最愛に再愛

1/1
13人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

最愛に再愛

 浅間治姫。僕の本名、本性である。語世血は舞台上で舞うための、赤黒い仮面。妖艶に舞い踊り、語り歩くそれは、人間を天使に変えてしまう。赤黒い顔をした、ピエロのような天使。僕が読者に見せる人間は、人間であっては不気味で悲しい。天使と呼んで愛と命を紡がなければ、登場人物に顔向けできないような作家なのだから。もはや語世血とやらが不気味で妖艶な天使だよ。治姫、隠してしまうには勿体ない名だ。  久しく本名で呼ばれ心臓が跳ねた。数少ない友人や恋人は、語や世血さんと呼ぶ。どちらも執筆活動を始めてからSNSで知り合ったため、本名より馴染みがあるらしい。僕自身もそれで慣れてしまっている。さらに言えば、何処にも勤めていない分、もはや誰にも本名で呼ばれない生活をしていた。 「久しぶり...」 『治姫くんめっちゃ久しぶり!』 「誰から聞いたの?連絡先も、小説も」  電話越しに聞こえる麻弥の声は、肉体関係があった頃と変わっていなかった。 「広人から聞いた。小説に最近ハマってるって言ったら、オススメしたい作家がいるって聞いて、語世血が治姫くんだってことも」  広人とは、宮野のことだ。知り合いに片っ端から僕のペンネームを教えている姿を想像すると眉間に皺が寄った。決して恥ずかしいものを書いてるつもりはないが、どういうふうに宣伝してるかが気になった。  僕の小説はほとんど恋愛ものだが、必ずと言っていいほど官能も含まれている。人によっては苦笑いする者もいるだろう。誇りは決して無くしてやいないが。 「そっか...宮野か...」 『うん、私、広人と付き合ってるし』 「...え?」  あいつ最近は女の話してなかった気がするが、あえて隠してたのか。 『それを聞いたら会ってくれなくなる?』 「いや......いいよ、会お」  正直面倒臭い。どの小説を読んだのかわからないけれど、少なくとも官能を読んだのだ。どこで会うのかも、何を期待されているのかも、なんとなく予想できてしまうから、面倒臭い。  セックス目的で見る女の裸に飽きてしまっているのかもしれない。恋人の裸と別の女は違う興奮があると言うけれど、僕にはもうわからない。思春期の頃の高揚感なんて忘れてしまった。まだ二十代前半という年齢にして、性欲が薄くなっているのか、それともただ興奮するものに出会えていないだけなのか。 『じゃあ、あの頃よく行ってたラブホで』  予想を裏切ってくれよ。  それから一週間後、麻弥と会うことになった。この間、宮野に麻弥のことは話さなかったし、宮野も恋人がいるとは言わなかった。僕と会うことは知らないはずだから。  久しぶりに会った麻弥は垢抜けてお洒落になっていた。髪は綺麗な金髪に染め、両耳にピアスを揺らしている。紅い唇にほんのり染まる頬。お化粧もあの頃より上手くなっていた。所謂、地雷系と呼ばれるファッションで現れた麻弥に、老けた?と会って早々言われた。確かに自分は若白髪も増えた気がする。逆に麻弥は若返ったように見えた。 「作家志望も大変なのね」  ラブホテルに入りベッドに腰掛け、僕の毛先を摘みながら言った。 「作家志望が大変というか、僕の場合はちょっと違うね。この波瀾万丈な人生を活かせるのがたまたま小説だったんだよ。まぁ、他人が読んでもただの官能小説にすぎないかもしれないけどね」  珍しく自虐した。自虐しなければ自分を保てなかったあの頃とはもう違うはずなのに、後遺症かな、病んで病んで仕方なかった過去がフラッシュバックしそうになる。あんな自分が嫌で、自分を愛すと誓ったのだ。 「うん、エロかった」  甘い声色で吐息混じりに耳元で聞こえた。 「......だけ?」 「ちゃんと小説家みたいだった」 「......みたい?」 「なんて言ってほしいのよ」  なんて言ってほしいのだろう。何を認められたいのだろう。 「わからない」  虚しい。 「なんて言っていいのか、わからないけど、治姫くんが書く女の人みたいなこと...されたい」  僕が書く官能は、現実味がない。凄まじいエロティシズムやフェチズムを究極までに追求すれば、現実味のない人間たちが肌を出す。  それはもはや恋人じゃねーよ、と宮野が放った言葉で読者は察しがついていると思うが。 「具体的には?」  彩乃の姿が頭に浮かばないわけではない。だがここまで来てしまった。ここまで来てから思い浮かぶのだ。実は恋人がいて、と断るべきなのはわかっている。けれど、この女は浮気をしよう、恋をした、と言わないのだ。ならば僕も、貴女を描こう、と言えてしまうのだ。そうだ、これはただの芸術だ。 「それは語世血の中にあるでしょ」  女は、片方の臀部を上げた。  