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首を長くして、待ちに待った文化祭当日。体育祭同様にどよめき、笑い声の溢れる学校内。校舎が今日だけ、まるで息をし笑っているかのようだった。みんなの楽しいが、ひしひしと体に沁みてくる。文化祭が終われば、もう後に待っているのはテストだけ。だからなのか、みんな今日という日を羽目外して全力で楽しんでいた。
当日準備中、キャキャと話しながらみんなは作業していた。オレはその熱気に飲まれないように、遠目でみんなのことを観察していた。楽しいことは好きだが、あんまりみんなといると疲れるので。体力温存は大切である。断じてサボっている訳じゃない。みんながやってくれているので、やる必要ないかなーって思ってるだけだ。実際、あの人数で事は円滑に進んでいる。
「あ、京華ちゃん!」
ぽけーっと観察していたら、後方から底抜けに明るい声が名前を呼んできたので、ぐるりと振り返る。そこには常にクラスの輪の中心にいるべき人物がいた。相変わらず彼は格好いい。今日は尚更。それはただ気分の問題だろう。オレも学生なので文化祭当日でテンションはそれなりに上げ上げである。にしても、コイツもオレと同様にサボりなのだろうか? いや、彼はそんな不純なこと考えやしない。病み上がりだから休め、とでもみんなに言われているのだろう。
「京華ちゃんのシフトって、午後だよね?」
「あぁ、そうだけど笹川は?」
「オレも午後。だから、午前は一緒に回ろうよ」
「そうだな」
パッと花が咲いたが如く笑う笹川。病み上がりでも変わらぬ笑顔。可愛いな、とか思ってしまう。いつも顔がこんななので、可愛い可愛い言われる機会があるが、その言葉はこの笑顔に向けるべきなのでは?とすら思う。誰がどう見ても可愛いって言うだろう。満場一致だ。異論は認めない。
「おいおい、そこの二人! サボってんじゃねーよ!」
オレと笹川の二人の時間を邪魔するように轟く怒声が、またもや後ろから飛んでくる。楽しい楽しい当日準備中だっつーのに怖い怖い。大声はお控え下さーい。
「わ、雪花」
「“わ”じゃねえんだよ、笹川。オメーはいいとしてよぉ、稲取、お前は病み上がりでもなんでもねぇだろ、何してんだ」
「悪い悪い、サボってたわ」
「堂々と言うじゃん、働け」
「ごめんね〜。オレも謝るから許してあげて〜」
「だめだ、許せねぇ。稲取、サボるな」
般若の顔した雪花と、そんなことを面白半分で言い合う。笹川は怒る雪花の前で、心底楽しいといった表情で笑った。それを見て雪花が更にキレる。そんなことしてたら「そこの男子ぃ! 遊んでないで働けぇ!!」と女子からそれこそ般若のような声が飛び出して来たので、オレらは大人しく働かざるを得なくなった。女子に言われたら反抗できないや。
「雪花がうるさくしたせいだな」
「サボってた奴が言うな」
やはり、みんなといるのは疲れるのだがそれとおんなじくらいに楽しいものなんだなぁ、と準備を通して再実感した。
*
「京華ちゃん、唐揚げ食べに行こう」
「ねぇねぇ、3組の屋台気になんない? 行こうよ!」
「京華ちゃんは行きたいとことかある? え、じゃあさここ行こうよ」
「京華ちゃんお腹空いてる? そっか、ならチョコバナナ食べに行こ〜よ!」
「大丈夫、歩くの疲れてない?」
気遣い百万点、元気五百万点、ツラの良さはもはや測定不可能。そんな感じで、オレらは着々と屋台を回っていた。笹川さんは全てに興味津々らしく、行きたい場所が絶えない。オレは基本、笹川が行きたいところに行きたいので、連れ回されてもなんら不満はない。むしろたくさん笑顔が見れて嬉しい限りだ。お化け屋敷に行きたいと満面の笑みで言った時は流石に参ったが、笹川が楽しいならプラマイゼロどころかプラスだ。
「歩くのは疲れてない……、けど、お手洗い行ってい?」
「うん、全然いいよ。荷物持ってようか?」
「あぁ、助かる」
お言葉に甘えて、荷物を持ってもらう。荷物といってもまだ食べかけのチョコバナナである。このチョコバナナは、甘いのが苦手なオレでも食べやすい糖度だ。甘党の笹川さんは物足りなさそうな顔をしていたが「美味しい」とニコニコ笑って言っていた。
「オレ、そこらへんで待ってるから」
「あぁ、うん」
そう言って振り返った時、彼はいつもと変わらぬ笑みでこちらを見ていた。その笑みがただ、オレだけに向けられているというその事実が、オレをこの世界の誰よりも幸せにする。彼の傍に居られれば、この世の誰よりも幸せだって、声を張って言える。
*
お手洗いから出た時、まず耳に入って来たのは女の子の鈴を転がすような美しい笑い声と、笹川の笑い声だった。
え、待って、どういう状況?
