第八話 ドライブ

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第八話 ドライブ

金曜日ではなく木曜日の夜、飲み会メンバーのメッセージグループに野薔薇さんが「明日は飲み会ではなくドライブにしよう!」という提案を投下した。これまで金曜日の『睡蓮花』以外での集まりを誰も言い出さなかったこともあり、それは僕たちの間での暗黙の了解のようなもので、僕たちを招集した野薔薇さんの拘りでもあるのだと思っていた僕は、まさか彼から『睡蓮花』以外での集まりを持ち出されるとは思いもよらなかった。すぐに浅見さんから賛成の声が上がり、次いで天王寺さんの返信があった。無論僕も飲み会メンバーで『睡蓮花』以外の場所に行くことを拒む理由もなく賛同のメッセージを送った。一番最後に堀木さんからの返信がくると、野薔薇さんは「では、堀木くん。レンタカーをよろしく頼む!」と言い出しっぺのくせに堀木さんにすべて丸投げして、それ以降返事は返ってこなかった。僕はなんて身勝手な人だろうかと呆れてしまったが、レンタカーの手配は野薔薇さんに任せるより堀木さんを頼る方が安心できるだろう。 夜も十一時を回った頃に堀木さんからレンタカーの予約を済ませたという趣旨のメッセージとスクリーンショットが送られてきた。僕たちはお礼を返して(野薔薇さんもこの時はちゃんと返信をしていた)、明日の待ち合わせ場所を決めるとやり取りは終了した。毎週金曜日に呑み屋『睡蓮花』でだけ集まる死にたがりの僕たちが、初めて五人揃って出かけるのだ。僕は少しわくわくしてしまいながら、明日の夜が来るのを楽しみにしてその日は眠りに就いた。 翌日の金曜日。夜の七時に堀木さんが全員を拾ってくれると、僕たちはコンビニで適当に夕飯を買ってドライブへと出発した。向かう先は浅見さんが調べてくれた栃木県で星が綺麗なスポットとのことだった。冬季なこともあって通行止めになっている可能性もあるが、向かうだけ向かってみようという何とも行き当たりばったりな旅に僕は胸を躍らせていた。車は五人だがゆったりと乗れるようにとステップワゴンを用意してくれていて、運転席に堀木さん、助手席に野薔薇さん、二列目に浅見さんと天王寺さん、三列目に僕という形で座ることになった。 僕はコンビニで買ったサンドウィッチを食べながら車窓を流れる夜の街を眺望していた。幼い頃は何度か母と遠出をしたことがあったが、もう記憶は朧げなものばかりだった。母以外となれば小学校と中学校での修学旅行ぐらいだろうか。小学校では富士山周辺、中学校では大阪だった。USJは楽しかったなんてことを思い出して、僕は口元を綻ばせた。高校でも修学旅行はあったのだが(行先は台湾)、母が旅費がもったいないと辞退したのだった。特別台湾に行きたい気持ちがあったわけではなかったが、友人との思い出が皆より一つ減るというのは疎外感を感じる要因となった。クラスメイト全員でお金を出し合って僕にお土産を買ってきてくれたのはいい思い出だが。きっと担任も僕の家の事情を少なからず知っていて気を利かせてくれたのだろう。当時の僕はその優しさに思わず涙を零してしまいそうになったものだ。まだあれから三年ほどしか経過していないのだが、僕はあの頃と比べると随分ひねくれ者になってしまったのかもしれなかった。人の優しさは嬉しいが、その優しさを信用できないのだ。僕は他人を信じる心を失っていた。それはここに集まる誰もがそうだろう。皆が辛い思いをして、虐げたり虐げられたり、トラウマを背負ったりして徐々に他人を信頼する気持ちを忘れていってしまった。 「……なに考えてるんだ、僕は」 せっかくの楽しいドライブを台無しにしたくないと、僕は雲がかかり始めた気持ちを振り払おうと誰にも聞こえないよう独り言ち、サンドウィッチの包装をくしゃくしゃにしてビニール袋に突っ込み、温かいコーヒー牛乳を流し込んだ。二列目の浅見さんと天王寺さんは二人で談笑しており、堀木さんは黙って運転を、野薔薇さんも黙々とおにぎりを頬張っていた。車内には浅見さんがブルートゥースを繋いで再生しているクリープハイプの曲が流れていた。