第四話 遺書

1/1
前へ
/17ページ
次へ

第四話 遺書

今日は夕方に珍しく野薔薇さんから「欠席する」という連絡が来て、六時を過ぎた頃に堀木さんから「残業で行けない」という趣旨の連絡が入り、僕と浅見さん、天王寺さんという三人メンバーになった。 カウンター席で三人横並びに座った僕たちはいつもより少なめに注文をし、最初に運ばれてきたアルコール飲料のグラスを持った。乾杯の音頭を取ってくれる野薔薇さんが欠席しているため、僕はやや遠慮がちに「今週もお疲れ様です。乾杯!」と言ってグラスを掲げると、二人もカランとグラスを合わせてくれた。僕の右隣に座っている浅見さんが喉を鳴らして豪快にビールを飲む姿はもう見慣れた光景だったが、その飲みっぷりは男も顔負けだと改めて感心してしまった。唇に付いた泡を拭った彼女はニヤニヤ笑いを浮かべて僕に顔を近付けた。 「よかったわね。今日は両手に花じゃない」 僕を挟んで左側に腰かけている天王寺さんに目配せをし、僕の顔を覗き込んできた浅見さんに揶揄われていると分かっていてもドキドキしてしまった。前のめりの態勢になったことでVカットのトップスから彼女の豊満な胸の谷間がよく見えて、僕は頬を紅潮させると慌てて前に向き直った。あからさまな僕の態度に浅見さんは「アタシの胸見てたでしょ」とわざとらしく肘を突っついて「一万円ね」と片手を差し出してきた。素っ頓狂な声を上げて彼女の顔を見ると、浅見さんは子供のようにはしゃいでいた。からかわれたのだと理解した僕は情けなさと恥ずかしさで手元のグラスと対面した。 「そういう厄介な絡み方は止めたら?」 天王寺さんが僕に助け舟を出してくれたが、浅見さんはそれすらも遊戯を見つけたかのように瞳を煌めかせて「嫉妬してるの?」と煽りながら首を捻った。野薔薇さんと堀木さんが居ないだけで、こんなに普段と違う空気になるものだろうかと思いながら、僕は少し気まずくなって女子二人に挟まれたまま委縮してしまっていた。 「もしかして風って、信太朗のこと好きなの?」 「あ、浅見さん…!」 とんでもない浅見さんの質問に僕は頭が真っ白になりそうだったが、当の本人は顔色一つ変えることなくフルーツカクテルを一口飲むと「友達としては好き」と簡素な答えを返した。拍子抜けしてしまった僕とは対照的に浅見さんは腹を抱えると、まるで僕を励ますようにポンポンと肩を叩いてきた。僕が期待していたみたいな反応だが、こうなることは予想が付いていた。ただ緊張していたに過ぎないのだ。 「それ以上にはならない。だって朝日野くんって自分を好きになってくれる人なら誰でもよさそうだから」 「確かにそうよね。愛してくれるなら誰でもいいとかいうメンヘラ?」 「え、ちょっと待ってください。ぼく責められてます?」 つい先ほどまで浅見さんは天王寺さんを揶揄っていたはずだが、いつの間にか女性二人で結託して次は僕が追い詰められていた。何もしていないのに、どうして悪口を言われているのだろうか。僕は別の居心地の悪さを感じてより一層委縮してしまいながら眉と唇をへの字にした。 天王寺さんの隣を一席開けた座席では若い男性が生ビールを片手に焼き鳥を頬張っていた。僕は一人で呑み屋に入る度胸がなく、見知らぬ彼を尊敬したが、結局は話し相手が欲しくなってしまうのがオチなのだ。僕は自分がそういう人間であることを二十年間付き合ってきて理解していた。浅見さんのメンヘラという中傷も否定出来ないのが情けなかった。一人でも強く生きていける人間になれば、僕は母親との確執も乗り越えられるのだろうか。だけど誰も必要としない人生は誰からも必要とされない人生と同義だ。やはり僕には耐えられない。 机に並べられたサラダ、サーモン、おでん、枝豆、焼き鳥を各々取っていきながら今日はどんな話題が飛び交うだろうと気持ちを切り替えて楽しみにした。すると、早速サーモンをレタスでくるくると巻いている天王寺さんが口火を切った。 「私、一昨日に遺書を書いてみようとしたの。書いてみれば何か思うことがあるんじゃないかと思って。でも結局書けなかった。遺書って何を書けばいいのか分からない」 サーモンをパクっと口に放り込んだ彼女は、どう思う?と無言で問いかけるように僕と浅見さんに視線を滑らせた。僕はサラダを自分の分だけ取り分けながら「遺書ですか」と囁いて浅見さんに目を向けてみた。僕も遺書を書いた経験はなく、書いてみようとしたこともなかったのだ。だが、天王寺さんの言う通り遺書を書いてみれば今の死にたい気持ちと向き合える気がした。 「アタシは一回本気で死のうとした時に書いたことあるわよ。もう捨てたけど。自殺するときの遺書なんてその時の気分で書くものなんじゃないの」 「そうですね。