一瞬で脳内が混乱を極める。この声は誰のだ? 笹川と笑い合っているこの声は誰の声なのだ? 杞憂なのだといいのだが、笹川と可愛い女の子が笑い合っている、そう思うと……。胸が張り裂けるような、そんな思いに襲われた。
「あ、京華ちゃん」
杞憂、じゃなかった。笹川の隣にいるのは、美しいポニーテールの女の子。しなやかで美しい指と、長く整えられた爪。ほんのり赤いほっぺたと、対になるように白い肌、茶色みを帯びた艶やかな髪。スラッとした体躯で足が長く、まるでモデルさんかのような美しさを持っている。思わず見惚れただろうーーーこんな状況じゃなかったら。
「次、ここ行こうよ! 時間的にここが最後かもしれない。京華ちゃん……ーーー」
嬉々として先ほどと変わらず話してくれる笹川だが、生憎、話が入ってこない。気づかれないよう気をつけながら、隣の女の子を静かに盗み見する。女の子は、ただ笹川の横顔をジッと見つめていた。そして時より、周りを見回すような仕草を見せる。ただそれだけ。こちらはあちらが気になってしたがないのに、あちらは全くこちらを気に留めてはいない。
『こちらの方、どなた?』とか『どんな関係なの?』とか『後輩?』とか聞きたいことはたくさんあった。聞きたいことが何度も頭に浮かんできては、消えていく。聞きたいことはあるのに、上手く声が出ない。
ふいに、女の子が、ぱっちりとした瞳でこちらを見た。オレの視線と彼女の視線がバチリと合ってしまう。やば、と思って逸そうと思えば、彼女はくすり、と瞳を細めて微笑んだ。彼女の細められた目から美しい潤んだ瞳が零れ落ちるかのような錯覚に陥る。全て、知っているかのような、お見通し、とでも言いたげな視線を彼女は放っていた。オレのこの醜い感情も、笹川に向けられたこの淡い色した感情も、全てあの美しい瞳に見通されているようだった。
もう今すぐにでも、全て、声に出して叫びたかった。どういう関係なのかと、彼女に一目散に問いたかった。
でも、波立つ感情を前にして、オレは気付くーーーーー
「京華ちゃん? 大丈夫??」
ーーーーー笹川が彼女のことを『恋人』だとか『後輩』だとかオレの質問にどう答えようと、オレはなにも言える立場じゃないのだった。
オレが言えるのは、『そうなんだ』とかそんな当たり障りのない相槌だけ。それを知ったって何もできやしない。だって、オレはただ彼の幼馴染なのだから。恋人でも、後輩でも、先輩でも、なんでもない。恋人と答えられて、今すぐ別れたらどう? だなんて言えやしない。ただの幼馴染に何の権限がある。
こちらの方どなた? と言う前に、自問しようじゃないか。オレこそ彼の何なんだ。
オレは彼の恋愛対象にすら入っていない可能性があるただの幼馴染だ。
*
京華ちゃん、と。心配した声色でそう言われて、オレの意識は一気に目の前の景色に戻された。
再度また目が合うなり、ニコッと感じの良さそうな会釈をする女の子。こちらも気まずくなりながら会釈をしておいたが、本当は「どなたですか?」と一目散にでも聞きたかった。でも、第一声が出ないし、恋人ですって答えられたらもう何も言い返せない。
「大丈夫? ぼーっとしてるけど。どうしたの、お腹痛い?」
「いや……。全然、ダイジョーブ」
「じゃない顔してるから」
「…………」
彼が幸せならいいから、とか今はもう言えない。ぐちゃぐちゃな感情を、口からこぼしてしまわないように、反射で口を押さえた。笹川を見ているようで、まだ脳裏にはあの美しい女の子のあの眼が映されていた。全てを見透かしたような、それでもって余裕を漂わせているあの眼が映されていた。
「え、吐きそう? 大丈夫??」
