第七話 下世話な話

1/1
前へ
/17ページ
次へ

第七話 下世話な話

「ねえ、アンタたちって経験あるの?ないの?」 今夜もいつもの死にたがりメンバーで飲み会を始めて早一時間。程よく酔いが回り始め、その場の空気も盛り上がり、皆が好き勝手に話を始めた頃合いに、浅見さんが何の脈略もなくしれっとした顔で爆弾発言を投下した。一瞬その場は時が止まったかのような沈黙に包まれたが、野薔薇さんの特徴的な笑い声が時間を再び前へと動かしてくれた。 「経験ってセックスのことか?」と何の恥じらいもなく堀木さんが訊ねたことに、僕は口に含んだカシスオレンジを噴き出す羽目になった。何とか目の前の天王寺さんにかかることはなかったが、机を濡らしてしまったことに僕は慌てて「す、すみません!」と謝罪をしながら立ち上がったが、動揺していたせいで机に体が強く当たってしまい、その振動で野薔薇さんの飲みかけのカルーアミルクがひっくり返った。その光景がツボに入ったのか野薔薇さんはゲラゲラと腹を抱えていたが、僕は机に染みを広げるドリンクに更に狼狽して何度も謝罪を繰り返した。 「落ち着けって、朝日野。…すみません、お酒こぼしたんで拭くものください」 おろおろとしている僕を軽く宥めたあと、すかさず堀木さんは店員に台ふきを頼み、僕に座るよう促しながら肩を触った。店員がすぐに僕たちのテーブルにやって来るとせっせと濡れた机を拭いてくれた。 僕は首が飛んでいくのではないかというほど頭を下げて、机も綺麗になったところで零してしまった野薔薇さんのカルーアミルクを追加注文した。厄介な客にも店員は笑顔で応えてくれると、そそくさと厨房の方へ走っていった。僕は店員の後ろ姿が見えなくなると盛大なため息を吐き出して、脱力して椅子に腰を下ろすと「本当にすみませんでした」と全員に誠心誠意を込めて謝った。堀木さんは「気にすんな」と笑って許してくれ、続いて天王寺さんも「大丈夫?」と僕の心配までしてくれた。野薔薇さんは未だに笑いの波から抜け出せないようで一人愉しそうにしていた。ただ一人浅見さんだけが目を据わらせると怪訝な顔付きで斜めに座る僕を見ていた。 「いくら何でも動揺しすぎでしょ。たかがセックスに」 「たかがって…!というか浅見さんは女性なんですから、あまりそういうこと口に出さない方が…」 「何それ、男女差別?」 「いや、そういうつもりじゃなくて…!」 すっかり尻込みしてしまった僕を見兼ねて天王寺さんが「意地悪は止めてあげたら?」と浅見さんを咎めてくれた。 下世話な話題で女性にフォローされる自分が情けなかったが、僕は突然に、しかも平然とした顔で話すものだから頭が付いていかなかったのだ。僕だって男で、そういうことに興味がないわけではない。高校時代は男友達とそんな話題で盛り上がることもしばしばあったのだ。ただ女子(女性)がいる場では下世話な話はするべきではないという常識が通用しない事態に驚いてしまったのだ。まさか女性からそんな話題を振ってくるなんて。しかし、浅見さんなら有り得ると、頭が冷静になって来たところで妙に納得が出来た。毎週金曜日に集まって飲んでいるのだ。それぞれの性格と言うものを随分と把握してきたように思える。特に僕は人間観察が得意だった。周りと調子を合わせて生き抜くための術なのだ。 「別に虐めてなんかないでしょ。ちょっと気になっただけよ。……で、経験あるの?ないの?」 浅見さんはどうやら僕ら男性陣に興味があるようで、隣に座っている天王寺さんの方は見ずに向かい側の僕たち男をじろりと眺めましたが、彼女の口元はニヤついており、明らかに僕らを揶揄って楽しんでいるようだった。これって一種のセクハラでは?なんてことが頭を過りながらも、僕は右に座っている野薔薇さん、堀木さんに目配せした。 ようやく笑いの発作が収まった野薔薇さんは目尻に浮かんだ涙を拭い、タイミングよく運ばれてきたカルーアミルクを受け取って喉を潤すと「性行為に関しては経験はない!」と無駄に声を張り上げて応えた。僕はオドオドとして周囲に視線を向けたが、居酒屋で酔っている客たちは誰も僕らの下世話な話など聞こえてもいないみたいだ。 「まぁ、アンタはそうでしょうね。三好は?」 