」 僕は己の想像力不足を悔やんで言葉を詰まらせたが、野薔薇さんが正しいと擁護する気にもならなかった。僕も受け入れるのに時間がかかってしまうかもしれないが、それを気にしている相手に容赦なく言ってしまえるデリカシーのなさが腹立たしかった。野薔薇さんがこういう人間だということは理解して付き合っているが、周囲に気を遣って良好な関係を築くことに重きを置いている僕とは相容れない生き方だった。 僕らの雰囲気が悪くなったことを誰もが感じ取ったのだろう。天王寺さんが「私は別に気にしてないけど」とフォローをしてくれたおかげで僕はとりあえず怒りを鎮めることにした。 「アタシは仕事のことで悩むなんて馬鹿らしいし、一生働きたくないなぁ」 天王寺さんの話をつまらなさそうに聞いていた浅見さんは話題を少し前に戻してその場の空気を変えてくれた。本人にはそのつもりがないようだが、僕は内心助かったと感謝しながら「浅見さんなら出来そうですね」と苦笑いを返した。店員がハイボールを持ってくると堀木さんはお礼を言いながら受け取り、数口喉に流し込んでいくと「羨ましいよ」と羨望の眼差しで呟いた。 「まぁ、俺は何も仕事自体が嫌ってわけじゃないけどな。ブラック企業とパワハラ上司が嫌なだけさ。あーあ、マジであのクソを殺して俺も死にてえ!」 店全体に響き渡らんばかりの声量で叫んだ堀木さんは「就職するときは気を付けろよ」と僕と野薔薇さんに警告をしてくれた。ブラック企業に苦しめられる彼だからこそ重く心にのしかかる台詞だと深く噛み締め「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。すると卵焼きを食べていた野薔薇さんが突然箸を握りしめて立ち上がった。トイレだろうかと全員が思ったのもつかの間、野薔薇さんは箸をマイクのようにして口元に持っていくと声高らかに歌い出した。 『幼い微熱を下げられないまま。  神様の影を恐れて。  隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめた。  色褪せながら、ひび割れながら。  輝くすべてを求めて』 野薔薇さんが歌っているのは日本人なら誰もが一度は聴いたことがあるであろう、スピッツの『空も飛べるはず』だった。酔っている、酔っていない関係なしに野薔薇さんはこうして突然歌いだすことが度々あったのだ。だから僕たちは急遽始まった彼の熱唱をすんなり受け入れることが出来た。それどころか体を揺らしてリズムを取っていた。 『君と出会った奇跡が、この胸に溢れてる。  きっと今は自由に空も飛べるはず。  夢を濡らした涙が海原へ流れたら。  ずっとそばで笑っていてほしい。』 一番を歌い終えた野薔薇さんは満足したのか椅子に座り直すと、何事もなかったかのように卵焼きを再び食べ進めた。堀木さんと天王寺さんが拍手をして、僕も倣って手を叩いておいた。 夜も十時を過ぎたころ、今日はもうお開きにしようということで僕たちは伝票を持って席を立った。レジの会計では堀木さんが支払いを済ませ、店の前でそれぞれの金額を彼へと返した。天王寺さんは店から徒歩二十分ほどの場所にあるアパートで暮らしているため、いつもここでお別れになる。 僕たちは「お疲れ様」と彼女に手を振って見送り、その姿が見えなくなると駅に向かって歩き出した。浅見さんは横浜の方に住んでいるらしく、海と夜景が美しいタワーマンションだと前に自慢していた。タワーマンションに住めるだけの資産家だなんて羨ましい限りだ。両親も一人娘の彼女を相当甘やかして、蝶よ花よと愛でられてきたのだろう。堀木さんは埼玉の草加でアパートを借りているらしい。職場は都内だが、東京は家賃が高いと嘆いていた。野薔薇さんは東京の中野だ。大学生が中野で一人暮らしなんてなかなかに贅沢ではないだろうかと思っていたが、今日の話を聞いた限りでは両親が家賃を出しているようだし納得である。実家も中野にあるとのことだった。僕は東京の神楽坂だ。家は一軒家の持ち家で、それなりに良い暮らしをしていると思っている。