第五話 憂鬱

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第五話 憂鬱

今日はいつも以上に憂鬱だった僕は飲み会を欠席することを考えたが、欠席したところで家にも帰りたくなく、かと言って一人で何処かに行きたいわけでもなく、結局少しは気分も晴れるだろうかと期待して飲み会に参加した。しかし、皆がいつも通り賑やかに騒ぐ声や他愛ない話で盛り上がっているのをぼんやりと聞きながら、より一層気分が落ち込んでいくのを感じていた。上手く作り笑いをしてその場を取り繕っても、頭のなかでは今朝の母とのやり取りがぐるぐると回っていた。 母は僕が居ると大抵機嫌が悪いのだが、その中でもまだ良い方の時と特に酷い時とで別れていた。今朝は特に機嫌が悪い日で、僕が作った朝食に手を付けないどころかひっくり返して滅茶苦茶にされてしまった。スクランブルエッグとポテトサラダ、焼き立てのトーストがスリッパで踏みつけられているのを僕は黙って見ていることしか出来なかった。止めようものなら火に油を注ぐ結果となるからだ。母が満足して朝食に当たるのを止めると僕は繰り返し謝罪をしながら掃除を始める。母の気に入らない朝食を作ってしまったことへの謝罪だ。朝食何ていくつかのメニューをローテーションにして作っているのだが、それでも母のその日の気分に合わないことだってあるのだ。僕は必要以上に気分を害して怒られないためにも謝り続けるのが得策だと学んでいたが、あまりにもしつこいと僕の謝罪の言葉さえ鬱陶しくなって怒らせてしまうのだ。僕にはまだその辺りの塩梅は掴めていなかった。 朝食は食べずに僕の淹れるコーヒーを飲んだ母は「お前の顔なんて見たくない」「お前を生んだのが間違いだった」と次は愚痴を零し始めた。これも日常茶飯事の光景で、僕の心は未だに母親からの悪態に胸が苦しくなり、着実に何処か深い闇の中へと沈んでいく感覚がするのだが、蓄積される塵のようなものでしかないのも事実だった。子供のころから言われ続けて多少なりとも耐性が付いているのだ。だから、そこまでで終わっていれば僕も今日はこんなに憂鬱にならなくて済んだのだ。 母は一杯のコーヒーを飲み終わるまでの間ずっと僕の悪口を声に出して僕に投げつけてきていた。僕はチクチクと小さな針で刺されながら、母の散らかした朝食の後片付けを済ませ、向かい合う位置で腰を下ろすと自分の朝食を食べて、時折「ごめん」と謝罪を挟みながら母の話を聞いていた。 そして、母がコーヒーをすっかり飲み切ってしまった時に発作が訪れた。数ヶ月に一度あるかないかのような発作だが、僕は母がその発作に陥る度に死にたい気持ちが強くなる。母は両手で顔を覆ってすすり泣き始めたのだ。僕は動かしていた手がピタリと止まり、鼓動が速くなっていくのを聞いていた。ほんの数秒前まで強気だった母親の姿が弱々しく小さくなっていくのを慰めもせずに凝視していた。綺麗に手入れが行き届いた栗色の髪がカーテンのようになって揺れていた。「どうして私がこんな辛い思いをしなくちゃいけないのよ」と嘆きながらしゃくりを上げ始めた。僕の存在が母を苦しめているのだと思うと、僕はどうして生まれてきてしまったのだろうかという在り来たりな疑問に行き着くのだが、同時に僕を生むことを決めたのは、いま目の前ですすり泣いている女ではないのかという憤怒も抑えきれなくなる。悲憤というのが正しいのだろうか。僕を生み出した女性から存在を否定される悲しみと、その責任は僕にはないという怒りの感情が同時に僕を埋め尽くすのだ。だが、何よりも僕の死にたい気持ちを強くさせてしまうのは、母が泣いているという行為そのものだった。辛いのは母だけではないのだ。僕だって同じぐらい辛い思いをしてるのだ。なのに母は僕が泣くと「お前が泣くな」と怒鳴りつけてくる。どうしてこの人には泣く権利があって、僕には泣く権利すらも与えられないのだろうか。