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八月一日。八月になると本格的に夏休みが始まったという気分になる。といっても僕の生活リズムは変わらない。
この日も朝から森に行った。いつもと違うのは朝ごはんを食べてから行った。
森の入り口に自転車をとめて、木々に挟まれた道を歩く。高校入学時に買った白いスニーカーはかなり汚れて黒くなっている。
頭上からクマゼミの暑苦しい鳴き声が降ってくる。セミならミンミンゼミの鳴き声の方が好きだ。だけど大阪はミンミンゼミよりクマゼミの方が多い。
――目の前をルリタテハが舞った。
僕は虫捕り網を握り直し、静かにそのあとを追った。
走り回って網をブンブン振り回していたのは小学生までだ。今は捕まえてやるという気配を殺し、機会を待ち、静かに網を振る。
蝶は飼育が難しいから、捕まえたらその美しさを堪能してすぐに逃がしてやる。
昔は標本にもしていたけど、ルリタテハの標本はもうあるし、この歳でそんなことをしていると気味悪がられることも知っている。小学五年生の自由研究で昆虫標本をつくったとき、口では「すごいね」なんて言いながらも内心気持ち悪がっていたミイちゃんのあの顔を今でも憶えている。
それに標本にしてしまうことをかわいそうに思うようにもなっていた。
ルリタテハはひらひらと森の奥へと飛んで行った。僕はそのあとを追ったが、ルリタテハは木々の影にその姿を隠してしまった。
僕はがっかりとして網を下ろした。ルリタテハが消えた方に目を凝らすと、何かが木から垂れ下がっているのが見えた。そのシルエットに心臓が早鐘を打ち始める。
僕は木にぶら下がったその黒い物体に恐る恐る近づいていく――そしてそれが何なのかはっきりと認識できたとき一気に血の気が引いた。
――死体だ。
黒いスーツを着た男がぶら下がっていた。僕は声をあげることもできず、後じさった。
太い枝からロープでぶら下がっているそれは、ぐったりと垂直に伸びている。首吊りは死体が汚くなると聞いていたが、思ったよりもきれいに見えるのはまだ腐敗していないからだろうか。においも土や草木のにおいのせいで判らない。
とりあえず大人に連絡しなければ――そう思って振り返ったとき、僕は思わず声をあげた。
小さな子どもがいた。
小学校低学年くらいの男の子がこちらを見て立っている。その男の子に僕は腰を抜かしそうになった。
見せてはいけない――小さな子どもがひとりでこんなとこにいる疑問よりも、真っ先にそう思った。
「土にうめてあげなきゃ」
男の子は言った。
「え?」
「しんじゃったらね、土にうめてあげるんだよ。このあいだジャッキーもうめてあげたの」
男の子はゆっくりと近づいて言った。ジャッキーというのは飼っていたペットだろうか。死んでいるということは分かっているけど、本当の意味では分かっていない無垢な声。ペットのジャッキーも首吊り自殺のこの男性も等しく『死んでいる』のだ。
「――そうだね……埋めてあげなきゃね」
僕は腰を落とし、男の子の目線にあわせて優しくうなずいた。
警察に連絡しなくちゃいけないと頭では分かっているのに、僕は何をしているのだろう。
あんな小さな男の子を死体のそばに待たせて、シャベルとスコップ、それから高枝切りバサミを自転車の前かごに突っ込んで、それが落ちないように右肩でなんとか支えながら自転車を漕いでいる。汗だくの女子高生――傍目からは中学生にしか見えないか――をすれ違う人は不思議そうに見ていた。
森の入り口に自転車をとめ、道具を抱えながら小走りでもどった。
男の子は死体のある木とは別の木の根元で三角座りをしていた。
「待たせちゃってごめんね」
僕が声を掛けると男の子は首を横に振った。
「それじゃあ木から降ろしてあげるから離れてて」僕は高枝切りバサミを持って死体に近づいた。近づくと、それは去年のお葬式で見たおじいちゃんのそれとは違うことが判った。
ロープを切ることが怖くなった。怖くなったけど、離れて見ている男の子の視線を感じて一歩踏み出した。