車がインターチェンジを抜けて高速道路に入ったとき浅見さんがやや声を張り上げた。 「ねぇ、三好っていつも会うときスーツだけど。普段着ってどんななの?」 「どんなって言われててもな。別に普通だけど」 浅見さんの言う通り僕たちは一度も堀木さんの私服姿を見たことがなかった。毎週仕事終わりに『睡蓮花』へ来ているのだからスーツを着て出社している以上当然のことだったのだが、僕は一々気にしたことがなかった。 「どういうところで服買ったりするのよ」 「あぁ、一番多いのはライトオンだな」 「ライトオンいいですよね。僕もよく買いますよ」 ちょうど僕が愛用している店名が挙がったことで、会話に参加しようと運転席にも届くように声のボリュームを上げた。「オシャレで値段もそんなしないしいいよな」と堀木さんがバックミラー越しに僕に目配せして笑い返した。 「あと僕はグラニフでもよく買いますよ」 「グラニフ可愛いわよね。まぁ、アタシは着ないんだけど」 浅見さんはカルピスを飲んでいた口を離し、キャップを締めながら僕を振り返った。賛同を得られるとは思わなかったためキョトンとしてしまったが、着ないという点においては納得がいった。彼女はいつも分かり易いまでのブランドで全身を固めているからだ。 「アタシはオシャレが前提で高ければ高いほどいいの!だってお金持ちだって皆に自慢したいんだもん」 鼻高々に語る浅見さんは高飛車だと毛嫌いされそうなタイプに思えるが、僕にはむしろお嬢様が様になっていて可愛らしいと感じてしまっていた。友人としての色眼鏡もあるのかもしれないが、彼女は自慢したがりの人だが、決して貧乏人を見下したりする性格ではなかった。そういったところに人の良さが滲み出ていて僕は嫌いになれなかった。 「風はよくザラ着てるわよね」 「うん、ザラはお気に入り。あとバナナリパブリックも好きかな」 「天王寺さんはかっこいい服が似合いますもんね」 「ありがとう」 薄暗い車内の中でほんの僅かに天王寺さんの頬に赤みが差したのが見えて、僕は自然と口元を緩めた。「小鳥遊はいつもラルフローレンしか着てないよな」とずっと黙って食事に集中していた野薔薇さんに堀木さんが話を振った。ゴミを片付けていた野薔薇さんは顔を上げると「ああ、そうだな」と変わらない笑顔で頷き返した。 「余所行きはラルフローレンだけにしているんだ。父親からの命令でな」 「でもラルフローレンって高いだろ」 「両親が金を出してくれているから問題はない!私にファッションを選ばせたくないようだ」 僕は先日野薔薇さんの家に泊まらせてもらったときに見た独特な部屋着を思い出し、両親の判断は間違っていないのかもしれないと思ったが、彼の個性を潰してしまうのはもったいない気もしていた。部屋中に貼られていたメモは幼い頃からだと話していたが、両親は相当野薔薇さんにのように振舞ってほしいのだろう。だが、野薔薇さんの個性はそんなことでは押しつぶされなかったのだ。その結果家を追い出される羽目になったみたいだが、僕は彼が没個性の人間になってしまえば、それは小鳥遊野薔薇ではないように思えた。訳の分からない人間性は周囲を困らせるが、彼のおかげで僕たちは集まれたことに感謝しているのだ。 それからも僕たちは飲み会でしているように他愛のない話を続けた。そして、一時間半ほど高速を走ったところで浅見さんがトイレに行きたいと申し出たことでサービスエリアへと駐車した。全員でトイレを済ませると、サービスエリアに併設されたスターバックスコーヒーに寄ろうという話になり、僕たちは店内に足を踏み入れて立てかけられたメニュー表の前でたむろった。 浅見さんと堀木さんはもう注文が決まっているようで、さっさとレジの方へと進んでいった。天王寺さんと野薔薇さんが食い入るようにメニューを見ているせいで僕は後ろから覗くことしか出来ず、仕方なくカウンターに掲げられたメニュー表に目を向けることにした。先ほどまでコーヒー牛乳を飲んでいたこともあり、少し苦めのドリンクを舌は欲していたが、コーヒーを飲みたい気分ではなかった。 暫く僕は迷っていると天王寺さんは「キャラメルマキアートにする」と言ってメニュー表から離れてレジへと歩いていった。