桜の木の下で。

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桜の木の下で。

がちゃり、と玄関の扉を開け、美琴は大きく顔を歪めた。 ぶわり、と埃が舞い、じわりと視界が涙でにじむ。 だが引き返すことは今日はできない。 意を決すると美琴は土足のままマンションの一室にあがった。 きっとあの日からそのままの部屋の中は、とても汚く、けれどある一隅だけはそれだけは守るように綺麗だ。 「にゃぁ」 「……君か。」 全く、面倒なことを頼んでくれる。 美琴はため息をつくと、目の前の黒猫に視線を合わせた。 痩せ細ったその猫は、美琴に対してじっとつぶらな瞳をぶつける。 「まだ、御主人様を待っているの?」 ――猫と住んでるんだ。僕が死んだら、引き取ってね―― いきなり現れたかと思えば、そんなことを言った自分の弟を思い出し、美琴はあの馬鹿、と顔を歪める。 弟はいつも勝手だ。 勝手に消え、勝手に現れ、そしてまた勝手に死んだ。 猫は美琴の言葉に否定を表すように、ふん、と鼻を鳴らす。 どうやら、猫は彼が帰ってこないことを知っているらしい。 「じゃあどうして、こんな場所にいたの?」 玄関にはご丁寧に猫用のドアがついている。 主人がいないのだ。餌はもらえない。 出て行くのが普通だ。 「にゃあ」 「……そう。」 美琴は笑うと、黒猫の頭をそっと撫でた。 滑稽な結末を、どうやったら変えられるだろうか。 弟は小説家だったのに。 彼の書く本は全て、ハッピーエンドで。 誰もが幸せになれるのに。 「その物語、改稿、しようか。」 桜は、まだ咲かない。
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