第六話 日常風景

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第六話 日常風景

中野駅のコンビニで購入した替えの下着と歯磨きセットが入ったビニール袋を片手に下げ、野薔薇さんの隣を歩いて彼の一人暮らししているマンションに向かっていた。中野駅周辺は繁華街となっていてもうすぐ十一時になる頃だったが、華金も相まって大勢の人で賑わっていた。酔っぱらいの若者集団が下品な笑い声を上げていたり、サラリーマンたちが円になって何かをやいやい話し合っていたり、カップルかも分からない男女がイチャついていたりしていた。ネオンの輝きの中で車が走り抜けていくのを横目に見ていた。 野薔薇さんの家は徒歩五分という好立地な場所にあり、到着した建物は清潔感のある白いコンクリート造りの七階建てマンションだった。正面玄関から中に入り、こじんまりとしたロビーを抜けてエレベーターに乗り込んだ。野薔薇さんは七階のボタンを押すとドアはゆっくりと閉じて上昇を始めた。エレベーターの稼働音を聞きながらパネルの前に立っている彼の横顔を盗み見てみたが、サングラスをかけていることもあって何を考えているのか読み取るのは難しかった。僕は何となく無言を貫き通し、エレベーターが七階に到着すると彼の後に続いて通路へと出た。中央は吹き抜けになっており、地上の庭(青々とした草木や花が風に揺れ、中央には噴水や銅像らしきものが見えた)が薄暗闇の中で眺望することが出来た。カーブしている通路には二人分の足音だけが反響していた。野薔薇さんは角部屋の七〇九の標識が掛かった扉の前で足を休めると、いつも着用しているコートのポケットから鍵を取り出した。トムとジェリーのジェリーのキーホルダーがちゃらりと音を立てた。 「お邪魔します」 野薔薇さんが鍵を開けてドアを引くと、後ろで軽く会釈をして玄関へ足を踏み入れた。野薔薇さんはすぐに玄関の照明を点けてくれたが、僕の後ろ手でドアがバタンと閉まると同時に煌々とした白い灯りの中飛び込んできた光景に呆気に取られた。 小さな玄関にはシューズが一足、サンダルが一足並び、それらに加えていま野薔薇さんが履いているブーツが並ぶのであろうことが分かった。左側には靴箱を置くためのスペースが設けられており、両開きドアタイプのシューズボックスが設置されていた。靴箱の上にはごちゃごちゃと小物が散乱しており、野薔薇さんは家の鍵をそこに置いた。僕が目を奪われたのは玄関や靴箱ではなく壁だ。真っ白な壁のあちこちに大きいサイズの色とりどりの付箋が貼られ、丁寧な筆跡で文章が綴られていた。 靴を脱いで廊下に上がった野薔薇さんに鍵を締めてくれと頼まれ、玄関扉を振り返るとそこにも何枚もの付箋が貼られていた。一番最初に目に付いたピンク色の付箋には『鍵の施錠を忘れずに』と書かれていた。僕は訳が分からずに頭が混乱してしまいながらも、言われたとおりにチェーンと鍵を締めて靴を脱ぎ、ブーツの横に並べると廊下に上がった。廊下に上がってすぐ左側はキッチンになっており、コンロとシンクが並んでいるが、キッチンの壁にも付箋が並び『火を扱うときは目を離さない』『水は出しっぱなしにしない』など、ごく当たり前のことが書かれていた。右手には二つのドア。浴室とトイレだろう。 野薔薇さんはキッチンとリビングを仕切るドアを通り抜け(開けっ放しになっていた)、リビングへと足を運んだ。僕も急いで後を追いかけ、ドアを潜り抜けるとリビングの光景に圧巻した。玄関やキッチン同様にあちこち付箋が貼られているのは奇妙なのだが、それ以上に目に付くのは山のように溢れかえった本だ。七畳半のリビングは左側の壁に沿ってスライド式の巨大な本棚が二つ設置され、ぎっしりと小説が詰め込まれていた。右手には小さめの窓があり、ちょうど窓の辺りにベッドが置かれているのだが、ベッドの上にも小さめの本棚が置かれて小説が並んでいた。