僕は未だに動かない野薔薇さんの隣に並び、ずらりと記載されている商品名に目を通し、抹茶ティーラテなるものを発見すると、それを注文することにしてその場から離れようとしたが、サングラス越しにメニュー表を睨みつけている野薔薇さんが心配になって声をかけた。集中している彼から返答が得られず、もう一度「野薔薇さん」と肩を叩くと、彼はびっくりして中腰のまま僕を見上げたあと困ったように目尻を下げた。 「朝日野くん、メニューが多すぎる。私にはさっぱりだ」 「どういうのが飲みたいんですか?」 「私が飲めるものならなんでもいい」 商品を受け取った浅見さんと堀木さんがまだ迷っている僕たちを見兼ねて傍へと歩み寄って来た。僕は一番詳しそうな浅見さんに助けを求めると「紅茶にすれば?」と答えが返って来た。野薔薇さんは表情を明るくさせて「ああ、そうしよう!」と大きく首を縦に振った。 「アタシのおすすめはイングリッシュブレックファストのティーラテだけど」 「それで構わない」 「じゃあ僕が一緒に注文しますね」 野薔薇さんに注文させるのが不安になった僕は彼の分も一緒に頼むことにしてレジへと足を運んだ。抹茶ティーラテとイングリッシュブレックファストティーラテをトールサイズで注文し、会計を済ませて受け取り口でドリンクを受け取った。「お待たせしました!」 出入口付近で待っていた四人に駆け寄り、僕は野薔薇さんに「熱いので気を付けてくださいね」とドリンクのカップを渡した。寒い中ぞろぞろと車へ戻ると、シートベルトを締めてエンジンのかかった車は発進した。最後列の席に暖房の風が届くのは少し先になるだろう。僕は微かに体を震わせながら小さい飲み口から数回息を吹きかけて、カップを傾けた。ほろ苦い抹茶が口いっぱいに広がると同時にその温かさに僕の寒風に冷やされた体は暖められた。美味しいと独り言ちて、ちまちまと飲み進めているとおもむろに天王寺さんが口火を切った。 「スタバって少し入りにくい。自意識が高い人の行く場所って感じがして」 天王寺さんの感想に浅見さんはケラケラと笑い「いつの話よ、それ」と茶化したが、僕には天王寺さんの気持ちが多少なりとも理解出来た。以前に一人でスターバックスに入った時に店員に雑談をされたときはしどろもどろになってしまった。あの店で働いている店員は妙な輝きを放っているように見えるのは僕だけではないだろう。自信に溢れているように感じるのだ。自信家の浅見さんにはきっと分からない劣等感だ。 「陰気な僕にはとても働ける場所じゃないとは思いますね」 そんな感じでスターバックスの話から始まり、僕たちはまたいつものように一転、二転、とくだらない雑談を続けた。『睡蓮花』に居ても居なくても、僕らが話すことは変わらないのだろう。死にたがりがの気持ちを共感するだけで、他の人たちと何ら変わらない談笑だった。 その後、車は一時間ほど高速道路を走り、一般道に下りてからも一時間ほど走り続けた。辺りには何の建物もない街灯もほとんど見当たらないような山道を車は進み、あちこちに雪が積もっているのが見えた。 案の定目的地は山を登らなければならなかったのだが、凍結のため通行止めとなっていた。僕たちは諦めて通行止めの看板の前に車を停車させると、どんな星空が広がっているのだろうかと期待して車を降りた。サービスエリアで降車したときよりも数度は確実に寒くなっている外に僕は思わず両手をギュッと握りしめて「寒い!」と叫んだ。浅見さんもあまりの寒さに文句を垂れながら必死に両手で腕を擦って温まろうとしていた。天王寺さんはかなり厚着してきているようで吹き付ける寒風に髪を靡かせながら空を仰いだ。僕も彼女につられて白い吐息を吐き出しながら空を見上げ、言葉を失った。 真っ黒なパレットに描かれた無数の白い輝きは、月の明かりが少ない夜なことも助けになって辺り一面に広がっていた。必死に己の存在を主張するかのよう瞬く星たちは、僕なんかよりもずっと健気で力強く美しかったが、それでいて儚さもあった。周囲には車以外の光が存在していないのだ。目を凝らしても見えるのは闇だけの空間では、こんなにも星が綺麗に輝くのだ。