涙で少しでも心に溜まった汚れを落とすことが出来ればいいのに、それすらも許されないなんてあまりにも惨かった。腹立たしかった。憎かった。殺意にも似た双眸で母親を見てしまう自分が恐ろしかった。一番恐ろしいのは僕をそうさせてしまう母の存在だった。 そんな今朝の出来事で今日一日はずっと憂鬱だったのだ。自宅に帰って母と顔を合わせる気分にもなれなかった。零れそうになったため息を呑み込み、二杯目のウーロンハイに口を付けた。かれこれ席に着いてから二時間近くは経過していた。すっかりメインの料理は食べ終わり、軽いつまみを片手に酒を飲みながら皆はゲラゲラと笑っていた。 「早まるなとか、生きてればいいことあるとか、そういうこと言う奴に限って何もしてくれないのよね」 「自殺を止めるならその後ちゃんと助けろよって話だよな」 「ああいう人間は無責任な奴らばかりだからな!見て見ぬフリしている人間の方がよっぽと自分の言動に責任を持っているだろう」 野薔薇さんの特徴的な笑い声が鼓膜を揺さぶり、全員が賛同の意を表した。僕も他の三人に倣って「そうですね」と乾いた笑みを洩らした。この場から立ち去りたい理由はなかったが、いつものように楽しめていない自分が申し訳なかった。一週間に一度、せっかくこうして集まっているというのに、僕はこの飲み会の席を心の癒しだとさえ感じているというのに、素直に楽しめない心情に余計落ち込んでしまった。野薔薇さん、堀木さん、浅見さん、天王寺さんの賑やかで明るい声。アルコールの臭いが鼻孔を擽り、店内の騒音と溶け合っていく感覚を五感全てで感じていると、妙に寂莫とした想いに襲われて目頭が熱くなった。皆と一緒に居るのに、まるで僕の席だけ切り離されてしまったような孤立感、いや、孤独感を覚えた。 僕は膝の上でぎゅっと握り拳を作り、顔を伏せて唇を噛み締めた。泣きたくなった時に涙を堪える方法は思考を放棄することだが、今の僕は何も考えないようにしていても、皆の声が耳に届くたびに孤独になってしまった。このままではよくないという気持ちが急いでトイレに立つかどうか迷っていると、僕の異変に天王寺さんが気が付いた。 「朝日野くん、体調悪いの?」 彼女の声が音になって全員の鼓膜に拾われてしまった途端、全員が僕を注視するのが分かった。誰かに心配されるような振る舞いをしてしまった自分を呪いながら、震える唇で大丈夫ですと応えようとしたのよりも先に「朝日野?」と堀木さんが野薔薇さんを挟んで座る僕の顔を覗き込んで優しく声をかけてきたことに、必死に耐え忍んでいたダムが決壊してしまった。 両目からポロポロと涙が零れ落ち、僕が泣いていることに堀木さんが息を呑むと同時に僕は子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。誰もが唐突過ぎることに呆気に取られているだろうが、僕はもう周りを構っていられる余裕などなくなっていた。人前で泣くなんていつぶりだろうかと、変に冷静な頭の一部分で考えていたが、恥ずかしいという感情は沸いてこなかった。今朝の出来事など知らない四人にとっては意味不明な光景に違いないだろうが、僕はわんわんと泣き続けた。かける言葉が見つからないのであろう皆は口を閉ざしていたが、僕の泣き声を掻き消さんばかりに野薔薇さんが「朝日野くん、泣いてスッキリするのなら好きなだけ泣くといい!」と豪快に笑った。僕は彼の笑い声を聞いて、生まれて初めて自分が泣くことを肯定された安心感により涙が溢れだして止まらなくなり、十分近くは泣き続けていた。 次第に泣くのも疲れてしまい、どんどんと嗚咽が小さくなって、僕はぐずぐずになった鼻をティッシュでかむと、真っ赤になった目を手の甲で擦って遠慮がちに全員を見回した。泣いている間は周りを気遣っている暇などなかったが、泣き止んでしまうと自分の行動がどれだけ恥ずかしいのか実感して自然と頬に熱が集中した。 