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小雨の降る山頂にあるロープウェイの駅。
ゴンドラを降りて駅舎の外に出た僕は、雨宿りの客で賑わうカフェの前を素通りし、駅を出た先にある温泉寺奥の院の境内を目指す。
「あらよっと」
「ほれっ」
境内に着くと、少し見ない間に少し髪の伸びた華奢で小柄な女性が、雨の中で傘を片手に、一人きりで“かわらけ投げ”を繰り返していた。
こんな雨の中、わざわざ外に出てかわらけ投げの順番待ちで並んでいる人もいないので、かわらけ投げの台はその女性の貸し切り状態だ。
折りたたみ傘の下でしばらくその女性の様子を見ていた僕は、その女性が一向にかわらけ投げを止める様子がないので、そっと近づいて声をかけることにした。
「かわらけ投げは、一人3枚ですよ?」
僕のその声に、その女性はビクッと肩を震わせてかわらけ投げを止めた。
そして、僕の方を振り返らずにかわらけを投げた崖の方を向いたまま、ポツリと呟いた。
「インスタ見てここに辿り着いたファンの方ですね。よくここまでお越しくださいました。
全問正解おめでとうございます。
表彰式、しなきゃ…ですね」
その呟きは、涙声で掠れて最後の方は聞き取れなくなっていた。
「ユキさん…、いや、白崎ユノカ先生、正解のお祝いとして、文庫本にサイン貰っていいですか?」
僕が冗談めかしてそう呼ぶと、それまで崖の方を向いたままだった泣き顔のユキさんが、ようやく振り返った。
髪は少し長くなっていたけど、それ以外の表情も何もかも、あの時のユキさんのままだ。
---何か言わなきゃ…。
冗談っぽく揶揄ってみたのはいいけど、僕も緊張からか、それとも感極まったのか、考えていたはずの言葉が出てこない。
すると、そんな様子に気づいたのか、ユキさんは濡れた目尻を拭いながら、顔を上げて微笑んだ。
「よかった。
キミなら見つけてくれると信じてたよ。
見つけてくれて、ありがとう」
ユキさんの涙まじりの笑顔を見たら、この数ヶ月の間に僕の中に芽生えていた複雑な感情も、どこかへ飛んで行ってしまった。
そのまま見つめ合い、お互いの名を呼び合った。
「ユキさん…」
「…た、拓哉くん」
ユキさんは、この時初めて僕の名前を呼んでくれた。
付き合っていた頃は、最初は“少年”。
その後は“キミ”呼びだったのに、ここに来て初めて。
少し嚙み嚙みだったけど、今はスルーしておこう。
そしてしばらく無言で見つめあった後、傘を放り投げて走り寄り、抱き合っ……、
ん?
「ユキさん?」
この後に起こるであろうことを想像して目を瞑っていた僕が、何やら違和感を感じて目を開けると、傘を放り投げて両手でハグしようとしていたのは僕だけで、ユキさんは傘を片手に持ったまま、片手で控えめに僕をハグしていた。
「…なんで?」
「だって、雨降ってるじゃないか」
「それは、そう…ですけど。
ここはドラマなんかでもよくある、二人が雨の中、傘を投げ捨てて駆け寄り抱き合う感動のシーンなんじゃないですか」
「いやいや、そうは言っても、濡れたらヤだしさ」
久しぶりに会ったユキさんは、相変わらずユキさんだった。
でもそう言いつつも、ユキさんは僕の折りたたみ傘を拾って僕に持たせると、自分の傘を閉じ、僕の傘の中に入ってきた。
そして僕の傘の柄えを持ち、その傘を他の人のいる駅舎やカフェのある方に倒して目隠しを作ると、傘の陰に隠れて僕にキスをした。
「ユキさん?」
「ヘヘッ。こっちの方がドラマチックじゃないかい?」
そう言うと、ユキさんは悪戯っぽく笑った。
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