都会では絶対に見せない姿に僕は感動していた。僕は夜景を見るのも好きだった。人工的な輝きは人々の営みを感じられ、この中の一つに僕も居るのだと想像すると心が満たされて幸福になれた。だが、いま目にしているのは自然の輝きだ。人間の手を離れた神秘を目の当たりにし、僕は美しいものは作る必要がないのだと思った。美しいものは、ただそこにあるだけで美しい。僕の醜い心が露呈され、星の中に溶け込んで僕も美しくなりたいと願った。死にたいとは思えど消えたいなんてことは一度も思ったことがなかった僕だったが、満天の星を見ていると、僕は宇宙の一部になって、誰からも忘れられて、ただ穏やかな時を永遠に過ごしたいと考えた。僕は僕の抱いた新しい気持ちと、宇宙の壮大さに涙が溢れそうになったが、グッと唇を噛み締めた。 『最近よく眠れないんだ。  このまま僕たちが上手くいくことを夢見てしまう。  でも、ずっと祈ってるんだ。  もう金を数えるのはやめて星を数えようと言った。  そうだ、星を数えよう』 唐突に野薔薇さんが歌い出したのはワンリパブリックの『カウンティング・スター』だった。他の三人がこの曲を知っているかどうか僕には分からなかったが、少なくとも僕は知っていた。だからこそ我慢した涙が目尻に浮かんでしまい、慌てて鼻を啜って手の甲で目元を擦った。 『人生は揺れるツタのようだ。  僕の心を揺らして、目の前に光り輝いて現れる。  「求めよ、されば見出さん」』 『歳はとったけど、それほど老いぼれてはいない。  まだ若いけど、そんなに大胆ではなくなった。  世界は終わってはいないだろう。  言われたとおりにしてるだけだよ』 『悪いことをしているとすごく正しいような気がするんだ。  良いことをしているとすごく間違ってるような気がするんだ。  嘘は吐けななかった。  苦しい目に遭うほど生きている感じがするんだ』 『最近よく眠れないんだ。  このまま僕たちが上手くいくことを夢見てしまう。  でも、ずっと祈ってるんだ。  もう金を数えるのはやめて星を数えようと言った。  そうだ、星を数えよう』 野薔薇さんは星を見たからこの曲を歌ったのだろうか。それとも言葉に出来ない何かを僕たちに伝えようとしたのだろうか。彼の心はいつも雲のように掴めないのだ。だが、それでもよかった。僕だけではなく、きっと他の三人もそれぞれ思うことがあったはずだ。歌詞の意味を知らなかったとしても、人間は感じることが出来るのだ。 僕たちは二十分ほど少しの会話を除いてほとんど無言で星空を堪能した。やがて浅見さんが寒いと言って車に乗り込んだのをきっかけに全員がぞろぞろと車内へと足を踏み入れた。堀木さんが暖房を最大にすると僕たちは車内が程よく温まるまで星空の感想を言い合っていたが、天王寺さんだけはまるで星々に魅入られた瞬間を忘れられないように黙りこくっていた。しかし、暖房のおかげで車も温まり始め、そろそろ帰路に着こうかという雰囲気になりだしたとき、天王寺さんが遠慮がちに口を開いた。 「我儘なのは分かってるけど言わせてほしい」 そんな切り出し方をされてしまえば僕たちは耳を傾けないわけにはいかず、全員が緘黙して天王寺さんが話し出すのを待った。 「このまま海に行きたい。それで、朝焼けをみたい」 僕は彼女の言葉を聞いた瞬間に確かに胸が高鳴るのを感じた。星空を見に行くドライブは僕にとって間違いなく思い出深い記憶となったが、同時にあと数時間で迎える終わりが寂しくもあったのだ。それをまだ終わらせまいとする天王寺さんの発言はとても魅力的に聞こえた。僕だけではない。全員が心惹かれるのを空気の変転で感じ取っていた。「いいわね、行きましょ!」と浅見さんが明朗とした声色で賛成したことにより、僕も後に続きやすくなった。 「海、僕も行きたいです。このメンバーで朝焼けがみたいです」 野薔薇さんが、はっはっはっ!といういつもの調子で笑い声を上げると「天王寺くん、素晴らしい提案だな!」と彼女のことを褒めちぎった。あと残るは一人、堀木さんだけになった。僕たちは彼が渋る理由をよく理解していた。海で朝焼けを見ようと思ったら場所にもよるかもしれないが、堀木さんが仕事に間に合わなくなる可能性が大いにあるだろう。