「とりあえず落ち着いたか?」 堀木さんは複雑な表情で、いつの間にか用意してくれていた水の入ったグラスを僕の前に置いた。お礼を述べて水を一気に流し込み、深く息を吐きだすと「はい、大丈夫です」と頷き返した。ビールを飲んでいた浅見さんが変なものでも見るような目で僕を見つめていた。 「…で、どうしていきなり泣き出したりしたのよ」 「すみません、実は……」 母との出来事や心情を語るかどうかは僅かに迷いがあったが、ただの友人ならいざ知れず、僕の事情を知っていて尚且つ全員が死にたがりというこの集団の中では僕の心の闇も吐露しやすいものだった。 すべてを打ち明けた僕に天王寺さんが「理不尽だね」と呟いた。彼女の的確な表現に僕は疲労を滲ませた笑みを浮かべた。僕が生れてきたことにより母を傷付けてしまっているという事実がある限り、僕自身の口では言うことが憚られるその一言を天王寺さんが代弁してくれたような気がして、心のしこりが削ぎ落される気持ちよさがあった。 「朝日野くん、どうせ死ぬんだ。頑張ることも無理することも必要ない!泣きたいときに泣けばいい。考えたって仕方がないだろう」 いつも通りの調子で笑った野薔薇さんに僕は自然と表情筋が緩み始めていた。誰かに同情してほしいとか、慰めてほしいとか、助けてほしいとか、そんな思いがまったくないわけではなかった。だが、そんなことよりも思いっきり泣く方が僕には必要だった。押し殺していたものを解き放ったことで気持ちが楽になったことは疑いようのない事実だった。母への恐怖は未だに拭えず、家に帰って顔を合わせることは拒んでいたが、彼らと飲み会を楽しむだけの心の余裕は生まれていた。 「私も余計なことで悩むのははとうに止めてしまった。私が追い求めるものは生きる理由、ただそれだけだ。それ以外の悩みなど考えても無駄だという答えに気が付いた」 「野薔薇さんにも悩みがあるんですね」 「ああ、昔はあったとも!なぜ私は人の気持ちが理解できないのか。なぜ周りと同じように振舞えないのか。なぜ他の者より劣っているのか。周囲から孤立するたびに悩んでいたが、そんなもの考えて何になる?どうせ解決出来ないのなら、悩むだけ時間の無駄だ!」 何でもないことのように野薔薇さんは語っていたが、僕は彼の心の深いところを覗いてしまったような気持ちになり、末恐ろしくなった。過去の自分を笑い飛ばすように破願している彼を見ていると、その心の中で何を思っているのか、その頭の中で何を考えているのか、そんなことが知りたくてたまらなくなったが、仮に知ることが出来たとしても僕には理解が出来ないのだろう。誰も僕の母への愛憎を理解できないように。人は人を本当の意味で理解は出来ない。人は人を本当の意味で共感できない。人は人を本当の意味で救えない。二十年間生きてきて、僕が身に染みて学んだことだ。 僕らはこうして隣に並び、ひとつにはなれずに一人と一人で支え合うしか出来ないのだ。それが人間であり、僕はそんな不安定な関係が嫌いではなかった。 「野薔薇さんも色々と辛い経験をしてきたんですね。てっきり子供の頃からこんな調子なんだと思ってましたよ」 「いや、辛いと言うほどではないだろう。孤立はしていたが、虐げられることもなかったからな。いじめっ子もいじめる相手は選ぶものだ。頭のおかしい人間は相手にしたくないのだろうな」 笑える話ではないのだが、野薔薇さんがあまりにも愉快に笑うものだから、僕も堅苦しい顔付きは出来ずに口元を綻ばせた。堀木さんも浅見さんも同じ調子で相好を崩し、天王寺さんは無言で僕たちのやり取りを見守っていた。 「まぁ、小鳥遊の言う通りだな。無理せずに嫌になったら逃げればいいんだよ」 「私たちはいつでも死ねるから」 「ああ、そうだな!いつでも死という素晴らしい選択肢がある」 皆の笑い声につられて僕も頬を上気させると腹を抱えた。