更には本棚に入りきらなかったのであろう小説が部屋のあちこちに積まれていた。 正面にはベランダに出られる大きな窓があるが、カーテンが掛けられて外を見ることは出来なかった。ベッド側の小さな窓もカーテンが掛かっているが左右に捌けられて夜景を望むことが出来た。駅の繁華街が見えているのであろう、ネオンの輝きが滲んで溶け込み、車が走っていくのをベッドに寝ころびながら眺められそうだ。窓の縁には枯れかけの観葉植物と赤色のラジオが物悲し気に佇んでいた。部屋の中央には折り畳み式の机がポツンと置かれていたが、卓上には何もなかった。床にはクッションが二つ落ちている。ベッドの足元側には大きな二段の収納スペースがあり、扉は両側が開けっ放しになった状態で放置されていた。収納スペースは机として活用しているようで、ワークチェアが置かれ、足元には大学の教材が小さめの本棚に陳列していた。二段目の中央はノートパソコンが陣取り、周囲を教材やレポート、文具などがとっ散らかっていた。部屋の照明が付いていても押し入れの中はやはり少し心もとないためかスタンドライトも設置されていた。 「すごい量の小説ですね」 僕は部屋に突っ立ったまま視線を右往左往と彷徨わせて感嘆の声を洩らした。野薔薇さんはベランダ側の窓脇に置かれたコート掛けにコートをかけながら僕を振り返り、いつもの笑い声を上げると「まだ実家にもあるんだがな!」と陽気に応えた。 幼い頃から小説ばかりを読んで過ごしていたと前に話していたのを思い出し、これほどまでに没頭できる趣味がない僕は素直に羨ましいと感じた。世界中のありとあらゆる小説を読む、というのを野薔薇さんの生きる理由には出来ないのだろうか。 それから壁だけではなく机やベッドにまで貼られている付箋をまじまじと見つめて「これは何なんですか」と質問した。部屋中にこれだけの付箋が貼られていると、どことなく監視されているような気分になって落ち着かなかった。 「それは両親が貼っていったものだ。幼い頃から注意書きの為に実家にも貼ってたんだ」 「……注意ですか」 「ああ、そうだ。私は普通に振舞えないからな。両親が私が少しでも普通の人間と同じく生活できるようとした苦肉の策と言えるだろう」 「こんなに貼ってあったら気になりません?」 「気にならないな!昔からこうだったんだ。もう慣れてしまったよ」 はっはっはっ!と腰に手を付いて笑っている野薔薇さんはリモコンを使って暖房をつけた。僕はベージュのジャケットを脱ぎ、荷物と共に丸めて床に置くと手を洗わせてもらう為にキッチンへ歩いていった野薔薇さんに続いた。 「コーヒーでも飲むか?」 「野薔薇さん、コーヒー淹れられるんですか?」 「朝日野くんは私を何だと思ってるんだ」 「すみません。じゃあ、お願いします」 流石に失礼だったかと反省し、手を洗い終えると座って待っていることにした。ちょこんと置かれた折り畳み式のテーブルの前に腰を下ろし、ベッドに背中を預けてぼんやりと本棚を眺めた。暖房が利き始めて部屋の中は程よい温かさが漂っていた。このままうつらうつらとして眠りに落ちてしまいそうだったが、シャワーを浴びずに眠ることは気が引けた。小説のタイトルを一つずつ目で追ってみると知らないものも多かったが、普段小説を読まなくても知っているタイトルも数多く散見された。 そうこうして十分ほど時間を潰していると、マグカップを持って野薔薇さんがリビングへやって来た。持たれているマグカップは一つだけで、僕はそのことに目を丸くすると「野薔薇さんは飲まないんですか」と訊ねた。彼はコトンとマグカップを机に置き、僕を見下ろすと「私はシャワーを浴びる」という簡潔的な答えを得た。 「そうですか。いただきますね」 寒い外から帰ってきて自分だけ温かいものを呑む行為に気まずさを覚えたが、僕はマグカップを手に取って何回か息を吹きかけるとコーヒーを啜った。