ブラック企業に勤め、パワハラ上司にいびられている彼の愚痴を聞いている僕らは、彼が会社を休むことにどれだけの勇気が必要なのか想像することが出来た。いや、そもそも本来なら明日は休日のはずなのだが、休日出勤を強いられている彼には関係のない話だった。電話越しに怒鳴られるかもしれない。次に顔を合わせた時にねちねちと文句を言われるかもしれない。そんな想像が堀木さんを躊躇わせていた。僕たちは彼に無理強いをすることは出来なかったが、出来ることなら全員で海へ朝焼けを見に行きたかった。天王寺さんだってそう思っているはずだ。 全員の視線が堀木さんに注がれ、車内は暖房とエンジンの稼働音だけが響いていた。堀木さんは数分間は迷うように俯いて思考を巡らせていたが、盛大にため息を吐くと「よし、行くか」と顔を上げて相好を崩した。その場の雰囲気が一気に明るくなったのは言うまでもないだろう。 「で、どこで見ることにするんだ?せっかく仕事休んで見に行くんだ。綺麗な場所がいいだろ」 「アタシに任せてよ!すぐに調べるから」 浅見さんはスマホをヒラヒラと振ると、早速海のサンライズが綺麗な場所を探し始めた。天王寺さんも興味津々になって彼女のスマホを覗き込んでいた。ここは二人に任せた方がいいだろうと思い、僕は大人しく待っていることにした。 「堀木くん、私が運転を変わろう!」 「え、小鳥遊運転できんのか」 「免許を持っているんだから当然だろう」 「いや、まぁ…でも、不安だしいいよ。俺が運転するから」 「何がそんなに不安なんだ!私にも運転させてくれ!何かあったとしても全員一緒に死ぬだけだ!」 「それを言われちゃ何も言い返せねえよ」 僕は野薔薇さんと堀木さんのやり取りにそわそわとしてしまっていた。野薔薇さんの運転なんてあまりにも危なっかしくて心配だが、堀木さんは今日も一日仕事をしたあとにここまで運転してきてくれたのだ。体の疲れや睡眠のことも考慮すると交代するのがいいだろう。運転免許を持っているのは他に野薔薇さんだけのようだから彼を頼るしかないのだ。 僕はやや身を乗り出して「あの…」と野薔薇さんと堀木さんに話しかけた。 「堀木さん、よかったら一番後ろの座席で寝てください。僕が助手席で野薔薇さんのこと見張ってますから」 「君はいったいいつから私の監視役になったんだ?」 「出会った時からです」 「なるほど!」 愉快そうに笑う野薔薇さんに僕は軽く肩を竦め、堀木さんに後ろに来るよう促してから一度降車して助手席へと回った。外で堀木さんとすれ違う時に「悪いな」と同情的な眼差しを向けられた。野薔薇さんは車内で助手席から運転席へと移動し、僕たちは座席に腰かけた。 「野薔薇さんもよく免許が取れましたね。一番取っちゃいけないタイプだと思うんですが」 「両親にも猛反対されたが、行動の範囲を広めるためには免許は必須だな!」 「怖い…」 思ったことをそのまま口にした僕に野薔薇さんは気にする素振りも見せずに豪快に笑っていた。先ほど全員一緒に死ぬだけだと彼は言っていたが、僕は絶対に事故に遭うのは御免だと考えていた。僕たちだけではなく、周囲も巻き込んで死んでしまう可能性があったからだ。死ぬ直前にまで誰かに迷惑をかけるなんて嫌なのだ。だからこそ事故を避けるためにも僕は野薔薇さんの運転を監視している必要があった。 男性陣でそんなことをやっているうちに真剣に調べてくれていた浅見さんと天王寺さんが「ここはどう?」と僕と野薔薇さんの間にスマホを差し出した。場所は静岡県の伊豆のようで、現在地からは四時間半ほどかかる。距離はあるが液晶画面に載っている日の出の写真は惹かれるものがあった。運転をするのは野薔薇さんなこともあり、僕は何も意見せずにいたが「よし、そこに向かおう!」と彼が賛同してくれたおかげで目的地が決定した。ナビに場所を入力すると野薔薇さんはさっそく車を発進させた。 野薔薇さんの運転は僕が想像していたより危なっかしいものではなかったが、高速道路に入ってすぐにスピードをぐんぐんと上げて高笑いしながら「気分が高揚するな!」と言った時はさすがに戦慄した。