「俺か?俺は大学時代が最後だな。付き合ってた彼女が居たから。ブラック企業勤めのせいで社会人一年目の時にフラれたよ」 フラれた当時のことを思い出したのであろう堀木さんは沈痛した面持ちで乾いた笑みを零し、本日三杯目のハイボールを空になるまで一気に流し込んだ。ドンッとジョッキを机に置いて通りがかった店員に追加でハイボールを頼んだ。 「どんな彼女さんだったんですか?」 「良い奴とは言えなかったな。高校の時から付き合ってたんだけどさ。俺の虐めに加担してたから」 「ってことはただのクズ女ね」 「そういうことだな。クズはクズ同士よろしくやってたわけだよ」 僕は返す言葉が見付からず苦笑いをするしかなかった。カップルで虐めをしていたなんて、彼の言う通りお似合いのクズというものだろう。いま彼女がどうしているかは堀木さんも知らないようだが、堀木さんと同じく改心していれば嬉しいものだ。 中途半端に残ったおでんを片付けてしまおうと箸を伸ばした僕に「アンタはどうせないんでしょ」と浅見さんがつまらなさそうに訊ねてきた。先ほどの僕の反応で完璧に見破られてしまったようだが、経験者だろうといきなり女性からその手の話題を振られたら狼狽えてしまうのが普通ではないだろうか。野薔薇さんと堀木さんが少し人よりズレているのだ。僕は至って正常な反応をしただけだと自分に言い聞かせた。 「ないですよ。恋人だっていたことがありませんし」 「欲しいって思わないの?」 浅見さんの純粋な疑問に僕は今までの自分を振り返った。人肌恋しいと思ったことはこれまでに数えきれないほどある。僕を大切に想ってくれる特別な存在が欲しいと思ったこともある。だが、そのどれもが結局は母親の愛情不足故に抱く感情なんだということを達観している一部の僕は知っていた。恋人を欲しいとは思うが、どうしても欲しいのかと言われればそうではなかった。きっと僕が求めているものは、僕が無償の愛を注ぐ代わりに同じく僕にも無償の愛を注いでくれる、そんな相手。人間は、そんな綺麗には出来ていないのだ。どれだけ愛したとしても、愛される保証はない。僕は母のことを愛しているが、母は僕を嫌って憎んでいるのだ。そういった現実を身をもって体験しているからこそ、美しい純愛ストーリーになんて惹かれなかった。興味も持てなかった。僕は愛したい、愛されたいと思う一方で、そんなことは叶わない願いなのだと妙に冷めているところがあった。つまりはそれが浅見さんへの答えだ。 「欲しいです。でも、僕には無理ですよ」 母とのことで、自分のことでいっぱいいっぱいの僕に、恋人を支えることなど出来はしないだろう。僕のような人間は恋をしない方がいいのだ。想い人なんて作らない方がいいのだ。相手の迷惑になってしまう好意は悪と同じだ。 目尻を下げて諦めきった僕の笑いに、意外にも天王寺さんが「無理なんてことはない」と反論をした。相変らず表情の変化は乏しかったが、僕を真っ直ぐに見据える瞳は店内の暖色の灯りを吸収して不思議と惹き付けられるぐらい純粋に輝いていた。 「朝日野くんは優しい人だから。私の自慢の友達だし、好きになってくれる人はいると思う。朝日野くんさえ人を好きになる勇気があるならだけど」 僕はまさかそんな言葉をかけてくれるとは思っていなかったため、つい感極まってで瞳を潤ませてしまいながら「ありがとうございます」と心の底からの感謝を伝えた。友人に自信を持ってほしいと言ってもらえるほど嬉しいことはなかった。浅見さんがニヤニヤしながら頬杖を突くと天王寺さんに目を向けた。 「アンタたちで付き合ったらどうなのよ」 「その話、前にもした。私は朝日野くんのこと友人として好きなだけだから付き合うのは無理」 そこだけは絶対に譲らない天王寺さんの確固たる意志に僕は少し悲しくなってしまいながらも、実際に僕も天王寺さんと自分が恋人になるというのはあまり想像が付かなかった。飲み会メンバーで誰かと誰かが親しくなることが悪いと僕は思わなかったが、天王寺さんとは良き友人で居たかった。何よりも今の関係が居心地よいと感じていた。 「残念だったわね、信太朗」 「いえ、僕も天王寺さんのこと友人としてすごく好きなので嬉しいですよ」 浅見さんには負け惜しみにしか聞こえないかもしれないが、僕は天王寺さんが同じように考えてくれていることが嬉しくてたまらなかった。