僕が生れる前に蒸発した父親と買った夢のマイホームだったようで、僕が生れた後に売り払うことも考えたらしいが、ローンを払って住み続けることを母は選んだ。こんな感じで僕たちは住んでいる場所がバラバラなのだ。なので、浅草駅までは一緒だが、駅に到着すると僕と野薔薇さん以外は別々の電車に乗ることになっていた。 「……あの、堀木さん」 僕は駅の改札に差し掛かったところで一歩前を歩いていた堀木さんに声をかけた。スーツのポケットから定期入れを取り出していた彼は目だけでこちらを振り向いた。 「仕事のこと、本当に無理しないでくださいね。僕はいつでも転職していいと思いますよ。その…過去はありますけど、堀木さんは十分に罰を受けたと思いますから」 華金ということもあって、この時間でも浅草駅は大勢の乗客で賑わっており、多くの酔っぱらい集団がわいわいと賑やかに話をしていた。僕は流れ行く人々を見るたびに、いったいこの内のどれだけの人が僕と同じように死にたい気持ちを抱えているのだろうかと想像するのだ。前に野薔薇さんが「世の中には君が思っているよりも大勢の死にたがりがいる」と言っていた。僕も僕自身が希死念慮を抱くようになり、この世界の住人になったからこそ彼の言葉は間違っていないと思えた。この世界には大勢の死にたがりが、死にたいと思いながらも今日を生き延びてしまうのだ。いま僕の隣を通り過ぎた人は精神を病んで病院に通っているかもしれない。発券機で切符を買っている女性は死について迷っているかもしれない。電車で隣に座った人が今夜首を吊るかもしれない。人の心何て分かりはしないが、僕の無駄な考察は世界を違う視点から見させてくれた。世界の喧騒に人の温もりも絶望も怒りもない。あるのは今日もまた生き延びてしまったという嘆きと、そんな自分を許すための慰めの色だ。 そして、死にたがりだと知っているからだとしても前を歩いている堀木さんの背中がとても小さく感じて、僕は安っぽい台詞でつい心を慰めてしまった。同情なんてされても嬉しくないことや、分かっていないくせに分かったように慰められるのがどれだけ気分を害することなのか、僕は何度か経験をして知っていたはずだった。己の発言を激しく後悔し、謝罪をしようと口を開きかけたが、堀木さんは隈が深い目を細めて笑い返してくれた。 「ありがとな。その言葉で少しは俺も救われるよ」 僕はもう何も言わなかった。これ以上堀木さんに気を遣わせて、心労を増やしたくなかったのだ。 改札を通り抜けて僕と野薔薇さんは、浅見さんと堀木さんに挨拶をしてホームに足を運んだ。ホームで決められた列に並んだ僕と野薔薇さんはそれぞれ大学に持って行っている鞄を漁った。野薔薇さんは電車に乗っている間いつも読書に勤しんでいた。読書を邪魔するととても気分を悪くしてしまうのだ。どうやら公共交通機関が苦手で、気を紛らわせるために電車の中ではずっと読書をしているらしかった。だから僕たちは同じ電車に乗って帰路に着くが、車内での会話は無に等しかった。野薔薇さんはずっと読書をして、僕はイヤフォンを差し込み音楽を聴くのだった。野薔薇さんの取り出した小説の表紙には『日時計』というタイトルが大きく書かれていた。 「野薔薇さん、サングラスかけながらで読みにくくないんですか」 僕はワイヤレスイヤフォンを片耳に差し、スマホで音楽アプリを開きながらサングラスをかけて瞳を見ることが出来なくなった彼に訊ねた。読書中もいつもサングラスをかけっぱなしで文字が読みにくくないのだろうかという素朴な疑問だったのだが、野薔薇さんは僕の質問に「気にならないな!」と笑い飛ばした。そもそも彼が食事中以外はずっとサングラスをかけている理由を僕は聞いたことがなかった。だが、不思議と今は訊ねる気分にはならず「そうですか」とだけ返すと、もう片方の耳にもイヤフォンを差し込み、Perfumeの『ナナナナナイロ』を再生した。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加