この子は僕の弱点を知っているに違いない。 「あるよ」  今ここで、貴女を官能の芸術にしてやる。 「そこで全部脱いで」  僕はソファに座り、コートのポケットから革のカバーがついたメモ帳と万年筆を取り出し机に置き、煙草に火をつけて待った。  スカートから下ろし始め、薄い桃色のシャツのボタンを一つ一つ外し、するりと露出した肩は、残りの隠された肌を待ち遠しくさせた。キャミソールを脱ぐと、これまた桃色の、下着姿になった。両手を背中に回して器用にブラジャーを外し、パンティも躊躇することなく足首まで下ろし、足で下着を横に蹴って放った。豊満なお乳に程よいくびれ、陰毛は剃られ滑らかな性器。後者は宮野の性癖なのだろう。 「煙草は、吸ったことある?」  無言で首だけ横に振った。  身体は大人の女性らしさがあるが、幼い顔が学生のようなあどけなさがある。恥ずかしさが見てとれる目つきや、少し赤くなった頬のせいだろうか。 「これ吸って」  吸いかけの煙草を、全裸の女にやった。  もう一本に火をつけ、煙草を咥えながらメモ帳を開き、書き出した。 『女が、裸でそこにある。自身のみが裸である。妖怪のような天使に、隅々まで凝視されている。奇妙な視線だけで女の泉を魅せるそれは、やはり、女、である。  はて、女とは、人間なのかしら。  こんな不思議で妖艶な生き物が人間と称するならば、天使と名乗った私も、人間と称していいかしら。いや、天使に見られ、天使に魅せられ、芸術に侵されたこの女もまた、性欲と不気味な恐怖を与えかねない絵画にような、妖艶な天使なのではなかろうか。  妖艶な天使は、薄い桃色の乳輪を隠すことなく、右手の指に初々しく煙草を挟み、左手はいやらしく泉に伸びている。  咽せた。肺に入りきらず、紅い唇が煙で覆われる。味を知った。愛液が指に絡む音を奏でながら、何度も、何度も吸っては咽せて、咽せては逝って、羞恥を感じながら逝っている。  妖怪と妖艶の天使は、醜いアダムとイブと化した。ならば私は、骨が欠けたアダムだろうか。私達の間に蛇を寄越してくれたまえ、神様』 「タイトルは、『煙草とロマンス』」  万年筆を置き、目の前で書き上げた小説を麻弥に投げた。床に落ちたメモ帳を拾い上げて、瞬きも忘れて凝視している。その光景を見ながら、煙草に火をつけた。 「天才...」  と溢した。  脳が震えるほどのアドレナリンを感じた。この短い小説を、何度も何度も読み直している。急にはっと我に帰り、ベッドまで早歩きで駆け寄り布団で身体を隠した。 「蛇でも見たか?」  麻弥の反応に満足した表情を見せて、聖書の蛇を想像させた。 「あなたはどうして天使なの?私には人間にしか見えない」  真剣な眼差しで僕の目を突く。 「本気で言ってる?」 「もちろん」  人と目を合わすのは苦手だ。すぐに逸らしてしまう。こんなに見つめられれば尚更。  他人の目は怖い。視線を合わせることによって、自分の心の裡を覗かれているような気がして恐ろしい。こうして自分の指先や、行方の知らない煙を見つめているほうが落ち着く。 「気持ち悪い作家が生まれたって、一部じゃ燃えてるよ」 「そんなの気にしてるの?」 「気にしてないよ、麻弥が変なこと言うから教えただけ」  気にしていないのは本音だ。くだらない誹謗中傷など、視野の狭い可哀想な人間の戯言にすぎない、と思えば痛くも痒くもない。むしろ、気持ち悪いは褒め言葉だね。ありがとうと返したいよ。 「そもそも気持ち悪いってなに?官能だから?性欲を書いてるから?小説家なんてどこか狂ってないと書けないでしょ。どうせみんな自分の性癖混ぜて書いてるんじゃないの、素人だからわからないけど。少なくとも私は一読として、語世血の言葉に惚れてるわ」  また小説を読み直しはじめた。返す言葉が思い浮かばず、麻弥の言葉をただ飲み込んだ。  何故僕が天使かって、教えてあげるよ。自分が怖いんだ。自分の感性、生き方、見えてる世界が怖くて怖くて仕方ないんだよ。だから、まともな人間のふりなんて続けていては身が持たない。赤黒い天使の仮面の裏側では、悪魔が本性として潜んでいる気がするんだ。けれど、自らを悪魔と言ってしまっては、それこそ僕が僕で居られなくなってしまう。呪われたように、この口は自分を悪魔と言えない。天使でいたい。そう唱えている限りは、僕は天使として生きていられる。  思い返すように自分を深掘りしていると、涙が溢れそうになった。 「おやすみ」  裸のまま、麻弥は広いベッドで眠った。  さっきまでの記憶を消す思いで深呼吸してから立ち上がり、服を脱いでバスルームへ向かった。シャワーを浴びて気分転換したい。  洗面所の大きな鏡の中に立っている君に、見惚れて立ち止まった。潤んだ瞳で悲しげに立っている裸の君は、美しい僕だった。