「ごめん、大丈夫、ほんと大丈夫だから、ちょっと待って、飲み物買ってきていい?」
吐き捨てるようにそう言って、小走りで方向なんか気にせずに人盛りへと走り出した。後ろから笹川の困惑する声が聞こえたが、気になって振り返れば、きっと全ての感情をこの白日の元に晒してしまうから、振り返らないで走った。ひたすらに走った。
「え、ちょ、飲み物って……、えぇ??」
笹川にしては珍しい情けない声がオレの後を追う。彼は今どんな表情をしているのだろうか。守れないのに、こんな、迷惑すらかけて、ごめん。こんなにも汚くて、ごめん。この手で触ってしまえば、オレは君を汚してしまう気がした。
*
だいぶ離れて、頭も冷えてきた頃。一気に後悔がオレの身を追いかけてきた。飲み物を買う、と言って抜けたがどうしよう。このままじゃ手ぶらで笹川の元へ帰れない。なんっつーこと言ってきちゃったんだろうか。きっと、彼も困惑しているに違いない。謝りに行こう、そうだ、早い方がいい。早く、早く行かないと。彼を困らせてしまう。このままぐずぐずしていたら彼の行きたい場所に行けなくなってしまう。もう残された時間は少ない。
なんて、そんなこと頭ではわかってるはずなのに。どうして、何故。歩けないの?
蠢く人の波をただ漠然と、離れた場所から眺める。足は何度指示しても歩こうとはしない。あそこに飲まれてしまえば、オレもここじゃないどこかに行けるのだろうか。とか、考えた。
あの人も、あの子も、知らない人。赤の他人。あの人が誰と付き合おうが、あの子が誰と別れようが、あの子がどう生きようが、オレは何一つ口を出す権利なんかない。白川だって、雪花だって、水成だって、オレは彼女らがどう生きようと何も言えない。勿論、口出すことはできるが、彼女の人生がこうだとか、彼はあの子と付き合うべきだとか、強制する権利などない。笹川だってそうだ。彼が誰と付き合おうが、彼がこの子がいい!と食い下がったらオレは何も言えなくなる。オレは何もできなくなる。それじゃあ、お幸せにね。としか言えない。強制する権利などないのだ。彼の選択を頭ごなしに否定することは出来ない。もうそよ時点で手遅れなのだ。彼の幸せを思うなら。結局はそこなのだ。
早め早めに手を打っていれば良かった。と、後々になって考える。白川の伝えようとしたことは確かに正しかった。いつの間にか、と言っても昔から笹川が誰かと付き合っているという噂は後を絶えなかった。みんな、美男と美女が話していれば噂を立てたくなるものだ。笹川とあの子が付き合ってるだの、笹川とあの先輩は両思いだの。いつの間にか、じゃない。いつの間にかというには、そういう前兆が多過ぎた。何の確信もないのに、笹川にはその気がないと、勝手に安堵して来た報いだ。
「京華ちゃん〜っ、びっくりしちゃったじゃんかぁ。どうしたの、ほんとに」
ぐっと、息を呑む。後ろを振り返れば、そこにいたのは慌てた笹川とあのすらりとした女の子だった。何故あの子までいるのだろうか。そんなに笹川にとってあの子は大事なのかな? 駆けてきたところを、いち傍観者としてなんにも感情を抱かずに見ていると、とってもぴったりだ。誰もが羨む美男美女って感じで。
一息ついてから、オレは
「ごめん、悪い。ちょっと、気持ち悪くて」
とか言ってさらっと嘘をついた。笹川はその言葉に「やっぱり大丈夫じゃなかったじゃん!」と本気で心配した様子で言ってくれた。顔を思いっきり顰めて、ちゃんと頼ってくれと言う言葉を浮かべていた。
「もう大丈夫? まだ休む??」
「大丈夫、楽になったから。ちなみに、」
言おうと思った言葉を呑もうとして、だけど、もう呑むことも出来ずに意を決して声を発する。
ねぇ、ちなみに、この方どなた?
