君と歌う不協和音

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それからは毎日、三年生の廊下を覗きに行っていた。愛原先輩と会えることを期待して。だが、通っているうちに諦めの気持ちが強くなって次第に足が遠のいていった。どうすれば愛原先輩と会えるか。必死にそれを考えてきたが、なにも思い浮かばなかった。愛原先輩のいるクラスさえ知れば、直接話をしに行けたかもしれないが、そんな話をしたことがなかったため知らなかった。それじゃあ、片っ端から顔を出していけばいいのではないかと考えたが、僕にそんな度胸はなかった。それじゃあ、すれ違った先輩に愛原先輩のいるクラスを聞くのはどうだろう。初対面の人と話すのが得意ではない僕にとって最も難関な手段だった。  学園祭のこと傷ついて、不登校になってしまったりしていないだろうか。そんな考えが過ったが、大学受験を前にしてそんな行動を取るか疑問に思った。だが、音楽大学だと実技試験があると聞いたことがある。果たして愛原先輩がそれをクリアできるかどうか。志望する学科によって実技試験の内容は変わるだろうが、シンガーソングライターになりたいと言っていたのだからきっと歌の試験はあるのだろう。もう一度、僕が力になれたら。きっと、学園祭だって愛原先輩が緊張しなければ上手くいってたんだ。だって最後の練習のときまで、愛原先輩の音痴は治っていた。今も絶望の淵にいつであろう愛原先輩を救い出すためにも、あの日内緒で録音した歌を聴かせてあげたい。  そう思い続けているうちに、二学期が終わり、三学期も終わりに近づいていた。結局、学園祭以来、一度として会えないまま先輩たちの卒業式を迎えた。在校生として大人しく座っていた。  そして、入場してくる先輩の顔ひとつずつをしっかりと見て、愛原先輩を探した。違う、違う、違うと繰り返しながら見ていると、長い列の終わり際に愛原先輩の顔が見えた。しっかりと前を向いていて、卒業生にふさわしい面持ちをしていた。クマ一つないすっきりとした顔だ。僕が思っていたよりも早く、愛原先輩は学園祭から立ち直っていたのかもしれない。そう思うと安心した。嘘つきと言われたあの日から、愛原先輩になんて声をかけようか悩んでいた。確かにはじめは嘘をついていた。だが、愛原先輩の歌が徐々に上手くなっていたのは本当のことだ。それを証明する手段は一つしかない。  卒業式の最中、ずっと早く終われと気持ちが急かされていた。卒業生の記念撮影が終わり、退場していくと一年生は片付けのためにその場に残された。予定通りだと、この後卒業生は昇降口前に集められてそこで最後の時間を過ごすはずだ。僕は先生の目を盗んで、トイレに行くふりをして外へ出た。外に出るともう既に先生からの話が終わったのか、各々卒業アルバムやスマホを片手に集まっていた。すれ違う人の顔すべてを確認しながら愛原先輩を探す。喋り声にも耳を傾けた。愛原先輩のあのきれいな声を僕が聞き逃すわけない。人の隙間をぬうように、同じ場所を何度も歩いた。だが、どれだけ歩いても愛原先輩は見つからなかった。もしかして既に帰ってしまったのかと考えたが、卒業式の日にそんなことをする人だとは思えない。  そこで僕はハッと気づいた。もしかして、部室にいるのでは。人混みから抜け出し、中庭に入り、特別棟を見てみると部室の窓が開け放たれていた。そこに愛原先輩がいる。そう信じた僕は部室まで一直線に走り抜けた。あの日、愛原先輩とした競争を思い出す。あの時は愛原先輩と一緒だったから楽しかったが、今は焦燥感に駆られすぐに胸が苦しい。部室の前まで来ると愛原先輩の歌声が聴こえた。学園祭で歌ったあの歌だ。ノックせずにドアを開けた。歌声は止み、愛原先輩がこちらを向く。 「愛原先輩」 「藤野くん」  学園祭ぶりに聞く愛原先輩の声だ。嬉しさから涙が出そうになる。 「僕ずっと愛原先輩に言いたいことがあったんです」 「そうなんだ、実は私もなんだ」  どちらから話すか、沈黙がおりる。スマホは右手に持っていた。いつでも、最後に演奏したあの日の音を再生する準備は整っていた。僕の方から話そうと口を開けたが、先に愛原先輩が話し始めた。 「あの日、嘘つきなんて言ってごめんね。自分が音痴だなんて思ってなくてずっと一人で勝手に気持ちよく歌っていた。両親とか親友にも音大を反対する理由をしっかり訊いてみたら、みんな私が傷つかないように音痴だってことを隠してくれてたんだ。そうだよね、音痴はシンガーソングライターにはなれない。でも、藤野くんが応援するって言ってくれたの、建前だったとしても嬉しかったよ」  すぐに叫んですべてを否定したかった。だが、愛原先輩を傷つけない言葉が見つからない。 「……僕は今も変わらず愛原先輩の歌声が好きです。遠くまで響き渡りそうな透き通った声が好きです。愛原先輩の夢を応援するって言ったのも建前なんかじゃないです」 「ありがとう、最後まで傷つけない言葉を選んでくれるんだね」 「違います! なんで信じてくれないんですか。全部本当のことですよ、愛原先輩。僕は好きな人に嘘がつけるほど器用じゃないです。実は部室で最後に演奏した日、録音してたんです。愛原先輩、本当にいい声で歌ってくれたんですよ。聴いてくださいよ」  愛原先輩は驚いた表情をしたが、返事を聞く前に再生ボタンを押した。優しい前奏が流れる。スゥという息を吸う音が聞こえる。なめらかな歌い出しで、すべての楽器の音と酷い音痴だったとは思えない愛原先輩の透き通った歌声が混ざり合う。きっとこれが愛原先輩が作り上げたかった曲だ。どこまでも優しさで溢れた愛の歌が終盤に差し掛かり、後奏と愛原先輩がアドリブで入れたハミングが流れる。この日のように、あの舞台で演奏できたなら愛原先輩は夢を諦めることはなかったかもしれない。 「なんだ、私、ちゃんと歌えるじゃんか……」  もう出番のない制服の袖で溢れてくる涙を拭っていた。一歩踏み込んでみるが、抱き合ったあの日のような距離にまで近づけない。 「私ね、結局音楽の勉強ができる専門学校に進学するんだ。専門なら実技のテストなんてないから私でも簡単に入学できてさ。そこで作詞作曲の勉強をもっとして、誰かとバンド組んで、私は陰で曲を提供していこうって決めたの」  愛原先輩の語る新しい夢。それは、追い詰められた末に選んだ道なのだろうか。 「でも、これだけ歌えるんだったら、諦めなくてもいいよね」  花が、咲いた。何度も見てきた愛原先輩の花が咲いたような笑顔。諦めないと言ったその言葉に、表情に胸が締めつけられる。 「そうですよ、学園祭のときはきっと初めての舞台で緊張しちゃっただけで。きっと音痴は治せます。だから、これからもシンガーソングライターの夢を僕にも見させてくださいよ」 「ねぇ、藤野くん。私の夢を、私の一番近くで応援していてほしい」  あぁ、これからも愛原先輩のそばにいていいんだ。 「もちろんです」  まだ、桜も咲かない寒い季節に結ばれた恋は夢を追い続ける。
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