ロープを切ると、まっすぐに伸びていたスーツの男はドスッと鈍い音を立てて地面に落ち、そのまま土の上に横たわった。僕はそれに驚き飛び退いて、男の子の方をちらっと見た。男の子は黙って見ていた。右手には僕が持ってきた水色の小さなスコップを持っている。
「それじゃあ穴を掘ってあげようか。ここは大きい木の根っこがあるから、あの辺がいいかもね」
僕が比較的掘りやすそうなところを指差すと男の子は小さくうなずいた。
「きみ、お名前は? 何年生なの?」
僕はシャベルで穴を掘りながら訊いた。この辺りは土がやわらかくて助かった。非力な僕でも足で体重をかければ、シャベルは地面に刺さってくれた。それをくるっと回して土をどかす。
「ぼく……ユウキ。一年生」
男の子――ユウキは足が埋まる予定の部分を小さなスコップで掘っている。
「へえ! きみもユウキっていうんだ。わたしもユウキっていうんだよ。優しいお姫様って書いて優姫。おかしいでしょ」
僕は笑って言った。ユウキも笑って首を振った。
「ユウキくんはこんなとこで何してたの? ひとりで遊んでたの?」
「うん……みんな公園でゲームしてるから、ぼくは持ってないから探検してた」
ユウキは小さなスコップで一生懸命穴を掘りながら言った。
「そっか、最近の子は外でもゲームとかしてるもんね」
「本当はぼくもほしいんだけど、ママが買ってくれないんだ。だからひとりで遊ぶの」
ユウキは掬った土をあちこちに飛ばしながらしゃべった。前髪が汗で張り付いて、テカテカと木漏れ日に輝いている。
「そうなんだ……だけど一人でこんなところ来ちゃダメだよ。迷子になったら危ないんだから。学校でも先生に言われなかった?」
ユウキは黙って俯いていた。手だけはせっせと土をかき出している。
「お姉ちゃんは、なにしてたの?」
『お姉ちゃん』と言われて、その響きに身体がむずがゆくなった。だけど少し嬉しかった。
「わたしは虫を捕ってたの、きれいな虫を。よかったら虫捕り教えてあげようか?」
「いい」ユウキはすぐに首を振った。そりゃそっか。こんな素性の知れない人に虫捕りを教えてもらうなんて、きっとママも許してくれないだろう。
僕は何を期待してたんだろう。
僕とユウキは穴を掘り続けた。ユウキは時折り土の中から出てくる虫の幼虫やミミズを怖がっていたが、そのたびに僕が虫を優しく手で持って「大丈夫だよ」言ってあげた。
大人ひとりが横になれるほどの穴が完成したころには腹ペコだった。ユウキに「もう帰る?」と訊いたが、首を横に振ったのでコンビニでお昼ごはんを買って一緒に食べることにした。
コンビニではまずトイレを借りて手を洗った。泡立ちの悪い緑色の液体せっけんはみるみるうちに黒くなった。
店員に怪しまれて何か訊かれたらどうしようと思っていたが、土と汗にまみれた僕とユウキを外で仲良く遊ぶ姉弟と思ってくれたようで、「今日も暑いからね、気を付けるんだよ」とそのおばちゃん店員は笑顔で声を掛けてくれた。
コンビニの前でおにぎりを食べていると自転車に乗ったミホが通りかかった。
「ユウ、こんなとこで何してるん?」
僕に気付いたミホは笑顔で手を振りながら言った。そして僕の隣にいる小さな男の子にも気付いて手をとめた。
「あれ? ユウ、弟なんておったっけ?」
「ううん、ちゃうちゃう、近所の男の子。一緒に遊んだっててん」僕はユウキが何か言いだす前に急いで言った。
「ミホは何してるん?」
「私はバイト。あっこのミスドやからまた買いに来てやあ」
ミホがバイトをしているなんて初めて知った。もちろん校則でバイトは禁止されているが、これが『ちゃんと』した高校生の在り方なんだろう。
「土まみれになって遊ぶのもええけど、私とも遊んでや」ミホは土で汚れた僕の足元を見て言った。「じゃあ私急がなアカンから」
ミホは笑顔で手を振った。
「遊ぼうって言うても、まずケータイ買ってもらわなアカンなあ……」僕は遠ざかるミホの背中に向かってつぶやいた。隣ではユウキがポカリスエットを飲んでいた。
森の入り口で大人の女性とすれ違いドキリとしたが、スーツの男は地面に横たわったままで近くには僕とユウキが掘った穴が残っていた。
穴を掘っていたときには極力見ないようにしていたが、その死体にはアリが群がり、ハエが飛び交っていた。腐敗具合とかはよく分からないけど、もしかしたらもう結構進んでいるのかもしれない。