脂肪も筋肉もない細身の、肌が白い僕だった。さっきまで見ていた女体よりも、魅力的で綺麗だと思った。物心ついた頃から毎日見ているはずの自分の裸、何故目が離せないのだろう。  ああ、僕は今生きているんだ。当たり前だと思いたいけれど、こうして己の尊さに見惚れられる自分は、幸せ者だ。そしてまた、当たり前のように勃起しているペニスに違和感を覚えないことも、自己愛に包まれているようで、幸せ者だ。  彩乃に帰りたい。あの膝へ、あの顔へ、声へ、今の居場所へ、帰りたい。  翌朝、急ぎ足で彩乃の住むアパートへ向かった。昨日のホテル代は麻弥が済ませてくれた。ろくに髪も整えず、髭も剃らず、皺のついた服を着て、適当に別れ際の挨拶を済ませて早歩きで駅まで移動した。電車に揺られている時間も彩乃の部屋ばかり思い出していた。  いつ行っても綺麗に整頓された部屋。床に髪の毛一つさえ落ちていない。大きな四人がけのソファにダブルベッド。白で統一されたシンプルな、物が少ない空間。だが彼女の存在で居心地は悪くなかった。たとえテレビの音すら無くとも。  駅に降りればもう近い。寄り道はせずに不恰好のまま、合鍵で玄関を開けた。 「世血さん?」  洗濯物を畳んでいるところ、驚いた顔でこちらに振り向いた。雑に靴を脱いで彩乃に一直線に歩き、膝に頭を乗せた。 「髪もぼさぼさ、お髭も。どうしたの?急に来て」  しばらく何も話さなかった。ただ彩乃の膝枕に甘えたかった。この優しい匂い、ここが居場所だと教えてくれる。自分の家より落ち着く。誰かの膝枕に甘える、つい子供の頃を思い出してしまう。  よく母親の膝に跨っては笑顔で喋っていたものだ。今日は何があった、こんなことを感じた、お友達とこんな遊びをした、全部聞き逃さずちゃんと頷いてくれる母親との会話が大好きで、未だに子供の頃を思い返す時がある。幼い身体だからこそ、素直に甘えられたのかもしれない。今では母親に甘えるのは少し足が止まる。無様に成長した僕を、まだ母親は、あの頃みたいに可愛がってくれるだろうか。 「母さん...」  瞼の裏で笑っている母親に、声が漏れてしまった。 「私はお母さんじゃな...い」  気づけば涙が彩乃の膝を濡らしていた。目は閉じたまま、目尻から溢れて止められない。口籠った彩乃は、それ以上何も言わず髪を撫で続けてくれた。  何をしているのだろう。幼い頃の夢はなんだっただろうか。未来の自分はどう思い描いていたのか、それは思い出せない。読書なんて大嫌いだったあの頃は、無邪気に外を駆け回り、汗なんか気にしないで汚して帰ったものだ。今日の夕食は何かな、と予想しながら走って帰ってた。今じゃ胃袋が満たされれば何でもいいと、適当に済ませて煙草を吸うだけ。煙草なんて自分が吸うはずがないと、邪険にしていたのは覚えている。ごめんな、もう輝いていた人生は燻んでいるかもしれない。煙が落ち着かせる、大人になりけれない大人になってしまったようだよ。でもこれだけは聞いてほしい、幼い僕よ。僕は自分を愛しているよ。心の底から、誇りを持って、愛せているよ。 「これを読んで、何を感じる?最愛の読者さん」  ポケットから革のメモ帳を取り出し、『煙草とロマンス』を見せた。  呼吸音だけがしばらく耳障りなほど聞こえた。 「世血さんらしい、ロマンチックな官能。でも、この女の人が背景に感じるわ。これは主人公が同情を買ってくれと読者に投げかけているようね。それを神に祈るなんて、世血さんらしくないとも感じる」  僕は、凄まじい官能を書いてやると、いつの日か宮野に言ったんだ。そんな大口を叩いた自分が、同情を買ってくれと投げかける小説を書いているらしい。 「最愛の読者失格だな、舐めるな」  メモ帳を奪い返し、彩乃と目も合わせずに家を出た。逃げるように。  僕は、逃げているのか。図星を突かれて、無様に逃げたのか。最愛の読者と自ら名を付けた相手に、図星を突かれて、失格だと吐き捨て、逃げてしまったのか。読者失格?作家失格だ。こんな恥ずかしい背中じゃ、あの文豪様にも顔向けできない。  本当に、何をしているのだろう。  まだ昼間の時間に、恋人から逃げ出し、自分の存在など消してしまいたい恥ずかしさで、嗚咽しながら涙目になり、煙草を咥えて感情を誤魔化そうとしている。自らの右手を左手で殴りつけ、地面に膝をついて、無様に自虐している。横を通り過ぎる他人たちは、こんな僕を横目に鼻で笑っている。  語世血などとキザな名前をこの右手に宿したのだ。書くしかないだろ。これが僕の全てだと言える、凄まじい官能小説を。僕にしか書けない、気持ち悪い小説を。 「書いてやる...今のうちに鼻で笑ってろよ...いつかお前ら、僕の小説を片手に逝ってるよ」
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!