終章 シュレディンガーの夜明け

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 定刻通りにバスが訪れ、二人は互いに支え合いながらそのバスへと乗り込む。年末年始の繁忙期と異なり、また週末でも無かった為座席の空きは多く、そのお陰で暁が当日でも乗車券を買う事が出来た。前の乗り場から新名の息が掛かった者が乗ってきてはいないかと気を揉むつもりの暁だったが、もうすでにその心配が不要である事に気付いていた。  その証拠は和人が来ていた事であり、恐らくは暁と絃成を逃さぬよう包囲網を敷こうとした新名を制して和人はひとりでこの場所へと現れた。暁を取り戻す事が和人の目的だったとするならば、尚更新名とかち合うような真似を和人がする筈は無かった。  他の乗客と距離を空け、暁は窓際の座席に腰を下ろす。幸いバス内にトイレの設備もあり、腹を下しているのならば通路側の方が良いのではないかと打診した絃成だったが、具合の悪そうな暁が窓際を望んだ為それ以上の異論は告げず、絃成は窓際の座席に腰を下ろす。バスは乗客を確認するとすぐに発車し、深夜発という事もあり、間も無く車内は小さなライト数個を残し暗闇に沈んだ。  乗客が少ない事もあり、あまり大きな声を出す事が無ければ少し位は会話をしても問題が無いだろうと絃成はバスが高速に入った辺りでこそりと暁へ声を掛ける。 「広島通るかな?」  絃成がファンであるOctōは千葉県の出身だったが、今も尚音楽活動を続ける二代目リーダーのNeunは広島県の出身だった。神戸市が兵庫県に含まれるという事を理解していなかった絃成はそもそも日本の地理に疎く、広島県が兵庫県より先に位置している事すら理解していなかった。 「広島は神戸より先だから通らないよ」  それすらも絃成らしいと暁は口元に緩く笑みを浮かべ、肩を揺らす。その僅かな機微ですら暁の傷口には大きなダメージを与え、内側から何かが滲み出てくる感覚に暁の意識が少し遠のいた。 「Neun(ノイン)の地元だから行きたかったのになー」 「……行こう広島も、福島も。一緒にシュレの聖地巡りしよう」  これから向かおうとしている土地とは全く正反対に位置する福島県はドラムの Cien(シエン)と前ボーカルであるゼロの出身地だった。今をどうにか切り抜ける事が出来たならば、広島県であろうが福島県であろうがもう好きな所へと行ける。 「そうだなっ、一緒に行こうぜ」  にかっと笑みを浮かべる絃成の嬉しそうな顔が、擦れ違うトラックのライトに照らされ色濃く暁の脳裏に焼き付く。この笑顔を守れて良かった、少しでも疑ってしまってごめんなさいと暁は顔を苦痛に歪めたが、その表情に絃成が気付く事は無かった。  夢心地のような感覚に暁はもう開けていられない重い瞼を下ろす。まだ絃成と話していたいのに、脳を鷲掴みにされて真後ろに引っ張られているように真面な思考が出来ずにいた。 「……ごめん、少し……眠くて」  八時間の長い旅、バスにトイレが常設されているという事は途中で何処かのサービスエリアに停車する可能性も低く、今は少しでも眠って体力を温存しておいた方が良いと暁の体調を気遣った絃成は、汗でしっとりと湿った暁の額に張り付く前髪を指で払い除け、その冷え切った額にそっと唇を寄せた。 「ん、お休み――向こう着いたら起こすからさ」  昨晩から随分と暁には無理をさせてしまったという自覚のある絃成は、乗車時に渡された毛布を暁の上に掛け自らも座席を倒して角度を調節する。 「あり、がと……」  明日になればきっと全てが変わる。那月の紹介であるならば信頼のおける相手だ。当面の内は和人の金があればなんとかなる。何かに怯えて過ごす必要も無い、今度こそ暁は自由になれるのだと薄れゆく意識の中口元には微かな笑みが浮かんでいた。
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