そこには絆だとか信頼だとかそういったものではなく、同じ死にたがり同士の良き友情が芽生えているのだと思うと、僕はこの飲み会に参加出来た経験が改めて人生を少し変えてくれたのだと実感した。 冷めてしまったおでんを小皿に取って、箸で一口サイズに切り分けながら口に運ぶ。温かいうちに食べなかったことを少し後悔しながらも食事を残すのは粗相が過ぎると無言で咀嚼していると、野薔薇さんが得意げな顔をして「私には恋人がいたことがあるぞ!」と驚きの発言をして、飲み会の席を凍らせた。あの天王寺さんでさえ目を点にしてしまっているのだから、僕たちの衝撃がいかに大きかったか分かってもらえるだろう。 最初は全員がジョークか何かだと思ったのだろう、疑いの眼差しを向けると浅見さんと天王寺さん、小さく笑いを零した堀木さんと僕の反応に野薔薇さんは訝しげにして「どうしたんだ」と首を傾げた。 「野薔薇に恋人がいたなんて嘘でしょ!」 「意味のない嘘を吐いてどうする」 「まさか、冗談じゃなかったんですか?」 「私は冗談が苦手なのを知っているだろう」 野薔薇さんの言う通り、彼はジョークをジョークと見極めることも出来なければ、自分が冗談を口にするのも苦手な人間だった。つまりは馬鹿正直に生きてきて、素直に周りの言葉に耳を傾けてきたということだ。僕は野薔薇さんとの数ヶ月の付き合いで彼のいくつかの側面は分かっていた。だからこそ彼に恋人がいたという過去に驚愕していたのだ。 「高校時代の時に二年間付き合っていた彼女がいた」 「どうして別れたのよ?フラれたの?そもそも付き合ったきっかけは?」 浅見さんは今夜一の食いつきでやや前のめりになりながら野薔薇さんに詰問した。僕はおでんを食べる手を休めることはなかったが、興味津々で彼らの話に耳をそばだてていた。 「告白してきたのは彼女からだった。私は恋人を作れば何か新しい発見があると思って付き合うことにしてみたんだ。彼女といることで色々な発見はあったが、どれも私の生きる理由にはならなかった。それに彼女は私と違って生きる活力に溢れていた。死にたがりの私には眩しくて傍にいると辛かったんだ。だから、高校を卒業する直前に私から関係を絶った」 つらつらと語られる野薔薇さんの過去の恋愛に僕は新しい彼の一面を知った。こんなふうに野薔薇さんが誰かについて話をするなんて想像したことがなかったからだ。いつも自分のことだけを考えて、実の両親でさえも彼の世界のごく僅か一部でしかないように振舞っていた。いつも彼の話の中心は小鳥遊野薔薇で、彼の人生の主人公は彼以外に有り得なかった。だが、かつての恋人の話をしている野薔薇さんは少し普段と違うようで、彼女に未練があるとかそんなことは感じられなかったが、付き合っていた当時は彼女を心から大切にし、愛していたことが窺えた。 僕はどうしても気になって仕方ないことが一つ頭に浮かび、おずおずと口を開いた。 「野薔薇さんは彼女を振ったとき、悲しいって感じたんですか」 僕の問いかけに野薔薇さんは目を丸くすると「当然だろう」とキッパリ応えた。「私も人間だからな」と付け加えた彼の声色には微かに怒気が含まれているような気がして、僕は悪いことを聞いてしまったと反省したが、彼の顔色を窺ってみると笑みを広げているだけで怒っている様子は見受けられなかった。 「小鳥遊にもそんな過去があったとはな。でも経験はしてないんだな」 「キスまでしかないぞ。十八歳未満の性行為は不健全性的行為だろう!」 「なんで変なところでピュアなんですか」 僕は思わず失笑してしまいながらも、高校生の付き合いで性行為まで及ばないというのはそれほど珍しくないだろうと考えた。成人ともなれば大半が体の関係を持つのが当たり前になるが、高校生は手を繋いだり、キスをするだけでも十分幸せなはずだ。 浅見さんは「もったいないわね」と呟いて喉を鳴らしながらビールを流し込むと、新しい注文の為にメニューと睨めっこを始めた。 「朝日野は恋人がいないってことはキスもしたことないよな」 「したことありません。