第10話 *

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第10話 *

 翌朝、霊の残した文字の件について、国王様に降霊会の結果を伝えることになっていたが、ロスーン国王の不安を煽るだろうとエルベルトに言われ、引き続き調査中という報告にとどめた。  エルベルトの判断は正しいと思った。ユーリ自身だって、霊が血のような赤い文字で言葉を残したなんて言われたら大騒ぎすると思う。 (僕は、この先、どうしたらいいんだろう)  降霊術課の部屋で、書き物をしていても、ずっと上の空だった。せっかく、エルベルトが帰ってきてくれて、これでもう心配なことはなくなったと思っていたのに、あの日以来、ずっとテオのことばかり考えている。  降霊術師で国を守る使命を背負っているのに、重大な事実を隠すなんて間違った選択をしていることは分かっていた。  多分、自分は、本当にテオが隣国と通じている国家に仇なす人間だったなら、殴ってでも正しい道に引き戻したいのだ。  それが、兄弟子としての務めだから。  ――けど、まだ、そうと決まったわけじゃない。  とにかくテオと話をしようと決意した。  宵の口。ユーリは、先日から体調が悪いテオのお見舞いを口実にして、ランタンを片手に近衛兵たちが住む宿舎を訪ねて行った。はずみをつけて、宿舎の前まで来たものの、赤煉瓦造りの建物を見上げたまま立ち止まっていた。扉の前で、どうしようか迷っていると、突然宿舎の扉が外に向かって開き、兵服を着た青年が出てきた。 「おっ、噂の凄腕魔法使い君じゃん」 「え、いえ、魔法は使えないんですけど」  ユーリは、大きなその体に見下ろされて言い澱む。テオも背が高い方だが、兵服の男はそれをゆうに超える巨漢だった。さっきまでの勢いは、しおれて萎縮してしまう。 「あー、そうなのか。国一番の術師だってテオから聞いてたからさ。ごめんごめん」  自分と年齢の変わらない、気のいい大男は、どうやらテオの友人らしい。 「あ、あの! テオに会いに来たんですけど、中入ってもいいですか?」 「え、テオなら、ついさっき外に出掛けて、今日は帰らないよ。外泊って言ってた。あいつ、一人で住んでる父親が心配だからってよく宿舎出て家に帰ってんだよ」  ユーリはそれを聞いて頭の中が真っ白になった。  テオが孝行な息子なのはユーリも知っている。けれど、父親が理由の外泊は嘘だ。  テオの父親は、数年前から、遠くの親戚とともに暮らすようになったので、王宮のある場所から、すぐに会いに行ける距離にはいない。 「ん? テオがどうかしたのか? なんか言伝あるなら、帰ったら伝えておくけど」  なんでも知ってると思っていたのに、幼馴染の知らないことばかりが増えていく不安に戸惑っていた。  出掛けたのがついさっきならまだ追いつけると思った。ユーリは、挨拶もそこそこにその場から走り出す。  宿舎の居心地が悪く、外泊を重ねているだけという可能性もあったが、体調が悪かったはずのテオが外に遊びに出かけるとも考えられなかった。一つしかない王宮の門へ向かって走っているうちに、雲行きが怪しくなり、ぽつぽつと頬に雨粒が落ちてきた。  建物の正面まで辿りついた時には、雨は本格的に降り始め視界が悪かった。それでも見間違えるはずがなかった。  枯草色のズボンに白いシャツだけを身につけて、部屋からそのまま出てきたような格好だった。 (……テオ)  背を少し丸め、ふらつきながら歩く姿は、一目で体調不良だと分かる。ユーリは心の中で、このまま外へ出て行けば、自分の心配はただの早合点だと安心できるのにと強くそうなることを祈った。  けれどユーリの願いも虚しく、テオは門の外へ向かうことなく、迷いなく東の塔の方へ歩いていく。  