案外、声はハキハキと出た。本当は意なんて決しきれてないのだけれど、時間が足りないってなって、笹川の行きたい場所に行かなくなっちゃうのは嫌だから。オレの気持ちと、彼の気持ちを天秤にかければ簡単だ。簡単に意を決せられる。結局は彼の幸せ。
この方、と手で示せば、女の子は驚いたかのように目を見開いたから、長い睫毛を伏せた。
「あ〜………、こちらの方はねーーー」
何故か言い淀む笹川と、妖艶な笑みを浮かべて隣に立っている美人さん。
「うちは、烈火くんの恋人です」
美しい声が、言い淀む笹川の言葉をスパンと遮った。躊躇うことなどせず、さらりと彼女が言ってのけた言葉に、オレはもはや返す言葉も浮かばなかった。コイビト、その四文字で笹川と彼女の関係は完全に把握できる。今まで、彼女がいるだなんて本人の口から聞いたことなかったのに。そりゃ、笹川も男子高校生だもんな。
「そっか……、そっか」
「いたんだな、恋人」悲しんでるのがバレないようにして、適当に曖昧に笑ってそう言おうとしたところで、今度は笹川が言葉を遮る。
「ふざけないでよ」
思わず顔を上げれば、そこには呆れた目で女の子を見る笹川がいた。その目、知っている。愛する誰かを見つめる、気の許した人だけに見せる、その目。やっぱり、彼女は笹川の特別なのだな。オレが長年培ってきた特別を彼女はいとも容易く手に入れていく。
気を許した相手にだけ見せる、その視線の先には、無邪気に笑う笹川の恋人がいた。
*
「嘘で〜す」
私は烈火くんの恋人なんかじゃないです。妹ちゃんで〜す、と。
「……い、もうと? え。待って。すい、せい?」
「気付いてくれないだなんてひどいよ、京くん!」
えぇ、うそぉ、ごめん。そうすぐにでも言おうと思ったが、また言葉がうまく出ない。驚きで息が詰まる。笹川の“恋人”はさらに衝撃の事実も、さらりと言ってのけた。
目の前の美女は、水成だった。いや、語弊だ。水成はいつも美女だ。それは世界の常識だったな。そう水成は美人さんだが、この方が水成とは思えない。だって、あの目にかかってた長い前髪は何処へいったのだ。あの分厚いメガネも、あの愛くるしい妹ちゃんオーラも、一体どこへ? 目の前にいるのは、美しい大人の雰囲気を纏った女性だ。水成とはかけ離れている。水成は可愛い可愛い妹ちゃん。この目の前にいるのは、可愛いよりも美しいが似合う女性だった。
「今日のコーデはね、年上男子狙いコーデだよ〜!」
「へぇ……、そ、そうなのか。綺麗だな」
「でしょ、でしょお!」
今は年上の彼氏を狙ってるんだ〜、と笑う水成。狙ってる、とは、つまり。あぁ、水成ももうそういうことに興味を示す年齢となったのか。いつの間にか、時は過ぎているものなんだな。
「お兄ちゃんは友達も多いらしいし、その中の誰かと付き合えないかな〜ぁ、と」
「………水成、お洒落するのはいいんだけど」
何か言いたげな笹川だったが、言うべき言葉が見つからなかったのか口を噤んだ。妹も彼に似て、何かに夢中になったら他人の声など入ってこないのだろうか。
「ごめんね、京くん。驚かせちゃって」
彼女は眉を下げてそう言った。うん、言う通り。確かに驚いた。驚いたが、同時にーーー安堵した。良かった、と思ってしまった。笹川の恋人じゃなくてよかった、と。まだ整理のいかない感情を前にし顔が曇ってしまう。
「あ!」
「ん? どうしたの?」
「お兄ちゃんたち、時間は大丈夫そう?」
「へ?」
「お兄ちゃん、レモネードのお店行きたいんでしょ?」
「あぁ、そう。ギリギリ行けるかなって感じだね」
「じゃあ早く行きなよぉ!」
「水成も行く? いいよね、京華ちゃん?」
「ん……? うん」
「うちは、レモネードもう飲みに行ったから、ひとりでぶらぶらするよ〜。ふたりでいってらっしゃ〜い」
「わかった、困ったことあったらすぐ連絡してね」
「りょーかい、言われなくともするよ」
そう言って、水成は猫のようにマイペースに人の波に消えていった。猫というよりかは、嵐か? 急に現れては消えていってしまった。笹川は呆れたようにその背中を見つめている。だが、もう見えなくなったとこでくるりと視線をこちらに向けた。その視線が少し肌に刺さって痛い。
「驚いたでしょ、水成のアレ」
「あ、あぁ。ちょっと」
「ちょっと? ちょっとじゃないでしょ〜?」
「うん、めちゃくちゃ驚いた。女の子ってすげぇな」
「ははっ、京華ちゃんの女装姿には劣るけどね」
そう言ってこちらを見つめる笹川。そんなことほいほい言うから期待してしまう。もうオレはすでに笹川の“特別”なんじゃないかって。無自覚ってだけで、笹川もオレのことをおんなじように見ているんじゃないかって。なんにも確証がないのに、なぜかそう考えてしまう。
実際、オレは彼の幼馴染というだけでそのほかの何でもないのに。
「京華ちゃ〜ん、元気なさげだけどさ、本当に大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だけどーーー」
一体、君にとって、オレはなんなのだろうか。ただの幼馴染なのだろうか。恋愛対象としてオレは彼に微塵も意識されていないのだろうか? 無自覚でも、自覚済みでも、なんにも?
