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やや強めの口調で呼び止めてしまったからか、小さな肩がびっくりしたように上下に動いて後ろを振り返った。愛らしいまんまるの瞳が見開かれ、人形のように小さく薄い唇が息を吸った。
「ママ、なぁに?」
それだけで可愛いと思った。ちょっと前まではふにゃふにゃだった言葉も、だいぶしっかりとしてきた気がする。まだ舌足らずのところはあるが、それもまた可愛い。何をしていても可愛いのだから、反則だ。
「こっちおいで。顔に砂がついてる。きれいにしてからいかないと」
「うん!」
一生懸命、という言葉が似合う走り方だった。柊奈乃の目から見ると、紬希はどちらかというと運動が苦手なように映った。マイペースというか動きがゆっくりで、手足をバタつかせているのにちっとも前に進まない。
肩の辺りまで伸びたストレートの黒髪が爽やかな風になびく。弾けた笑顔は真夏の太陽のようで、抱き着いてきたときの土と汗とせっけんの香りが夏を感じさせた。
ギュッと一度抱き締めると、我が子の顔を胸から離して肩掛けもできるトートバッグから猫のキャラクターが描かれたハンカチを取り出した。
「マリー! ママ、あたらしいマリーいる!」
「うん、そうだよ。新しいの作ったの」
猫の名前はマリーと言った。正式名称はマリーゴールド。恰幅がいい黒猫なのだが、顔の半分ほどある大きな瞳がマリーゴールドの黄色い花の色に似ているために柊奈乃がそう名付けた。ちなみに雄猫である。
紬希はマリーが好きだった。Tシャツやデニム、帽子につける缶バッジ、さらに最近ではご時世柄マスクもマリーグッズで揃えている。柊奈乃からすると自分の娘が喜んでくれるのは素直に嬉しい半面、気恥ずかしい気持ちもあった。まだ交友関係が狭いために、そこまで注目を集めることはないが、たまに見知らぬ人から声を掛けられることもある。
そういうときでも紬希は気後れすることなく、自慢気にマリーの説明を披露する。あるとき、犬の散歩をしていたおばさんに声を掛けられたときには、「マリーちゃんの大ファンなんだね」と言われて、それからことあるごとに「ファン」という言葉を使うようになった。きっと意味を正確には理解していないだろうが、「大好き」という感覚で「ファン」「ファン」と毎日のように使っている。
だから花柄で彩られた新しいマリーのハンカチを目にしたときには、紬希の目は爛々と輝いており、早くそのハンカチで顔を拭いてほしいのか、ぶつかるんじゃないかというくらい近くに顔を寄せた。
「はやくふいて!」
紬希は目を細めて思い切り笑顔を見せた。ただでさえふっくらとした頬がさらにもっちりと膨らんだ。
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