ユーリは、テオが進む方向を確認したあともテオを追う足を止めなかった。  何か怖いことがあれば、普段の自分なら真っ先に頼れる誰かを探していた。守護霊のルルだって呼び出したかもしれない。  何かあっても、降霊術課にエルベルトがいれば大丈夫。一人ぼっちの降霊会が怖かったら、テオに一緒にいて欲しいってお願いだってした。それが自分という人間だった。  しかし、今日は誰かを頼るなんて選択肢は、少しも浮かばなかった。バラ園のいばらのアーチを抜け、細長い石壁の道を走っていくと、目の前にはだだっ広い草原が広がり、ユーリの肩の高さ程度まで草が伸びて風に揺れている。  王宮の敷地内といっても、現在使われていない区画だ。  そして、目の前の塔に続く草原は、誰かが何度も草を踏み歩いた跡が道になっていた。おそらく、昨日今日だけ通った跡じゃない。ユーリは、降りしきる雨の中、テオを追ってその道を走り出した。  もし、この先で何を見たとしても、ユーリはテオを自分の元に連れ帰るって決めていた。悪いことをしていたのだとしても、根っからの悪人なんてこの世には存在しないとユーリは信じている。――ユーリにとっての霊がそうであるように。  目の前にそびえ立つ、灰色の塔の鉄製の扉の鍵は壊れて開いていた。誰かが壊したのか、あるいは朽ちて落ちたのかは判断出来ない。  ユーリは、重い扉を押し開けて中に入った。  入った瞬間、暗闇から低く重たい、うめき声のような音が聞こえてきた。  けれど不思議なことに塔の内側からは、霊の気配があまり感じられなかった。  こういった古く暗い場所は、必ずたくさんの霊がいるものなのに、一つの馴染みのある大きな気配を除いて、この建物自体が空虚な檻のようだった。  ユーリは、テオがいると思われる上階へ暗闇のなか、手持ちの明かりを頼りに進んでいく。  崩れかけの螺旋階段はユーリが歩くたびに、石段が軋み割れる音がした。  人一人が通れる階段を何度もつまづきながら、最上階までたどり着くと、奥には鉄製の格子がついた牢が二つあった。  ユーリが牢のある奥へ進もうと足を踏み出した時、突然外から雷の落ちる音がする。小さな窓から稲光が中を照らす。一瞬、光に照らされて獣の影が見えた。  ユーリは、ランタンを正面に向けた。  けれど光に照らされて、はっきりと像を結んだ先にいたのは、テオだった。 「テオ!」  ユーリはその場所まで駆けて行き、開きっぱなしの牢屋の扉をくぐるった。中にあった古びたベッドに腰掛けていたテオは、ユーリの姿を見るなり驚いて目を丸くした。 「な……なんで、ユーリが」 「テオこそ! 東の塔は危ないって自分で言ったのに」  テオは眉間に深いしわを寄せる。 「ッ、危ないんだよ! なんで、お前は、怖がりのくせに来るかな。先生は絶対この場所にお前は近づかないから大丈夫だって」 「え、なんで、先生?」  ユーリは、テオの言葉に混乱しながら、手に持っていたランタンを床に置き、改めてテオの姿をまじまじと見つめた。  雷の光に照らされて、一瞬見えた獣の姿は、テオだった。  ふわふわの三角の耳がテオの頭の上に乗っている。ユーリは、恐る恐る手を伸ばしてテオの頭に触れた。  柔らかい手触りに覚えがあった。この耳をつい最近たくさん撫でたのだから。 「ばか、触るなっ。とにかく今すぐ帰れ、でないと」 「ねぇ、これ、レオンくん……の霊気だよね。とても強い……」  東の塔の内側には霊がいない。足を踏み入れた瞬間空虚な檻のように感じた。その理由は、テオ自身が霊の強い力を放っているために、周りの弱い霊が萎縮して逃げてしまっているからだった。  テオが契約した守護霊のレオンは教会犬で、元々魔を避けつけない強大な力を持っていた。