0人が本棚に入れています
本棚に追加
熱気で蒸し返す体育館にチャイムが鳴り響いた。生徒指導の外山はそんなことも気にせず話し続けている。
開放された窓からは、けたたましいクマゼミの鳴き声が入り込んでくる。
僕は同じ制服を着たたくさんの生徒に埋もれてちょこんと三角座りをしている。
マイクの音がこもっていて物理的に何を言っているか判らない校長の話のときも俯いて、僕とは全然関係のない興味もない部活動の表彰だか壮行会のときにはとりあえず手だけ叩いて、今も外山の話が終わるのをただ待っている。
首筋の汗が背中の方に流れた。ちょっとこそばゆくて丸まっていた背中が伸びた。冷房もない体育館にこの学校の全員が詰め込められているなんてどうかしている。教室には冷房もあるのだから各教室に放送すればいいのに。
今だって前の方で熊谷と河本が先生に注意されたけど、先生もすし詰め状態の生徒の間を行かないといけないもんだから、まるで映画館で後から入ってきた人みたいになっちゃってる。
外山の話が終わってやっと終業式が終わった。先生の誘導でクラスごとに教室へ帰っていって、教室でも先生の話を聞いて、日直が号令をかけると、教室内が一気にワッと騒がしくなった。
「このあとどうする? とりあえずマクド行く?」とか、「今日の部活、グラウンドやっけ?」 とか、みんなそれぞれのグループの仲間と話している。
「ユウ」
ミホが僕に声を掛けた。
「おつかれ、やっと一学期終わったなあ。ユウももう帰るやろ?」
「うん」
僕はちょっと驚いた。ミホは終業式の日くらいは最近仲良くなった笹倉さんたちと寄り道して帰ると思っていたからだ。
「じゃあ帰ろっ。いやあ終わった終わった」
笑顔で教室を出るミホに僕は続いた。
騒がしい廊下にまたチャイムが鳴った。
「ユウは夏休みどうするん?」
電車を待つホームでミホは訊いた。ミホとは小学校も中学校も同じで、高校まで同じになった。地元も同じだから電車を降りる駅も、駅から自転車に乗るのも同じだ。
「んー、やっぱ虫捕りかなあ」
「相変わらずやなあユウは。今どき女子高生で虫捕りなんてせえへんで?」ミホは笑って言った。
「よかったら、りんくうとか行かへん? もっと服買ったり、女の子らしいことしよやあ」
「わたしはええよ。服とかよう分からんし」僕は手を振っていった。
「ユウ、素材は悪ないから服とか化粧とかちゃんとすれば絶対かわいなるのになあ」ミホは口をとがらせて、もったいなそうに言った。ミホの眉毛はキレイに整っていて、唇は薄いピンク色をしている。僕だってそりゃ流石に眉毛がつながっているなんてことはないけど、ミホに比べれば手入れのされていない庭みたいな眉で、唇もかさついている。
そもそも服や化粧を『ちゃんと』する、の意味が判らなかった。化粧は校則で禁止されているし、今は制服だってちゃんと着ている。みんな個性を求めて制服を着崩したり化粧を『ちゃんと』しているけど、結局流行りのものでみんな同じになってるじゃんと思っていた。だったら校則でまとめられていても同じだと思う。口には出さないけど。
急行の電車に乗って二駅、そこから自転車で十分くらい。いつもの交差点でミホと別れた。僕をりんくうには誘ってくれるのに、一緒に寄り道はしないんだなと思った。
晩ごはんのあとお母さんに通知表をみせると、お母さんは「ふうん」って感じで黙ってみていた。5段階評価で3ばっかりの成績に何も言うことがないようだ。
「あんた、古典2やないの」
「だって古文とか何言うてるんか全然分からんねんもん。あんな言葉づかい今使ってたら頭おかしいで。それよりもほら、生物基礎は5やねんからそっち褒めてよ」
「成績は1とったら留年やねんから、そこなんとかせなアカンやないの。お兄ちゃんは2なんかとったことないで、なあお兄ちゃん?」
お兄ちゃんは急に話をふられて、困ったように笑って手を振っていた。
「とにかく二学期はもっと古典がんばりや」
お母さんは通知表をたたんで言った。
自室のベッドの上で小さいころに買ってもらった昆虫図鑑を眺めているとノックの音がした。うちの家族でノックをするのはお兄ちゃんだけだ。
「なに? お兄ちゃん」
ベッドの上で横になりながら声を掛けるとドアが開いた。やっぱりお兄ちゃんだった。
「いや、さっきの話やけど……かあさんはあんなこと言うとったけど優姫は今のままでええと思うよ」
「そんなことわざわざ言いにきたん?」
「わざわざって……結構大事なことやで、得意なもんがあるってのは」お兄ちゃんは真面目な顔で言った。
「おれ、今就活してるやろ? やけど自分が何が得意なんか、何が好きなんかもよう分からんくて、どうやってアピールしたもんか苦労してんねん。優姫は虫とか好きやねんから、それ大事にしてたらきっとそういう仕事もみつかるで」