堀木さんは最初こそ野薔薇さんの運転に不安な様子だったが、三列目で横になるとあっという間に眠りに落ちていった。深夜二時を回った頃には天王寺さんと浅見さんも体を寄せ合って眠っていた。僕は不思議と眠気は訪れず、野薔薇さんと他愛ない話を繰り広げながら目的地まで起き続けていた。 ナビに入力した浜辺へと到着したのは朝の五時前だった。スマホで日の出の時間を調べたところ六時半ぐらいに起床するのがよさそうで僕たちは仮眠程度になってしまうが、そんなことはさほど気にならなかった。二人でトイレだけ済ませるとスマホでアラームを設定し、座席の背もたれを倒して僕たちは目を閉じた。昨日もいつも通り朝から起きていた僕は、それほどの眠気を感じていなかったにも関わらず一分もしないうちに意識を手放した。 六時三十分。僕のスマホのけたたましいアラーム音に全員が目を覚ました。うんうんと唸りながら凝り固まった体を伸ばしたり、眠気眼を擦ったりして、車の中から白みだした空に目を馳せた。車内から早朝の景色を見るなんて生まれて初めてで、僕は遠いところに来たんだなという不思議な気持ちになった。浅見さんが化粧直しをしたいと言い出したが、その時間を考えてアラームを設定していたわけではなく、僕らは彼女の申し出を却下して車の外に足を踏み出した。 冬季の早朝の海風は体が凍えてしまう程に寒かったが、代わりにぼんやりとしていた頭を冴えわたらせてくれた。僕たちはぽつりぽつりと会話をしながら駐車場を離れ、浜辺へと出ていった。土曜日、一応観光スポットでもあるのだが、僕たち以外に人は見当たらず、どこまでも続く真っ白な砂浜を独り占めすることが出来た。化粧直しをさせてもらえなかったことにぶつくさと文句を垂れていた浅見さんも海を目の前にすると、子供みたいに無邪気にしゃぎながら砂浜を走り回った。 意味のない会話をしたり、時折足を止めて写真を撮ったり、物思いに耽るよう海を眺めたり、野薔薇さんや浅見さんがふざけるのを動画に収めたりしながら僕たちは誰もいない砂浜を十分近くは歩いていただろう。後方を振り返れば車は遥か遠くの豆粒のようになっていた。そして、誰が何を言ったわけでもないが僕たちは自然な流れのように五人とも足を休めると海に向き直った。堀木さんと天王寺さんは服が汚れるのもお構いなく砂浜に腰を下ろした。浅見さんは波が当たらないギリギリに立って海風に吹かれていた。野薔薇さんは堀木さんと天王寺さんの傍に立っている。僕は誰よりも後ろで四人の背中と海を一緒に見つめていた。 波のさざめく音だけが支配する世界で、夜が、闇が消えていく。紫とピンクとオレンジと白と青色のコントラストが空に広がり、地平線の彼方から太陽がゆっくりと顔を覗かせていた。夜のあいだ色を忘れてしまっていた海が、一日の始まりと共に再び色を取り戻すさまは昨晩見た星空とは違う感動を僕に与えてくれた。こんな景色を見ても、綺麗だとか、美しいだとか、そんなことしか言えないのだ。もっと相応しい言葉があるはずなのに、その言葉を僕は知らなかった。そういったことを探すのが人生なのか、そういったことに名前を付けるべきではないと言うのが人生なのか僕にはまだ分からなかった。 壮麗な景色は僕をちっぽけにさせて、消滅させてしまう。美しいあまりの寂莫、恐怖、感動。涙腺が脆くなってしまったのか、僕はまた泣きそうになって唇を噛み締めた。野薔薇さんが僕たちを振り向いて朝焼けに負けないほどの笑顔を見せた。 「こんなにも美しい景色を見ていると死んでしまいたくなるな!」 彼の台詞に誰も否定も肯定もしなかったが、思うことはみんな同じだったはずだ。だから僕は泣きたくなってしまうのだ。 僕たちは満足がいくまでサンライズを眺めていた。やがて堀木さんが立ち上がり、尻に付いた砂を払い落とすとうんと伸びをして「せっかくここまで来たし、観光でもして帰るか」と提案したことで、僕たちの間には車へ戻るムードが漂った。あそこに行きたいだの、あれが食べたいだの、そんなことをやいやい言いながら僕たちは駐車場に帰ろうとしたが、ただ一人天王寺さんだけが砂浜に座ったまま動こうとしないことに気が付いて「天王寺さん?」と僕が声をかけたことにより、他の三人も彼女の様子に足を止めた。