「……ちょっと、色々考え事してて」
*
「京華ちゃんはさぁ、モテそうだよね」
「………え」
レモネードの屋台に並んでいると、なんの前触れもなく彼はそう言った。一瞬、何を言ってるのか全く理解ができなくて、理解に時間を要した。まあ、コイツはいつも急だからな。
「笹川がそれ言う?」
少し呆れの含んだ口調でそう言うと、笹川は「え? どういう?」と言って首を傾げた。
「オメーの方がモテるってことよ」
「なるほど。けど、オレ、京華ちゃんの方がモテると思うけど」
「どこがよ」
「水成が“会うたびにイケメン度増すんだよね”って言ってたから」
「それは、水成の見間違いだ」
「いやいや、オレも実際そう思うよ」
「京華ちゃんってイケメンじゃん?」そう言って、さらっと頬に触れる笹川さん。予期せぬ不意打ちに、オレは思わずその手を振り払ってしまった。その行為に、驚きと寂しさを映して揺らめく笹川の瞳。ズキリとその瞳を見て、胸が痛みを訴えて来た。
「あ、ごめん、急に触られて、嫌だったよね」
「嫌じゃねぇ、待って、違う」
オレには、後先も考えず行動してしまう癖があるらしい。笹川の瞳は見られずに、床の一点を見つめて言葉を落とす。
「ただ、なんか、そういう思いがねぇ奴に、不用意にそういうのやんなよ」
好意を抱く可能性もないかもしれない相手に、そういうのをやったら、相手も笹川自身もただ辛くなるだけだから。
「………ら…いよ」
「ん?」
静かに何かを呟いた笹川。その声は小声すぎて、オレの耳まで届いてこなかった。届かなかったその言葉の意味を知ろうと尋ねる前に、笹川が先に新たな話題を持ち込む。まるで、聞かれたくないと言うように。
「京華ちゃん、ほんとにいいの?」
「……え、何が?」
「今日、ずっと連れ回しちゃって」
笹川はそう目を伏せ気味にして言った。あぁ、なんだそういうことか。そんなしょうもないことを今更気になっていたのか。遅いよ、笹川。それ心配するタイミング無限にあっただろ。
「大丈夫、気にすることない。オレは笹川の行きたい場所に行きたいだけだから」
思うことそのまんま言っただけだったが、言ってからすぐに気がついた。なんだ、これは、告白みたいではないか。今、ここで、好きです!と大声で叫ぶよりも恥ずかしいことをいってしまったのではないか? 恥ずかしながらに反省するが、お相手は鈍感と名高い笹川さんだ。特に何かなるっていうことはないだろう。何年片想いしてると思ってんだ。こんな言葉一言で何かなったらこの恋、きっともう付き合うところまで発展していた、と思って顔を上げる。思わず息を呑んだ。
「え、待って、それ……どういう?」
好きな子に、真っ赤な顔でそう言われてしまっては、答えようにも答えられないじゃないか。違う、そういう意味じゃない、だなんて嘘言えるわけがなかった。
*
目の前には頬を朱色に染めて目を大きくする幼馴染の姿。
「あ、いや、特に何の意味もないよね! ごめん、ちょっと驚いちゃった」
そう言って、大きな手で自身の顔を覆い隠す笹川。そんな彼の顔は愚か、耳の先までしっかり朱色に染まっていた。そんなの見せられてしまっては、自分の顔も自然と熱くなっていく。周りの女子から少々視線も感じるが、外野に聞こえないように小さな声で思わず言葉を洩らす。
「あの、さ」
「ん、どしたの? 京華ちゃん」
「笹川にとって、オレってなんなのさ」
今日、ずっと水成を彼女と勘違いした時から思っていたこと。笹川にとって、オレってなんなのさ。ただの幼馴染? だったら、何故、こんな顔をしているんだよ。幼馴染に、そんな顔見せる?
