プロローグ〜甘い香りは恋の食前酒〜

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プロローグ〜甘い香りは恋の食前酒〜

 美食評論家の鷲尾隼一(わしお じゅんいち)はホテルのラウンジで気の乗らない打ち合わせに相槌(あいづち)を打っていた。退屈な話が終わればすぐにでも帰るつもりだ。  隼一はここ数ヶ月の間、匂いのしなくなった自分の鼻にうんざりしていた。そして正面に座っている女性編集者の話を聞き流していると、いつもと違う空気を感じ取った。他でもない、使えなくなったはずの自分の鼻で。 ――匂いがする……?  辺りを見回し、その香りの出どころを探す。 「見つけた……」  隼一はつぶやき、ラウンジに隣接するレストランの一席に目を凝らした。さらりとした栗色の髪に、優しい顔立ちの青年が一人で食事をしている。まるで青いぶどうを思わせる若々しい香り――。こちらからの強い視線に、向こうも隼一の存在に気がついた。青年と視線が絡んだ瞬間隼一は確信した。 ――彼の匂いだ。  ふいに「先生」と声を掛けられ、隼一は視線を打ち合わせ相手の女性に戻した。 「どうかなさいましたか?」 「笹原(ささはら)さん、アグリーダって知ってる?」 「いいえ、存じませんが」 「未熟なぶどうを(しぼ)ったものなんだ」 「あら、それがどうかしたんですか?」 「今そんな匂いがしたような気がしてね」  笹原は鼻をひくつかせて首をかしげた。なるほどベータの彼女にわからないということはこれはオメガのフェロモン香なのか――?  息を吸い込むと、ここ数ヶ月何も感じ取ることのなかった隼一の鼻孔を清々しい香りが抜けて行く。 ――なんとしてもこの香りの持ち主を捕まえなければ。  隼一がもう一度彼に視線を送ると再び目が合った。青年が立ち上がるのを見届けた隼一は「この部分はこれでよろしいですか?」と笹原に尋ねられ彼女に向き直った。 「ああ、構わない」  その少し後で、先程の青年が(かたわ)らにやってきて隼一におずおずと声を掛けた。 「あの」  普段はファンに声を掛けられても相手にしない隼一だが、この香りを無視することができなかった。 「何か?」 「いきなりすみません。僕、鷲尾さんのファンです。よければここでグルメブログを書いているので読んでみて下さい。鷲尾さんみたいな美食コラムニストになりたいんです」  隼一は彼の差し出した名刺を受け取った。裏面にはURLが走り書きされている。 ――早瀬夕希。はやせゆき? それともゆうきか。  隼一は青年が赤面すると同時に香りが少し変化したのを感じ取った。 ――爽やかさに甘さが混じった。この香りをもっと近くでじっくり味わってみたい……。  彼ならばこの退屈な日常を変えてくれるかもしれない。そんな予感がして隼一は微かに笑みを浮かべた。
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