「ありがとうございます」と一人一人を見回してお礼を述べた。僕の気持ちを否定せずに聞いてくれる人は彼らだけだった。自殺という答えを肯定してくれるのは同じ死にたがりの彼らだけなのだ。僕は死を考えている時とても心が軽くなるのだ。どうせ死ぬから。そう考えると、多少の困難は乗り越えていけるのだ。用意された最大の逃げ道にいつでも走っていけるよう準備は出来ていた。その瞬間がいつ訪れるのか僕には予想が出来なかったが、着々と迫ってきているのは分かった。恐怖が一切ないと言えば嘘になる。動物なのだから生存本能があるのだ。本能では生きることを望んでいる。それでも、僕らは人間だ。人間には思考する力があって、感情がある。僕は自分の感情に正直になって生きたかった。それゆえに辿り着いた答えが自殺なら僕は笑って受け止められる気がした。そう教えてくれたのが野薔薇さんたちなのだ。僕は彼らに感謝してもしきれなかった。 「ほんとアンタってバカ真面目よね。人間なんて泣かなきゃやってらんない時が山ほどあるのよ」 もう何杯目かも分からないビールを空になるまで一気に飲み干した浅見さんが、目を据わらせてジョッキを机に叩きつけた。彼女にしては珍しく弱気な発言にキョトンとしたが、彼女にも僕とはまた違う苦しみが色々とあることは知っていた。きっと今も過去のトラウマに苛まれ、涙が止まらない夜を数多く超えてきているのだろう。僕には慰めも励ましもすることが出来なかったが、彼女は僕のように我慢せずに泣いて少しでも気持ちを楽にさせていられることを願った。 その後も僕中心で話が進み、十時を過ぎた頃に飲み会はお開きになった。会計を済ませ、店の前で天王寺さんと別れると四人で浅草駅に向かった。いつも通り僕と野薔薇さんは同じホームに並び、電車を待った。僕はイヤフォンを差して音楽を聴き、野薔薇さんは読書に集中していた。 電車に乗り込み日本橋まで移動すると、次は東西線に乗り換えた。日本橋を出発し、大手町、竹橋とどんどん僕の自宅の最寄り駅に近づいていく。イヤフォンからはケシの『スケルトン』が流れていた。向かい側の車窓を流れていく景色は地下の薄暗闇ばかりで単調だったが、夜景よりもよっぽと良いと思えた。美しい景色は僕に強烈な死への欲求を与えるのだ。 電車は九段下に到着し、僕の自宅の最寄り駅である神楽坂まではあと数分となった。隣に腰かけている野薔薇さんの様子を窺ってみると、真剣な顔付きでサングラス越しに小説と睨めっこしていた。いま声をかけたら彼は読書を邪魔されたことで不機嫌になってしまうだろう。僕は再び顔を前に向き直らせ、窓の外の流れる景色と対面してから足元を見下ろした。 自分が挙動不審なことにはとうに気が付いていた。そわそわとして落ち着かないのは、今朝の母親との出来事が脳裏にこびり付いて離れないからだ。飲み会で皆に打ち明けることが出来たおかげで、その後の時間を楽しめたからこそ今夜は母親に会いたくなかった。顔を合わせたくなかった。心臓がドクンと脈打ち、朝に感じた恐怖や悲憤が蘇り、全身から嫌な汗が噴き出した。両手の指を絡めてギュッと握りしめると微かに震えていることが分かった。喉は異様な渇きを感じ、ごくりと生唾を呑み込んだ。 飯田駅を出発した。次が神楽坂駅だ。汗の滲んだ両手をより強く握りしめると、僕はもう一度野薔薇さんの横顔を見つめた。穴が開くほどに見ているというのに、まるで僕が幽霊にでもなってしまったのか彼は反応を示さない。小説の世界に没入してしまっていた。 僕は読書中の彼に(電車の中で)声をかけるのが禁忌であると以前に一度経験しているためよく理解していたが、自分の中で暴走しようとする感情を抑えきれず、彼の反応と周りの目を気にしてそろりと口を開いた。 「野薔薇さん、今日泊めさせてもらえませんか」
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