「え、オレにとっての京華ちゃん?」
笹川は、先ほどまでの真っ赤でテンパってた雰囲気を一新させ、急にムッとした顔で黙ってしまった。ちくしょう、テンパリ笹川(SSR)、もうちょっと見ていたかったな。言うんじゃなかった、と少し後悔の味を噛み締める。
「…………」
それよりも、この質問そんなに難しい顔して悩むものなのでしょうか、笹川さん。そんなこれ難しい問題ですか。困惑しながらも、彼の言葉の続きを待つ。
「オレにとっての京華ちゃんは、京華ちゃんだよ」
「はぁ……?」
「なんだろうな。心の奥、自分でもよくわからないところに、京華ちゃんはいるな。いつも自分でもよくわからない感情で京華ちゃんに接してるかも」
「………えぇ? 笹川、それってさーーー」
心の奥、自分でもよくわからないところ。いったいそこがどこなのか。世間一般的に“好き”と言われる場所なのか。笹川自身にしかそれは確かめようのないところ。その感情こそが恋というものなんじゃない?と言ってしまえば、笹川は都合よく勘違いしてくれるんじゃないのだらうか。今、オレが彼に「好きだ」と言えば、そのあやふやな感情は“好き”とラベリングされて笹川の心の中に刻みつけられてしまうんじゃないのか。
それって、恋なんじゃない?
言おうとしていた言葉を、静かに微笑みの下に隠した。それは、なんだか洗脳のようで、それは、なんだか自分の身勝手なような気がした。恋って自分で自覚してこそのものだと、オレは思うから、だから、これは言っちゃだめ。
「京華ちゃん?」
「いや、なんでもない。………笹川、ひとつお願いしてい?」
「いいよ、なぁに?」
笹川はいつもと変わらぬ明るい笑顔を端麗な顔に宿して、こちらを見た。オレが惚れたあの笑顔を宿して、こちらを見ていた。
「その、自分でもよくわかないっつー感情。もしもさ、わかった時ーーーオレに教えてよ。笹川がオレに対してどういう感情を持っているのか」
「ん? 別にいいけど」
別にいいけど、なんで? という台詞を顔に貼って、笹川は了承してくれた。こんなところも『特別』なんじゃないかと感違うしてしまうところだ。ありがとう。しっかり礼を述べると「ちゃんとお礼言えて偉いねぇ」といつもの調子で彼は茶化してきた。許さねぇ。
軽く蹴りを入れてやろうかと思ったその時、ピッタリと前の人たちの支払いが終わり、オレたちの番になった。笹川の嬉しそうな横顔に見惚れ、湧き出ていた黒い感情も浄化する。運が良かったな、この男。レモネードを受け取り、それを嬉しそうに見つめる笹川。この世の幸せを詰め込んだみたいな顔をしている。きっと、この景色を見ているオレも、おんなじように幸せを詰め込んだみたいな顔しているのだろう。
「京華ちゃん、やっばいよ、これ。甘酸っぱ〜」
笑顔でそういう彼に、そりゃレモネードだからな、と、この気持ちを悟られないようにそっけなく返す。笹川はその何の変哲もない返答に楽しそうに笑った。
ーーーどうか、ゆっくりでもいいから、いつか。君がその感情に気付き、それを恋だと言ってくれますように。もちろん、オレだって君に好きになってもらえるようありとあらゆる努力をこなそう。外堀を埋めるのはもはや得意分野と化した。笹川の抱くうやむやな感情に対して、うやむやなまんまそれをオレがラベリングするかのように「それは恋というんだよ」と言うのは嫌だった。
それまで、君が「好き」を理解してくれる時まで、オレはずっと君を好きで待っているだろう。恋ってそういうものでしょう? たとえ、その待っている間に、君が誰かを好きになったとしても、オレは待ち続けるよ。惚れたら負けってまさしくこういうことだ。オレは一抹の幸せとレモネードの甘酸っぱさを噛み締める。
「笹川」
「ん?」
好きだよ、と言う代わりにオレは静かに笑って、やっぱりオメーの方がイケメンだよ、と思っていた言葉を再度口にした。
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