第九章 裏切りの愛人

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 和人から受けた恩が返し切れない事は分かっている。暁にとって和人は間違いなく大切な存在であり、和人が望むのならこの命を失っても構わない。  それでもどうか許して欲しい、絃成と共に行く事を。懇願する暁に和人は残酷な言葉を告げる。絃成が元々暁の保管する金が目当てだったと何故考えないのか、と。絃成と新名が予め共謀していた可能性すら示唆された。和人から提示された可能性は暁であっても「もしかして」と疑念を抱いてしまいそうだったが、すぐにその可能性を恥じた。  和人の言葉は暁の決意をぐらつかせるのには十分で、暁はタイルの上を這い和人に命を乞うのではなく絃成の為にこの生命を捨てる事を決めた。和人はそんな暁の姿をただ眺めるだけで、既に虫の息である暁がふらつきながらも立ち上がり洗面所から立ち去ろうとする時も手を貸す事は無かった。  自分の物にならないのならばその命は消えてしまっても構わない、暁だけは真夜子とは違う人間であると和人は信じたかった。しかしその期待も無惨に打ち砕かれ、また一人自分の側から離れて行こうとしている。いっそこの場で息の根を止めてしまえば永遠に暁は自分の物となる。和人は右手に握ったままのナイフを無防備に向けられた暁の背中へと振り上げ――そしてやめた。  患部を強く抑え、壁に肩を預けながら暁は一歩ずつ絃成が待つ待合室へと向かう。上下共に黒い服であった事は外から出血を気付かれ難くする事に最適で、夜も深まった事で周囲の誰も暁が重傷を負っている事に気付きはしなかった。 「イトナ、」  時刻通りならばバスが到着するのはもう間もなく、和人の告げた言葉が頭の中を巡ってしまうのも、恐らく正常に頭が働き切れないからだと感じていた暁はガラス越しに待合室を覗き込む。先程まで確かに絃成が背中を預けていたその壁際に、絃成の姿と逃亡資金の入ったバッグは残されていなかった。 「イト、ナ……」  温かいかも分からない涙が暁の頬を伝い流れ落ちる。和人の言葉が現実になったのだとしても、絃成が新名に命を狙われる事もなく無事に過ごせるのなら良いのかもしれない。だからと言って今更和人に助けは乞えない。今二度も和人を裏切り、どんな顔をして許しを乞えば良いのか、和人ならば受け入れてくれる可能性もあったが暁自身がそれを許せなかった。  馬鹿みたいに人を信じ過ぎて、昔から新名や真夜子に言い包められ騙されてきた。絃成にすら騙されていたという事実は、暁の腹の傷以上の大きな穴を心に開けたようだった。震える両足、自分を支えるのも精一杯の中傷口を抑える指の間からぽとりと紅い雫が滴り落ちた。
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