墓地を守り、迷い人を導く。そんな優しい心を持ちながらも、悪意を持って近づく者には一切の容赦はしない。レオンはそういう役目を持った精霊だった。  そんなレオンの教会犬としての強い気が、絶えず周囲へ放出されている。こんな重い気に長い間当てられていれば、弱い霊はたまったものじゃないだろう。  霊ではないユーリもその毒にも似た気の放出にくらりと目がくらんだ。  その力の原因が何なのか、なんとかユーリは探ろうとしてるのに、探ろうとすること自体テオに拒絶されている。  ユーリが一番不思議だったのは、テオの体にレオンの霊が憑依、同化していることだった。通常、守護霊として契約した霊は、その人間のそばにいるだけで、呼び出した対象と一体化なんてしない。 「俺のことは、いいから今すぐ帰れ!」  テオは、声を荒げるが、ユーリはテオの頭に乗っている三角のふわふわに手が吸い付いたようで離れない。とても触り心地が良かった。 「耳……かわいいね。どうしたの?」 「はぁ、この状況で、お前は何寝言言ってんだよ」  ユーリがそう言うと、テオの頭の上についている耳が、ぴくりと動いた。壁の影に隠れていたが、よくよく見るとふさふさの尻尾までズボンの上からはみ出ていた。  テオが帰れと言っている通り、おそらく今ユーリが置かれている状況はあまり良くないし、大人しく帰った方がいいのかもしれない。けれどテオに意固地になられると返って反発したくなるし、理由を問いたくなる。 「この状況が、僕まだよく分かっていないんだけど、不思議。中にいるのは確かにレオンくんなのに眠ってるよね。ただ教会犬の霊の力はずっと放出されてて」 「触るな!」 「なんでだよ。大きいレオンくん撫でてるみたいで、……あれ? なんか、ここ、暑い」  ユーリは、がくりと急に体から力が抜け、その場に膝をついた。テオは、そのまま真横に倒れそうになるユーリに慌てて手を伸ばす。 「あぁ、もう! こうなるのが、分かってたから来るなって言ったんだ」  ユーリは、テオが腰をかけていたベッドの上に引き上げられ、テオはユーリの身体が崩れ落ちないように強く抱きしめた。 「変、上手く力が入らない」 「ユーリ。ごめん……俺には、もう、どうにも出来ない」  今にも泣き出しそうな弱々しいテオの声に驚いて、ユーリは力を振り絞ってテオの腕の拘束から逃れて顔を覗き込む。こんな弱音を言うテオは初めてだった。  ずっと頼り甲斐のある弟分で、いつもユーリを助けてくれる。そんなテオが、どうにも出来ないと言って苦しげなうめき声を漏らす。 「お、落ち着いてテオ。ねっ、僕は大丈夫だよ。テオの方が苦しそう。どうしたの? 何か困ってるなら、話してよ」  出来るだけテオを心配させまいと気丈な声で答えた。けれど、テオには顔を背けられる。  幼馴染として、何より兄弟子として、弟弟子が苦しんでいる時に、何もできない方が、つらい。そんな気持ちが少しでもテオに伝わるように、ユーリは、大丈夫だからと何度も自分に言い聞かせるように繰り返し、テオの頭を撫で続けた。  身体が熱くて、頭がぼうっとしてくる。熱に浮かされたような声で続ける。 「テオ、あのね、もしテオが悪いことしてるなら、怒るけど、でも、離れたりしないよ。大丈夫だよ。だから、何でも話してよ僕だけ何も知らないままなんて、嫌だ」  自分だけ何も知らされず、エルベルトが、今のテオの事情を知っていることが悔しかった。  そんなに、頼りにならない兄弟子だったのかって。エルベルトより自分の方がテオと長く一緒に居たのに。 「馬鹿だな……」  テオはユーリの顔をまっすぐに見る。テオの金色の瞳が、不安げにぐらぐらと揺れていた。 