遺書は家族の為にもあったほうがいいかもしれませんけど、自殺の時の遺書を先に書いておくって、あんまり気分が乗らないですよね」 僕と浅見さんの意見を聞いた天王寺さんは「そう…」と呟いて僕からサラダを取り分ける箸を受け取った。 遺書を書く、書かないは置いておいて、その内容はどんなものを綴った方がいいのかというのは僕も知っておきたかった。いずれは書くことになるであろう遺書の内容だ。ネットで検索すればいくらでも出てくるなんて分かり切っていたが、同胞と語り合うからこそ意味があるのだと思えた。 「とりあえず自殺に至った理由は書きますかね」 「それは人それぞれじゃない?アタシは書かなかったし」 「私も理由は書きたくない」 僕の意見に否定的な二人に目尻を下げたが、彼女たちが言う通り誰もが自分のことを知ってほしいわけではなかった。例えば学校での虐めや会社でのパワハラが原因での自殺ならば、遺書に理由を書くことで再発防止に繋がるかもしれない。もしくは自分を自殺に追い詰めた人間に社会的制裁を加えたいと考えている場合も有効的だろう。しかし、そうでない時は理由などわざわざ書かなくても本人にダメージはない。残された人間が理由を知らないままモヤモヤしてしまうだけだった。僕は改めて遺書に自殺の理由を書くメリットとデメリットを導き出して、意見を変えることにした。 「やっぱり僕も書かない方がいいかもしれませんね。母さんのことを書いて、もし母さんが世間から責められるようなことになったら…死んでも死にきれないですから」 「アンタって母親に酷い扱い受けてるくせに母親のこと好きよね」 信じられないとでも言いたげな眼差しを僕に注いだ浅見さんに、僕は僕の内に渦巻く複雑な感情を上手く言語化することが出来ず「たった一人の家族ですからね」と当たり障りのない返答をした。浅見さんは納得がいかないといった面持ちを浮かべていたが、それ以上は言及しようとはしなかった。 僕は幼い頃に母親が優しくしてくれていた過去に未だ縋っているのだろうか。それとも、いま口にした通りたった一人の家族だからこそ自然と愛してしまうのだろうか。母親に対する愛憎は僕自身を苦しめる要因になっていた。目を瞑っても見えてしまう大きな矛盾だ。僕を虐げる母を憎んでいるはずなのに、彼女の機嫌に振り回される毎日は億劫なはずなのに、それでも母が居ない生活なんて考えられず、無意識下で優しかったかつての母を求めていた。つい先ほど天王寺さんは、僕は愛してくれる人なら誰でもいいと言っていたが、やはり的確な表現ではないだろうか。僕は母からの愛情不足のせいで他者からの愛情に飢えているのだ。だが、僕が求めているのは天王寺さんや浅見さんが言っているような愛の形だろうか。僕が欲しているのは母親としての、親子としての愛の形ではないだろうか。 「お世話になった人への感謝は書きたい」 思考の渦に呑まれかけていた僕は天王寺さんの片言に意識を引き戻され、作り笑いを浮かべて気を取り直して、チューハイに口を付けて無言で賛同の意を表した。 「アタシもママとパパには感謝を伝えたいわね」 「浅見さんはご両親のこと大好きですよね」 「もちろんよ。自慢のママとパパだもん!」 そう言って屈託なく笑う彼女は穢れを知らない子供みたいに僕の瞳に映ったが、彼女は人間のどす黒い部分や社会の不条理を沢山見てきている大人なのだ。そんな彼女が無邪気に笑えるのは心から素敵なことだと思えて、僕もつられて顔を綻ばせた。 死にたがりも何もかもが不幸とは限らない。その人の側面だけを見て幸か不幸かを判断するのは間違っている。僕らはすべてを知ることが出来ないからこそ、勝手な思い込みで他者を理解した気になってはいけないと死にたがりたちの飲み会で知り、そうした世界の真実を知れたのは有難かった。一部が満たされていたとしても、また別の一部が本人を死に至らしめるほどの不幸の可能性だって十分に有り得る話なのだ。僕はそれを我儘とは呼びたくなかった。 「僕も母さんとそれから皆に」 「みんな?」 「野薔薇さん、堀木さん、浅見さん、天王寺さんのことですよ」 「私も養護施設の人たちと皆に感謝を伝える」 「じゃあ、アタシも皆に書いてあげるわよ」 浅見さんのつんけんとした態度に僕はクスクスと笑みを零した。遺書にお世話になった人への感謝を綴ることは多いのではないだろうか。他人の遺書を見たことはないため明確な根拠があるわけではないのだが、自殺に至った人間にも感謝するべき相手が一人はいてもおかしくないのだ。勿論世の中には本当に孤独でそんな相手など皆無だと言う人もいるだろうが、少なくとも僕は僕をここまで育ててくれた母親と、心を閉ざしてばかりで鬱屈とした日々にほんの微かな木漏れ日を与えてくれた飲み会のメンバーには感謝をしていた。 