天王寺さんは朝の陽射しを浴びて輝く海の虜になったよう地平線から視線を外さずに応えた。 「私のことは放って行って」 「え…?」 僕は天王寺さんの言葉の意味を理解出来ずに聞き返したが、彼女がこちらを見た二つの瞳を目にして、すべてを察した。彼女の双眸は決意が宿る静かな青い炎を揺らしていた。その青は、海色だ。 「今とても幸せだから。これまでの人生で一番幸せを感じてる。だから、今なら死ねる」 僕たちは何も言えなかった。死にたがりの僕たちだからこそ返す言葉が見つからなかったというのが正しいだろう。 数秒間は押しては引くを繰り返す波の音だけが鼓膜を揺さぶっていたが、誰よりも最初に野薔薇さんが彼女の下へと歩み寄った。いつも着ているコートを風に揺らして歩き、これから旅立とうとする者の傍で膝を付く彼の姿に、もしかして野薔薇さんは死にたがりの僕たちの前に舞い降りた死神なのではないだろうかと思った。 「今日までよく頑張ったな、天王寺くん。お疲れ様」 サングラスを外して真っ直ぐに天王寺さんを見据える野薔薇さんの声は、彼女を永遠の眠りに誘う子守唄のようだった。天王寺さんの表情がくしゃりと歪み、薄い紅が乗った唇を噛み締めた。 「ゆっくり休むといい。おやすみ」 野薔薇さんは彼女の肩を軽く叩き、サングラスをかけ直すと腰を上げて膝に付いた汚れを払って踵を返した。もう彼は足を止めることもなく、一人で駐車場へと向けて歩き出してしまった。別れの言葉に迷い、何を口にしても安っぽくなってしまう虚しい現実に堀木さんは困り顔で笑みを零した。 「お疲れ様、天王寺さん」 彼はそれだけ告げると野薔薇さんの後を追って歩き出した。後ろ髪引かれる思いだろうが、彼は決してこちらを振り返らなかった。残された僕と浅見さんは顔を見合わせたが、浅見さんは決心した顔つきで天王寺さんに近づき、人懐っこい笑みを送った。 「風と話せて楽しかったわよ。先に向こうに行って待っててよ。アタシもそのうち行くから。またその時にでも話しましょ。じゃあ、またね!」 明朗快活な調子で手を振った浅見さんに対して天王寺さんは今にも泣きだしてしまいそうな顔でこくりと頷き返した。浅見さんは僕を横目に留めたが、何を言うでもなく小走りで野薔薇さんたちの下へ向かっていった。僕は天王寺さんと見つめ合った。 僕には彼女の自殺を止める権利はない。僕は彼女を助けられない。救えない。だが、そんなことは関係なく僕は彼女がいなくなってしまうことが寂しかった。友人ともう二度と会えなくなってしまうかもしれないのだ。寂しくて当然だ。僕たちは死にたがりで、相手の死にたい気持ちを肯定して、自殺は悪ではないと言い張る。だけど、別れの切なさは消せやしない。人間なのだから当然だ。すべてを肯定したいと願っても、別れによって生まれる寂しさを僕はまだ肯定出来る人間じゃなかった。寂しさと悲しみは僕の中で同義だった。 それでも僕は泣かないようにグッと堪えた。声が震えてしまわないように爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。彼女の幸福の門出を笑顔で見送りたかった。 「朝日野くん、私が無事に死ねることを祈っていて」 「はい、祈ります。天王寺さんが安らかに眠れるように。もう二度と苦しまなくていいように。僕は祈ります」 「ありがとう」 天王寺さんは星の輝きよりも、海の煌めきよりも美しい真珠を浮かべて破願した。 彼女に出会ってから僕が見た中で最も美しい笑顔で、それを皮肉だとは思いたくなかった。 「……おやすみ」 海に向き直った天王寺さんに僕は背を向けて歩き出した。何があっても振り返ってはならないと強く自分に言い聞かせながら一歩一歩を踏みしめながら進んだ。潮風が鼻腔を突き刺し、瞼の奥が痛くなって砂浜の白が滲んでいた。 一時間後、僕たちのメッセージグループに天王寺さんから「ありがとう」というメッセージが投下され、彼女はグループから退出した。 僕たちは祈った。彼女が幸福になれたことを、ただ心の底から祈った。
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