「テオ」 「なぁ……ユーリは、いつまで俺と一緒にいてくれるの? こんな、お前のこと傷つけることしかできない体で、どうやったら」  熱で潤んだ瞳。苦しげな吐息がユーリの頬にかかった。 「傷、つける?」  テオがユーリの腕を掴むと爪がユーリの皮膚に触れた。テオの指が身体に触れることでなぜかそこの部分に痛みを感じた。  獣の尖った爪が、体を刺すような痛みだった。 「ッ、ぁ……」 「ほら、痛いだろ」 「痛く……ない、もん」 「バカ、嘘つけ」  テオの爪が、本当に現実世界で鋭く、長くなっているわけではない。そう見えるだけ。  獣の姿は、テオに憑依している霊の姿だ。ユーリが、絶対に大丈夫だと、気を張っている間は、痛みを感じたとしてもユーリの皮膚が裂けたり、血が流れたりすることはない。  霊が人に与える影響とは、通常、そういうものだとユーリは学んで理解している。  ただ、どんなにユーリが気を張っていても、レオンが放つ強い気にあてられると、間違いなくその部分に純然たる痛みがあった。レオンの力は、他の霊とは違って特別だった。 「ユーリのこと、守れるように、俺は……頑張ったのに」  そこまで言ったテオは、ぐらりと身体が前に傾いでユーリを押し倒し、ベッドの上に倒れこむ。息が荒かった。 「テオ、どうしたの、すごい熱……」 「俺だって、ずっとユーリと一緒にいたいに決まってるだろ、お前のこと守るって……でも、それができないなら、別の道しかないじゃん」  テオは、半分正気を失っているようだった。熱に浮かされた声で、ずっとユーリのことをベッドへ強い力で押さえつけている。 「俺は、お前に、嫌われたくない」  テオが、ユーリから離れた理由に目を見張った。  怖がりなユーリに嫌われたくなかったから。 「何言ってるんだよ、大丈夫、僕は、痛くないから。犬、好きだもん。怖くないし、痛くもない。耳としっぽが生えたくらいでなんだよ!」  半分正気を失っているテオが恐ろしくないと言ったら嘘だった。けれど、何とかして、苦しんでいるテオを助けたいと思った。 「嫌いになんてならない、大好きだよ」  ユーリは、何度もテオの言葉を否定して安心させようとする。 「ッ……怖がりのくせに!」  昔から、人一倍怖がりだった。国一番の降霊術師で、どんなに強い力を持っていても、そればっかりは治らなくて。けど、霊に心を支配されているテオが、怖いからって嫌いになんてなれなかった。  耳が生えて、爪が伸びて、低い声でうめき声をあげるからなんだって思った。 「大好きだもん! 怖くない、テオが怖いわけないじゃん!」 「なぁ、ユーリの、それ、どういう好き?」  強い力で身体を拘束されている状況なのに、テオから与えられているその痛みが、不思議と心地良かった。痛みが、テオに自分を欲しがられている証みたいに思える。  何の相談もなしに一人で近衛兵になることを決めたテオが、ユーリなんかいなくても、やっていけると言われているみたいで悲しかった。自分ばかりが、テオと一緒にいたいみたいだったから。痛みと同じ大きさで快感を感じている。  自分がいないと生きていけないと言われているみたい。 (なに、これ。僕、変だ)  ユーリのなかに確かにある、その気持ちは、王宮で働き出してから日に日に募っていった。子供じみた独占欲の先に何があるのか、もう気づいているのに、ずっと出会ったころと同じ子供のままでいたかった。 「ねぇ、ユーリ、教えてよ」  少し掠れた甘えるようなテオの声にこの場に来るまでの焦燥感がまた和らいでいく。  降霊会をした夜も同じだった。テオがユーリに甘えて自分と一緒にいると言ってくれると、この焦りは溶けて消えていくのだ。  テオに、いつまでもそばにいて欲しい。けれど、ユーリ自身その気持ちと向き合ったことがなかった。  