思っていた以上に砂糖が多いせいで甘ったるい味になっていたが、僕は文句を言わずに「美味しいです」と呟き、もう一口コーヒーを飲んだ。いくら野薔薇さんが相手と言えども折角淹れてくれたコーヒーに文句を付けるのはただの礼儀知らずだ。それに飲めないほどの甘さではなかった。野薔薇さんが甘党なことを考慮すれば、これぐらいが彼にとっては普通なのだろう。せめて砂糖やミルクは必要かどうか聞いてくれれば嬉しかったのだが。 暖房と温かいコーヒーのおかげで僕の体は外側からも内側からも暖められ、すっかりぽかぽかになっていた。こうなってしまうと余計にこのまま寝落ちしたい衝動に駆られるのだが、宿主がシャワーを浴びると言っているのに泊まらさせてもらう僕がシャワーを浴びないというわけにはいかなかった。野薔薇さんはベッドの下のスペースに置かれた衣装ケースから替えの下着を取り出し、ベッドの上に放置されたパジャマを持って「部屋の物は触らないでくれ」と僕に注意をすると、シャワー室へと歩いていった。彼には色々な拘りがることを承知していた僕は特に疑問を抱くことはなく返事をした。 数分もすればシャワーの流れる音がリビングにまで聞こえてきた。僕はスマホでSNSを巡回しながらカフェインを摂ったにも関わらず眠気と格闘していた。何度も意識が遠のいていくのを感じ、その度に無理やり自分の頬を叩いて現実世界へと戻って来た。十分もすればシャワーの音が止み、その後五分もしないうちにドライヤーの音が響いた。あと少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、マグカップに僅かに残ったコーヒーを飲み干した。 合計して二十分ほどでシャワーを浴び終えて戻って来た野薔薇さん(またサングラスを掛けていた)に「ごちそうさまでした」と挨拶をし、僕はコンビニの袋から替えのパンツを出すとビニールから取り出した。野薔薇さんは真っ黒のつなぎという一風変わったパジャマを着用していた。フードも付いているようでわざわざフードも被っていたが、どんな意味があるのか僕には分からなかった。ベッド下の衣装ケースから上下真っ黄色のスウェット(チキンラーメンのひよこちゃんがプリントされていた)を引っ張り出して手渡された。 「それをパジャマにするといい」 「ありがとうございます。普段着は普通なのにパジャマはちょっと変わってるんですね」 僕の感想に野薔薇さんは「はあ?」とでも言いたげに皺を寄せたので、僕はそれ以上何も言わずにスウェットと下着、歯磨きセットを持ってシャワールームへと足を伸ばした。脱衣所の洗面所や洗濯機の置かれた辺りにも他の部屋同様に付箋があちこちに見受けられて僕はそわそわとしながら裸になると浴室に入った。さすがに浴室には付箋は貼られていたなかったが、何故かすべての容器が市販の透明の物になっており、赤字で大きく『ボディソープ』『シャンプー』『コンディショナー』『洗顔』と書かれていた。僕は自分の気持ちを明確に表現することは不可能だったが、不思議とその容器を見た時に野薔薇さんを哀れに思った。僕の感情がどれだけ相手を侮辱している気が付いて頭から振り払ったが、部屋中の付箋を思い出して、彼と両親の関係だけでなく、これまで歩んできた人生を想像して心臓が締め付けられ、胃の中がずくずくと痛んだ。 十分ほどでシャワーを浴び終え、脱衣所に出ると、籠の中に畳まれているバスタオルを一枚借りて体を拭いた。パジャマに着替えてドライヤーで髪を乾かし、歯磨きも済ませるとバスタオルを洗濯機に放り込んでおいた(他の洗濯物も入っていたため)。自分の履いていたパンツを畳んで手に持つと脱衣所とお風呂場の電気を消してリビングに向かった。 野薔薇さんはベッドに寝転んで読書に勤しんでいるようだった。