キマイラたちは麗らかに

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 生物の教科委員としては、事前に用意する物などの連絡事項を、授業の前に、担当教諭のところに聞きに行かなければならない。  ――じゃあ、少し早いけど、ついでに生物実験教室でお昼を食べよう――  そう思い立った加奈子は、お弁当を手に一人で教室を出て行った。  歴史ある私立は、さすがに敷地だけでもかなり広い。通常教科棟や専門教科棟、芸術教科棟に大体育館、中体育館と言った何棟もの校舎があって、入学直後のオリエンテーションでは、校内ツアーなるものの日程が組まれている程だった。    生物実験教室は、通常教科棟にある。実を言うと加奈子がいる一年生の校舎からは少しばかり遠い。そこでお弁当を食べたりするつもりなら、早く行かないと、五時限目には間に合わないかも、という危惧を抱かせるくらいには遠いのだ。  そして今日の五時限目は、生物実験教室を使わないので、本当なら実験教室と隣り合っている、生物教科準備室の方へ行かなければならないのだけれど、加奈子は取り敢えず、生物実験教室でお弁当を食べてしまおうと思った。  ――小・中学校の理科室もそうだったけど、実験教室って、どうしていつも、あんなに酸っぱい臭いが漂っているんだろう――なんて取り止めも無い事を考えながら、加奈子は教室の引き戸を開けた。 「あっ……」  教室内には、誰もいないと思い込んでいたところに、ホルマリン漬けの標本だとか、はく製だとかの妙な様相も相俟って、加奈子は今更ながらに少しだけ驚いてしまう。 「えっ? ああ、B組の教科委員の平木加奈子くんじゃないですか。五時限目の準備には少し早くないですか?」  そう言って、ずり落ちたメガネを人差し指で押し戻しながら、生物の遊佐(ゆさ)先生は言った。 「あの、委員のついでに、ここでお弁当を食べようと思って……」  と、腰の引けた加奈子の掠れ声に、 「わざわざここでお弁当を? う~ん、それにしても声に力がないですね。早くエネルギー源となる食物を摂取した方がいいでしょう」  アルコールランプで熱しているビーカーの中の液体を、攪拌棒でくるくると混ぜながら、いかにも生物の先生らしい事を言う。  加奈子は、イスにそーっと座りながら「何ですか?それ」と訊いてみた。 「平木くん、昆布は海中で出汁が出てしまわないのは、何故だか分かりますか?」  脈絡のない唐突な質問に、加奈子は、お弁当箱を包んでいるナプキンを開ける手が、思わず一時停止してしまった。  生物の遊佐先生は、ちょっと変わっている。  授業中などは生物の素晴らしさを切々と訴え、その度に、黒板の前で感動に打ち震えている。また、聞いたところに寄ると昆虫が大好きで、夏休みなどは、ほぼ昆虫採取に明け暮れているそうだ。それも外務省のHPで渡航注意のお知らせが出ているような国や地域にまで、わざわざ行くらしい。  そして、ほとんどの時間を職員室ではなく、生物教科準備室で過ごす。アルコールランプとビーカーでお湯を沸かし、カップラーメンを作って食べている、などという噂さえあったが、それは、あながち間違ってはいなかったようだ。 「……出汁ですか? 分かりません」と、あまり深くは考えずに答えて、とにかく忙しなく箸を動かす。  加奈子の返事を聞いた遊佐先生は、少しだけ嬉しそうな顔をした。 「実はですね、海中で生えているときは、昆布が生きているからなんです。細胞膜が健全であり……、ですから出汁はですね、動物に例えたら、死骸から抽出した体液を煮詰めたもの、と言うことになる訳です」
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