一緒にって、いつまで一緒に?  好きって、どれくらい好き? (ずっと、だし、全部)  テオがそばにいることが、今までの当たり前の日常だったから。一緒にいたいと思いながらも、ユーリは、テオに何も返せていなかった。だから、不安にさせたし、テオは、自分で決めて一人で離れていってしまった。 「どんなに痛くても、苦しくてもいいよ」  ユーリは、そう言葉にしていた。 「何……言って」 「テオが苦しいって思ってるなら、一緒に苦しみたいし、寂しい時は一緒にいたいよ。ずっとは、ずっとなんだから」   ユーリが、そう言い切ると、熱に浮かされていたテオの瞳が一瞬大きく見開いて、正気に戻ったように見えた。 「ユーリ、レオンの力さ、俺には大き過ぎるんだよ」 「え……」 「俺はレオンをこっちの世界に呼ぶ度に、力が不安定になって制御出来なくなる。俺が、レオンと正しく契約出来ていないから」 「それって」 「元々、レオンを呼び出したのはユーリだっただろ。だから」  そう、息も絶え絶えにテオはユーリに言った。  あの卒業試験の翌日、テオだけエルベルトに呼び出されたことを思い出した。  あの時、既にテオは、自分の身に起こった変化に気づいていたのかもしれない。 「……でも、この前はちゃんと元の場所に帰ってくれたし」 「別に、毎回こうなるわけじゃない。疲れてたり、体調悪かったりしたら、レオンの霊体に支配されてしまう。こうなったら、どうしようもないんだ……霊獣化してしまう」 「そんなの大丈夫だよ、僕が、お願いしたら、レオンくんだって起きてくれる」  そう言ってユーリは、テオの体の中にいるレオンに呼びかけるが、テオと重なってしまっているので、何度呼びかけても通じない。 「だから、どうしようもないんだよ、こうなったら、朝になるまで無理」  テオは、ユーリのことを強く抱きしめた。 「自分でレオンの力は抑えられないし。お前がここにいるのは、むしろ逆効果。だから、先生に相談して、この状態の時は誰も近づかないこの場所にいることに決めた」 「こんな……暗い場所に一人で」 「仕方ないだろう。レオンだって、好きでこうなってる訳じゃないんだから、俺の力がないせいで、暴れでもして、教会の人間に祓われたりしたら可哀想だ」  教会には、悪魔払いをする人間がいる。暴れる霊を悪魔だと言って通報されてしまえば、結果的にテオもレオンも苦しめることになってしまう。 「ユーリ。別に俺は、レオンを守護霊にしたことは後悔してない。こいつな……本当は、もっと長い間元気に外を駆け回っていたはずなんだよ。だから俺は、普通の犬としての生をもう少し楽しませてあげたいんだよ。ま、いつになるか、分からないけど、俺は、術師の才能ないから」  教会犬として墓を守る使命を託され、冷たい土に埋められ墓地を守る霊となったレオン。  テオが今、自分の身を隠しているのは、過去、レオンが教会の墓地を守るという願いを託された彼らの手によって、存在を消されるなんて悲しい事態を避けるためなのだろう。  ユーリはずっと不思議に思っていた。テオが、降霊術師になることをやめた今も、レオンとの守護霊契約を解消せず、そのままにしている理由。 「テオは、やっぱり優しいね」 「あのな、ユーリ」 「何?」  ユーリは、テオの顔をまっすぐに見上げていた。 「呑気に喋ってるけど、お前、ちゃんと自分の立場分かってるのか」  ベッドの上に抑えつけられたユーリは、テオの上気した頬に手で触れるが、その手を握り返された。 「俺は、欲しいんだよ……。お前のこと、全部」  テオは、熱に浮かされた顔で、ユーリの頬をぺろりと舐めた。そして、そのまま首筋に牙を立てられる。実際に、テオに牙なんてないのに、ちりちりと皮膚の痛む感覚があった。 