女子となんて、小学生の時に手を繋いだぐらいですよ」 「それはそれである意味ポイント高いんじゃねえの」 堀木さんの適当な励ましに僕はガックリと肩を落としたが、余ったサラダを黙々と食べていた天王寺さんが唇に付いたドレッシングを拭い「私も同じだから」と僕をじっと見つめた。 「私もキスもしたことない。手も繋いだことない」 「なら信太朗がキスしてあげれば?」 メニュー表を置いてジンジャーハイボールを注文した浅見さんがとんでもない台詞を口にしたせいで、僕は危うくまたお酒を噴き出すところだったが、何とか堪えてごくりとチューハイを流し込むと「だから、僕たちは友達なんで!」とわざとらしいまでに声を荒げた。アルコールのせいではなく恥ずかしさのせいで顔が真っ赤になった。 「でも風はキスしてみたいんでしょ?」 「朝日野くんとしたいわけじゃないから。それに私みたいな人間には無理」 私みたいな、というのが自分の容姿を指しているのは分かり切っていた。絶対に本人に伝えるつもりはないが、正直な評価としては端正な顔立ちをした浅見さんと並んでいると天王寺さんは見劣りしてしまう。生まれつきの目付きの悪さも天王寺の表情を怖く見せてしまう要因だろう。だが、彼女には彼女の魅力があって凛とした美しさと、時折ふっと見せる微笑みが愛らしかった。 ただそう思っていても、なかなか女の子相手に可愛いとは言えないものだ。天王寺さんは自分の容姿にコンプレックスを抱いているからこそ余計に自分が中途半端な励ましをして心を傷付けたくはないし、いくら友達と言えども異性にいきなり容姿を褒められたら気持ち悪いかもしれない。堀木さんも粗暴な一面はあるが気を遣える人なのできっと僕と同じように考えているだろうし、野薔薇さんは自分の好みか好みでないかでしか判別をしないので問題外だ。 「何言ってんの?火傷痕が気になるのか何なのかしんないけど、風も可愛いでしょ。もちろんアタシには負けるけどぉ〜」 「……本当にそう思ってる?」 「アタシがお世辞なんて言うわけないでしょ」 浅見さんは呆れたように嘆息吐き「キスに興味ないの?」と長い髪を指先でくるくると弄んだ。ひとつひとつの行動が様になっている彼女に対し天王寺さんは俯いて暫くは黙り込んでいたが「興味ある」と素直な返答を口にした。 「じゃあ、この三人だったら誰がいいの?」 浅見さんが天王寺さんのほうに顔を向け、視線で僕ら男性陣を端から順に指した。ウーロン茶を数口飲んだ天王寺さんは吟味するようにそれぞれの顔を見たあと浅見さんに向き直ると「誰もあまり」と悲壮感溢れる答えを出した。野薔薇さんも堀木さんも気にしている素振りは見せなかったが、僕はつい眉をへの字にしてしまった。 「私はいちごの方がいい」 「はあ?」 天王寺さんは相変わらずの無表情で、それが冗談か本気なのは僕たちには判断が出来なかったが、まさか彼女が…なんていう浅はかな考えが僕にはあった。だから天王寺さんが浅見さんの頬に手を添えて、さも当然かのように唇を近付けたことにもっけとしていることしか出来なかった。 浅見さんは「ちょっと…!」と珍しく戸惑って身を引こうとしたが、天王寺さんは彼女の体に腕を回してガッチリと固定してしまった。僕は目の前で繰り広げられる恋愛ドラマの一シーンかと見間違う展開に釘付けになっていたが、天王寺さんがもうあと少しでも動けば唇が触れるといった距離まで顔を近付けたところで、ふっと目許を緩めると自ら体を引いた。そして、また淡白な顔付きになると「冗談だけど」と言って机に向き直り、飲みかけのウーロン茶を手に取った。僕たち男性陣はポカンとしていたが、誰よりも呆気に取られているのは間違いなく浅見さんだろう。 「……何なのよ、もう!」 浅見さんは顔から火が出る勢いで紅潮させながら、意味もなく空になったグラスを弄っていた。お酒が残っていたら一気飲みでもしていて誤魔化していただろう。 僕は何故か自分のことでもないのに心臓が張り裂けそうなほどドキドキとしてしまい、同時に彼女たちが接吻するところを見てみたかったという不思議な欲望が胸のうちを覗いていることに気づかぬフリを貫き通した。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加