折り畳み式の机は片付けられ、代わりにクッションが枕代わりになって用意してくれたブランケットが敷かれていた。僕は彼にお礼を伝えると下着をコンビニの袋に入れてキュッと口を結び、フローリングの上に横になるとブランケットを被った。かなり大きいサイズのようで体全体を覆ってもまだ余るほどのサイズがあった。シャワーを浴びたことで眠気が飛んでしまった僕はスマホをいじって再び眠くなるのを待っていた。 僕がリビングに戻ってきて三十分もした頃、野薔薇さんは読んでいた小説を閉じると「電気を消すぞ」と声をかけてサングラスを外し、照明を常夜灯に切り替えた。いつも自室では真っ暗闇で寝ている僕にとってオレンジ色の灯りがぼんやりと光っている中で眠るというのは慣れない環境だったが、野薔薇さんが眠るのを邪魔するのも悪いと思い、スマホの電源を落とすと彼に背を向けた態勢で瞼を下ろした。 僕の頭の中には何度もすすり泣く母親の姿がイメージ映像のように流れていき、その度に強烈な死にたい感情に襲われて唇を噛み締めた。何度か繰り返しているうちにまた飲み会の時みたいに泣いてしまいそうになって、僕はわざと大きく咳ばらいをすると「野薔薇さん、起きてますか」と寝ていることも考慮して声のトーンを落として話しかけた。数秒の沈黙の後、短い返答を得た僕は涙が引っ込んだことに安堵した。 「みんな、僕たちの死にたい気持ちは一時的なものだって言いますよね。本当にそうなんですかね」 布の擦れる音がして、次にベッドが軋む音が耳に届いた。寝返りを打ったのだろう。部屋は静寂に包まれたが、完全な静けさではなかった。時計の秒針が進む音と暖房の稼働音だけは永遠に消えなかった。 「ああ、トラウマに苦しめられることはあるかもしれないが、多方はその通りだろう。私は生きる理由を見つけることが出来れば死にたい気持ちも消えるはずだ。君はどうかな、朝日野くん。君は母親の下を離れて、一人で暮らし始めて数年もすればその気持ちも消えるかもしれないぞ」 「そうですね。その可能性は否定できません」 「そうだろう?だが、そんなことは分かっているんだ。私たちは遠い未来にある希望に辿り着くまでの気力が残っていない。だから死にたいんじゃないのか」 「……その希望に辿り着くまで生き残る自信がありません」 お互いに口を閉ざして沈黙が訪れた。僕はどうしてこんなことを野薔薇さんに訊ねたのだろうか。彼が僕よりもずっと長いあいだ死にたい気持ちを抱えているからだろうか。何度も死のうとして、失敗して。両親に見つかっただけではなく自分で自殺を中断したことも多いはずだ。その時、野薔薇さんはどうしてまだもう少し生きてみようという気持ちになったのか。どうして最期の一歩を踏み切れなかったのか。生に縋るということは、希望に縋るということ。あと少し、もう少し、耐え抜けば希望に辿り着けるかもしれないと何年も続けてきたのだろうか。その度に現実に裏切られるというのは、どれだけ辛いことだろうか。 「私はもう十年以上死にたいと言いながら生きている人間だ。自殺未遂だって数えきれないほどしてきた。なのに私はこうしてまだ生きている。どうしてだろうな。私は本当に……頭がおかしいのかもしれない」 僕は心臓が冷えていくような感覚に襲われ、無性に泣きたくなった。だが、涙は一滴も出てこなかった。 それ以降野薔薇さんは一言も喋らなくなってしまい、数分もしないうちにベッドからは寝息が聞こえてきた。僕は薄暗闇の中で独り取り残された。早く眠ってこんな感情とはおさらばしてしまおうと目をギュッと瞑って眠りに落ちる瞬間まで思考を停止させた。 翌朝、僕は五時半に目を覚ました。毎朝起床している時間だったからだ。しかし、今日は講義もなければ朝食を作る必要もないためもう少し寝てしまおうと意識を手放した。 次に目を覚ましたのは八時過ぎだった。