「それ以外は死んだあとのこととかですかね」 「死んだあと?お葬式はどうするかとか?」 「まぁ、そんな感じですね」 「お葬式…」 葬式というワードに天王寺さんは真剣な面持ちで箸を皿に置いて考え始めた。僕も一緒になって自分の葬式について想像してみたが、辿り着いた答えはしないでほしいというものだった。葬式は家族葬でもそれなりの金額がかかるはずだ。ただでさえ金銭的な負担を母にはこれまでかけてきたというのに、死んだ後にまでそんな迷惑をかけたくはなかった。葬式は必要ない。墓石も必要はない。ただ母が必要とするならばそれも否定しなかった。僕には意思がなく、母親が望むようにしてくれれば満足だった。 「私は身寄りがないから」 「親族がいない人のお葬式ってどうなるんですかね」 僕は当たり前に家族が居る前提で話を進めていたが、天王寺さんの一言に身寄りがない人間のことに気が付かされると首を傾げてポケットからスマホを取り出した。こういうものは検索にかければすぐに分かってしまう便利な世の中なのだ。僕は『身寄りがない人の葬儀』と検索窓に打ち込み、ヒットした一番上の文章に目を通した。 「行政は戸籍などを辿って親族を探し、ご遺体の引き取りと葬儀、埋葬を依頼します。身寄りが全くない人、ご遺体や遺骨の引き取りを断られた場合などは自治体が火葬を行い、一定期間保管したあとに合葬墓へ合同で埋葬します。……だそうですよ」 僕はスマホの画面を消してポケットにしまうと顔を上げた。天王寺さんは「私はそうなる」と呟いて、焼き鳥を食べ始めた。いつもと同じように表情に変化はなく声色も淡白だったが、僕は彼女から不思議と哀愁を感じて胸が締め付けられた。 「アタシは豪華なお葬式をしてもらうわよ!ママとパパだってきっとそうしたがるだろうし」 「浅見さんらしいですね。きっとすごくお金がかかってるんだろうなぁ」 「当然よ!なんてったってお金持ちなんだから!風たちのことも招待してあげるわよ」 「本当ですか?ありがとうございます」 「ありがとう。誰かの結婚式に参加するよりも楽しみ」 結婚式と葬式。幸せと悲しみ。世間一般では両極端なそれを持ち出したのは天王寺さんの皮肉だったのか、ただの本心なのかは分からないが、僕はぷっと吹き出してしまった。続いて浅見さんもケラケラと笑い「アタシも結婚式よりお葬式に参加する方が気楽ね」と同意を示した。僕は更におかしくなって声を上げて笑った。その隣で天王寺さんが微かに口角を上げたのを見逃さなかった。 「それとアタシは火葬じゃなくて土葬がいいのよね」 「土葬ですか」 「そう。眠りから目が覚めたときにちゃんと肉体があるようにするために土葬にしてるらしいわよ」 「そんな理由があったんですね。初めて知りました」 「私は絶対に火葬がいい。遺灰を海にまいてほしい」 「それってすごく素敵ですね」 天王寺さんの理想に僕は表情を明るくさせたが、彼女は身寄りがないことを思い出すと「でも…」と指摘するかどうか躊躇った。僕が何を言いたいのか察した浅見さんが「自治体がするなら無理でしょ」と容赦なく言ってしまうと、僕たちは沈黙に包まれた。僕は気まずさに耐えきれず、再びスマホを取り出すと素早く検索をかけて画面をスクロールさせた。 「あ…!友人でも一応葬儀は出来るみたいですよ。遺書に僕たちに葬儀を任せることを書いてくれれば、僕たちが天王寺さんのお葬式の段取りを組めます」 僕は少しでも天王寺さんにポジティブに考えてもらおうと教えたつもりだったが、彼女は前に向き直ると首を横に振ってフルーツカクテルを数口飲んだ。 「皆に迷惑をかけてまでしてもらいたいわけじゃないから」 「そんな…迷惑なんてことないですよ」 「別に、いいの」 強い口調で跳ねのけられてしまうと、僕はそれ以上は食い下がることは出来なかった。一杯目のビールを飲み終わった浅見さんがカウンター越しに二杯目のビールを注文すると肘を付いて「遺書って難しいわね」とぼやいた。 「そうですね。こんなふうに話してますけど、実際書く時にはもっと簡素かもしないし、逆に色々と書いてしまうかもしれないし」 「やっぱりその時の気分よね」 机の上を躍っている斑点模様が目に留まり、天井を仰向くと鯉の硝子細工がゆらゆらと揺れていた。「それでいいのかも」と天王寺さんが独り言ちたことに僕も浅見さんも賛同はしなかったが、遺書の内容を考えるのは今は止めようと思考を停止させた。僕達は未来を見据えたり、自分の死んだあとのことを想像するのが嫌いなのだ。そんなものは不安の要因にしかならない。今だけでも手一杯だというのに……なんて卑屈に心の中で嘆いた僕は酒を呷った。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加