「そういう仕事って?」
僕はちょっとイライラしていた。こんなもの将来なんの役にも立たないと心のどこかで分かっていて、お兄ちゃんが言っていることなんて気休めの定型文だと思っていた。そしてそんなふうに考える自分にもイラついていた。
「研究者とか……? よう分からんけど」
「それってホンマに仕事になるん? 虫なんか研究してなんの役に立つん? それにもし研究者にならんかったらやっぱり意味ないやん」
お兄ちゃんは眉をハの字にして困った顔になった。
「あんまり自分を殺すなってことや。お前、昔は自分のこと『僕』って言うてたやろ? かあさんに言われて『わたし』って言うようになったけど……それも変える必要なかったんやで。最近は僕っ娘ってのもあるらしいし」
「お兄ちゃん、気持ち悪い」
お兄ちゃんは「そうか」と苦笑を浮かべた。
「それにそれはええねん。わたしが『僕』って言うたびにクスクス笑われてるのは知っとったから。直さなアカンかってん」
「そうか……」
お兄ちゃんはまた困った顔をした。
「まあこの話はもうええわ。それより、今日は木にミツ塗りに行くんか? 明日から夏休みやろ?」
「うん、行こうかなと思ってる」
「ほんじゃあ、おれも行くわ」
「え?」
「暗い夜道を女の子ひとりで行かすわけにはいかんやろ? それも大事な妹をさ」
いや、今まで何度も一人であの森には行っているし、そんなに心配することじゃないと思うんだけど。
だけど行く気まんまんのお兄ちゃんを断る理由もないし、一緒に台所で特製のミツをつくって、お兄ちゃんの運転でいつもの暗い森に行った。
次の日、朝ごはんの前に家を出て自転車を漕いだ。早朝の陽射しはまだやわらかいけど、それでも森の入り口に着くころには汗でTシャツが肌にまとわりついてきた。
ここの森には地元の人間もあまり来ない。一応整備された道はあるけれど歩きにくいし、鬱蒼としていて散歩をするなら近くの公園に行く。
整備された道なのか獣道なのか、どっちなのかちょっと判らない横道に入る。じめじめとした空気に土と草のにおいが入り混じって僕を包み込む。目当ての場所にたどり着くまでも、辺りを見回しながら何かいないかと注意する。クマゼミはたくさんいるけれど、やつらはいいや。
たくさん虫はいたけれど、めぼしいのはいなかったから一匹も捕まえずに目当ての場所にたどり着いた。
だけど昨晩お兄ちゃんとミツを塗ったクヌギにも何もいなかった。ぐるりと辺りを見渡す。周囲の土も手で探り、鼻を利かせる。
僕は木を見上げてから思いっきり蹴った。いわゆるヤクザキックで、靴の裏から脹脛に振動が伝わる。二回、三回と蹴ると頭上から黒い塊が落ちてボトッと音がした。オスのカブトムシだった。
「やった!」僕は急いで捕まえてその黒々とした光沢を眺めた。
「クワガタ狙いやったけど、まさかカブトが落ちてくるなんて!」
普通、木を蹴って落ちてくるのはクワガタだけだ。カブトムシは落ちてこない。クワガタは振動を感知すると死んだふりをして自ら落ちる、つまり危険を感じたときの防衛手段なのだ。こいつはカブトムシのくせにクワガタみたいなことをして僕に捕まった。間抜けな奴だ。
「だけどやっぱりヤマトかあ。ホンマはコカブが欲しいんやけど、なかなかおらんよなあ」
日本のカブトムシというとみんな同じものをイメージする。だけどコカブトムシっていう珍しいカブトムシもいるし、みんながイメージするヤマトカブトムシにも亜種がいる。でもそんなこと普通の人にはどうでもいいらしくて日本のカブトムシはカブトムシなのだ。外国産のヘラクレスやアトラスはちゃんと区別されるのに。
「大事に育ててやるからな」
僕はその戦果を虫かごに入れて、来た道をもどった。今年の夏休みはこの子を飼う――そう思って僕はほくほくとした笑顔になっていた。
家に帰るとお母さんが汗と土のにおいにまみれた僕を見て「ごはんの前にシャワー浴びてきい」と嫌そうな顔で言った。
朝は森に行って、帰って朝ごはんを食べたら宿題をして、テレビを観て……という生活が一週間続いた。森から帰るときに、違う高校の制服を着た人たちとすれ違うこともあった。きっと部活や夏期講習があるんだろう。
テレビの中ではカマキリの恰好をした俳優が虫捕りをしている。虫に興味がない人にもこの番組は人気があるらしい。もちろん僕も好きだ。
だけど普通の人からすれば、ちゃんとしてるこの俳優が大好きな虫について熱く語っているのが面白いんだろう。きっとおばさんになった僕が同じように虫捕りをしても怪しい目で見られるだけだ。結局ちゃんとした人でないとダメなんだ。
最初のコメントを投稿しよう!