こんな時間に起きることは滅多にないため、いつもよりよく眠れたことに僕は気分が晴れやかになって、ブランケットの中で猫のように体を伸ばし、大きな欠伸を洩らすと目尻に浮かんだ涙を拭って上半身を起こし上げた。フローリングの上で寝ていたせいで少し体が痛むが、思っていたよりも熟睡していたらしかった。ベッドの上の野薔薇さんに視線を転じると、まだ寝息を立てている。僕は朝一の尿意を感じて立ち上がるとトイレで生理現象を済ませた。 顔を洗って歯も磨き、朝食は駅前のカフェにでも入ろうなんて考えながらリビングに戻って昨日の服に着替えた。一人の人間が部屋の中で動き回っているというのに野薔薇さんは目を覚ます気配はなかった。泊らせてもらったのに何も言わずに出ていくのも悪いだろうと思い(寝ているところを起こすのも気が引けたが)、彼の体をゆさゆさと揺らして「野薔薇さん」と呼びかけたが反応が返ってこなかった。いくら深い睡眠とは言えども体を揺さぶられて起きないことがあるだろうかと僕が些か不安になっていると、ふとベッド脇のゴミ箱が目に留まった。ゴミ箱の中にはお菓子の袋や丸められたティッシュの上に薬の一シートがすべて使い切られた状態で捨ててあった。「野薔薇さん!」 僕はもう一度彼の体を先ほどよりも激しく揺さぶったが、小さな呻き声を洩らしただけでそれ以上の反応は得られなかった。いや、たまたま最後の一粒だった可能性もある。だが、これだけ揺すっても、声をかけても起きないということは、睡眠導入剤か若しくは抗うつ剤か何かでオーバードーズをしたのかもしれない。 僕はどうするべきか迷った。このまま放置して帰るか?一シートで死に至ることはまず有り得ないだろうから救急車を呼ぶ必要はない。そもそも死に至る量を摂取してたところで野薔薇さんの意思を尊重するなら救急車は呼ぶべきではなかった。きっと僕が眠ったあとの真夜中に、強烈な死の渇望に襲われて薬を飲んだが、途中で中断してそのまま眠ってしまったのだろう。だったら彼にとってはこれは日常的な行いだ。放置して大人しく帰宅するのが正解だ。 そんなことは分かっていた。分かり切っていることだった。なのに僕の足はその場から動かなかった。帰りたくない。昨晩の野薔薇さんの最後の一言が脳裏に蘇り、深い眠りに就いている彼を俯瞰した。 僕はその日一日をコンビニへの買い出し以外は野薔薇さんの家で過ごした。翌日の日曜日も野薔薇さんは起きなかった。意識がふらりと戻ってきている様子はあったが、まともに喋れもしないでごにょごにょと何か言った後にまた意識を手放すということを何度か繰り返していた。母からは電話がかかってきて「早く帰ってこい」と怒鳴り散らされたが、僕はそれを無視して野薔薇さんの家に居座り続けた。 そして、月曜日の朝。野薔薇さんは何事もなかったかのように目を覚ました。ベッドの上で上半身を起こし上げ、うんと伸びをした彼はフローリングに座っている僕を見て「おはよう、朝日野くん。まだ居たのか」と驚きを露わにした。僕は言いたいことが山ほどあったはずなのに様々な感情が渦になった結果消滅してしまい「おはようございます」と挨拶を返すだけで精いっぱいだった。 「今日は何曜日だ?」 「月曜日です。二日間眠りっぱなしでしたよ」 「そうか」と返した野薔薇さんはベッドから足を下ろし、ややふらつきながら立ち上がった。二日間も眠っていたのとまだ薬が抜けきっていないのが理由なのだろう。未だ野薔薇さんの表情は夢現といった感じがしたが、キッチンへ足を運ぼうとした彼がフローリングに座ったままでいる僕を振り返っていつもの清々しいほどの笑顔を見せた。 「さあ、朝日野くん。大学に行くぞ!支度をするんだ」 野薔薇さんのその台詞を聞いて、これが彼の日常なのだと僕は改めて実感し、口元を綻ばせると「分かりました」と返事をして、支度をするため腰を上げた。
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