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プロローグ
小さな道場だが、床の雑巾がけには、十五分はかかる。
坂下由里が、朝五時に起きてやることがこの雑巾がけだ。物心ついた四才から、一日もこの習慣は、かかしたことがない。
由里が、友達にこのことを話すと、わー、真面目、とか、私には絶対無理、とか言われる。
小学生の時は、その反応が不思議で、律義に、そんなことないよ、慣れたら、誰でも出来るよ、やるようになるよ、と言っていたが、中学生ぐらいから、曖昧な笑いを浮かべるようになった。そして、お爺ちゃんが怖いから、と付け加えるようにした。すると、友達も納得した様に頷いて、由里のお爺ちゃん怖くて大変ね、と同情してくれる。由里は、内心、ペロリと舌を出して、源之助爺ちゃんに謝る。
十五分、休まずに雑巾がけをすると、太腿はパンパンになるし、汗も湧き出る。
それに、今は夏だ。
静寂だった道場が、自分の汗で、汚される。それが何故か誇らしい、また、面白いと思う。
雑巾がけの後は、十分、素振りをする。
素振りも四才からしているが、素振りが面白いと思ったのは、高校生になってからだ。このことを言うと、源之助爺ちゃんには馬鹿にされる。それも当然かな、と今の由里は思う。
素振りが面白いと思った朝のことは今でも覚えてる。
夜更かしした朝だった。
体がだるくて、心も体もゲンナリしてた。
漫然と竹刀を振り下ろした時に、その速度がゆっくりだったからか、寝ぼけていたからか、軌道がはっきり見えた。或いは、はっきり見えたように思えた。
次に竹刀を振り下ろす時に、なんとなく、その軌道を辿ってみようと思った。
出来なかった。
或いは、出来たかどうかも、出来なかったかどうかも、分からなかった。
それが面白かった。不思議だった。
自分の腕を使って、自分の掌で握ってる竹刀の軌道だ。
それも辿れないのか。
なるほど、素振りとはこういうことか思った。
それが高校一年生の初夏で、それから由里は練習試合で、試合で、滅多に負けなくなった。
負けなくなると、試合より、素振りの方が面白く思えた。
変な表現だが、”素振り”に負けるのだ。悔しいじゃないか。
それから由里は、土日など、一時間でも二時間でもひたすら素振りをした。
そうやって、それから半年が過ぎた程に、源之助爺ちゃんが、新しいトレーニングを教えてくれた。
シャドーボクシングならぬシャドー剣道だ。
具体的な相手をイメージして、攻守の攻防をする。
イメージは、源之助爺ちゃんだ。
もちろん師匠がイメージなんだから勝てっこない。五分で一本取られる。本当は、二分もあれば一本を取られるんだろうが、そこはイメージだ。融通を利かせてる。融通を利かせても、五分もやれば全身ぐったりする。源之助爺ちゃんはそれを三本やれと言う。勝負にならない勝負を三度は無理だと、由里は呟く。
由里が、雑巾がけをして、素振りをして、稽古を源之助がつける。
それが毎朝の練習メニューだった。
ところが、源之助は、シャドーボクシングを教えてから、道場に来たり来なかったりになった。由里は、手抜きか、爺、と呟くが、源之助は、お前のイメージより、本物はもっと強いぞ、と言い、由里はぐうの音も出ない。
だが、負けてばかりでは、稽古にならないので、どうしたものかと由里が思っていたら、いい相手を、手ごろなイメージとなりそうな相手を見つけた。
F高校の大澤雪奈だ。
雪奈とは、去年のインターハイのベスト十六で対戦した。雪奈は同学年で、二年生だった。
正直、由里は、自分はベスト四ぐらい行くだろうと思っていた。負けるにしても、三年生にで、同学年の二年生には、雪奈には負けるとは思っていなかった。でも負けた。
戦い方としては、由里は、力任せな面はあるが、そうはいっても、それなりに考えて、試合を進めてる。対する雪奈は、足を使う戦い方で、由里が、文字通り、押していく中で、雪奈が、いなしながらポイントを稼ぐ戦い方だ。タイプが違うので、どちらが強い、弱いというよりかは、その日の体調や審判との相性がある。だから、由里は、負けたこと自体は、致し方ない、というか、そういうこともあるさ、という感じだった。
気になったのは、雪奈が終始、一段、余裕を持っている様に、感じたことだ。雪奈に聞けば、そんなことはない、と答えるだろう。そして、不思議なことに、その答えもまた、筋が通ってるように思えることだ。由里に判定で勝った雪奈は、次の三年生との対戦で、一本負けした。その負け方もひどくあっさりしたものだった。
自分に勝った相手があっさり負けるのを不思議な気分で、由里は見ていた。おいおい、それはないだろう、という感じだ。それが単なる贔屓目だったのか、或いは、由里が感じているように、何か、事情があったのかもしれない。
そんなわけで、雪奈は、由里のシャドーボクシングの対戦相手になった。イメージの雪奈とは、勝ったり負けたりだ。雪奈の剣筋は見切れてると思っている。イメージだからではない。昨年、対戦した時から、そう思っていた。でも負けた。だから不思議なのだ。
でもいい、と由里は呟く。
インターハイは来週だ。
今年は二年だから、という言い訳は通用しない。
勝つべくして勝とう、そして、自分は勝てる、と思う。
もちろん、雪奈にもだ。
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