「それじゃあ埋めてあげようか」
僕が言うと、ユウキはうなずいた。
とは言え、やっぱり直接触るなんてとてもできない。
まっすぐに伸びているこの状態なら丸太のように転がせるのではないかと思い、シャベルをテコのようにして死体を穴まで転がしていくことを考えた。
死体の横に立ちシャベルを構えたとき、スーツの上着の右ポケットから白い紙が覗いていることに気付いた。
僕はそれを右手でつまむように引き抜いた。
――遺書だった。
家族に向けたメッセージなどではなく、会社や上司、同僚に向けた恨みつらみが丁寧な字で書きなぐられている。
内容はよく分からなかったが、勤めている会社で不正があるということは分かった。
不正をして、人を騙して働かなければならない。上司から不正を強要され、同僚はそれが当然のことのように受け入れている。それに耐えられず自殺を選んだらしい。
この人は『ちゃんと』できなかったのだ。
僕は自分のジーンズのポケットにその遺書を押し込み、シャベルを死体の下に差し込んだ。
思ったようには転がらなかったが、どうにか死体を穴に落とすことができた。
「それじゃあ、土をかぶせるから手を合わせてあげて」
僕はユウキに言った。
ユウキはどういうことか分からなかったらしい。首をかしげている。
「ほら、こうやって……『天国に行けますように』ってお祈りしてあげて」
僕は手を合わせて祈る仕草をしてみせた。
「じゃあ埋めるよ……」
僕は足元から土をかけていった。ざらざらと音を立てながら黒い土がスーツの上に積もっていく。
胴体に土をかける前にポケットから遺書を取り出し、死体の上に落とした。その上から土をかけていく。
数時間かけて掘った穴はあっという間になくなった。
お墓の代わりに水色のスコップを地面に突き刺した。
「よかったね」僕は言った。ユウキはうなずく。
「今日のことは誰にも言っちゃダメだよ」
「なんで?」
「言っちゃうと、おじさんが天国に行けなくなっちゃうから」
僕は優しくユウキに微笑みかけた。ユウキは「うん」と首を縦に振った。
森を出るころには、日が傾き街はオレンジ色に染まっていた。
僕は自転車をゆっくりと押しながら歩き、ユウキを家まで送っていた。
ユウキは先ほどまでの物静かな印象とは打って変わってよく喋った。学校でのこと、友達のこと――めちゃくちゃな文法で何度も同じことを繰り返しながら喋った。何を言っているのかほとんど分からなかったが、楽しそうに話すユウキの言葉に、僕は「へえ」と相槌を打った。
夕陽に僕とユウキの影が伸びている。
「ユウキ!」
影の先から女性が叫んだ。女性は僕たちの前まで走り寄ってユウキを見下ろした。
「こんな時間まで何してたの! 駄目じゃないの!」女性はユウキを怒鳴りつけた。ユウキは泣きそうな顔で黙って俯いている。
その女性は僕のことも睨みつけた。頭から足の先まで。僕は言葉が詰まって何も言えなかった。
「早く帰るよ!」
迷子になっていたから送り届けたんです、と言い訳をする前に、その女性は踵を返して来た道をずんずんと歩いて行った。
ユウキは僕のことをちらっと見て、やはり泣きそうな顔でそのあとについて行った。
女性が前を歩き、ユウキは後ろを歩く。女性は振り返ることもせず200mほど先の家に入っていった。
ユウキはその門をくぐる前に、こちらに振り向いた。僕が軽く手を振ると、ユウキは手を振り返すこともなくそのまま左に曲がり、塀の向こうへと消えてしまった。
ひとり残された僕は来た道をもどった。正面から僕を撫でつける夕陽が目に痛いほど眩しい。
街路樹にとまるヒグラシが鳴いている。
――今年の夏はバイトを始めよう。そう思った。
バイトをして、ミホと一緒に服を買って化粧も教えてもらおう。ユウキにもゲームを買ってやろう。きっとまた会えるから、そのときにゲームを渡して、「これで友達と遊び」って言うんだ。ユウキは遠慮しながらも嬉しそうに受け取るに違いない。僕たちはちゃんとしないといけないんだ。
遠くにセミの鳴き声が聞こえる。
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