「あー、無理。お前、すげぇ、美味しそうに見える、それに、いい匂い」  すんと、鼻を鳴らして匂いを嗅がれる。 「て、テオ」  食べられると思った。  ハーウェルのお屋敷に初めて連れてこられた時、エルベルトに自分は霊に愛されていると言われたことがあった。  ――まぁ、霊から見ると、君、超、美味しそうに見えるんですよ。  エルベルトは、そう言ったあと。続けて、こうも言っていた。  ――今はね、ユーリくんの力が霊たちよりも強いから、愛されていますが、君が、この先、君より強い霊に出会ったとしたら。  ――食べられちゃうかも。  その話を聞かされた夜。ユーリは怖くて、怖くて眠れなくて、テオにくっついて朝まで震えていた。  目の前にいるテオは、今、教会犬という強い力を持った存在になっていた。  そこにもしテオの力が上乗せされているのだとしたら、ユーリよりも強い力を持っているとも考えられる。  昔教えられたことを思い出して、急にテオが恐ろしくなった。 「テオ! テオ! 正気に戻って、僕を食べたって美味しくないよ!」 「ん……大丈夫。ちゃんと美味しい、から。もっと、ちょうだい、ユーリ」  テオの大きな体に抱きしめられたまま、じゃれるように、首筋を甘噛みされる。 「んんっんんっ」  そこに柔らかい舌が這い、犬に舐められているようなくすぐったさが、たまらなかった。そしてそれが、次第にユーリの身体を火照らせるような熱へと交換されていく。初めて感じる不思議な感覚に戸惑っていた。 「っ、ゃ、テオ、くすぐったいよ」 「もうちょっとだけ、こうしてたら、楽になるから」 「でもっ……こんなの、頭、変になる」  導師服の前を寛げさせられ、テオの大きな手が、ユーリの胸元に触れた。 「……なぁ、俺のこと怖い?」  テオは、極端にユーリに怖がられることを恐れているようだった。 「ッ、こ、怖くない」  少しの強がりだった。 「じゃあ、こんな俺になっても、好き?」 「あ、当たり前、じゃん」  ユーリがそう言うと、テオは、目を大きく見開いて、それから、ふにゃりと笑った。  いつも、にやり、とか、にやって笑うのに。心底安心しきった無防備な笑顔に目を奪われていた。 「嬉しい……大好き、ユーリ」  テオに抱きしめられていると、ふいにテオの下腹部が熱を持っていることに気がついた。この時やっと「美味しそうだ」と言われた意味をユーリは理解した。 「ユーリ。……欲しい」 「ッ、テオ、待って。正気に戻って、ワンちゃんの、その生物学的衝動は分かるんだけど、ええ、僕、に? テオの好きって、そういう好きなの? 発情期的な」 「ねぇ、ユーリの好きに、キスは入らない? 俺は、好き、ユーリの全部」  とろり、と溶けたテオの瞳に、今は、獣の本能に翻弄されているのだと理解した。  ちゅっと音を立てて、ユーリの前髪をかきあげ額に口付けられる。  小さい頃に冗談で、軽く挨拶のようにお互いのほっぺたにキスをしたことはあった気がするけど、こんなふうに執拗にされたことなんてなかった。  顔が真っ赤になる。  テオがユーリの下腹部の熱に気づいて、そこに触れてくる。テオの近くにいると、毒に当てられたように身体が熱くなって、くらくらする。自分でも、よく分からない衝動に身体を支配される。  身体の内側で溜まった熱が、ずっとぐるぐるして、自家中毒を起こしているみたい。でも苦しいのに、それは、蜜のように甘やかに育っていく。  テオに抱きしめられて、触れられて、爪を立てられると――気持ちいいのだ。  やっと、頭の中で、自分の中に起こっている変化と感情が一致していた。 (――あぁ、僕もテオが欲しいんだ)  無意識にテオにすり寄っていた。 「なんだ、ユーリも勃ってるじゃん。俺と同じなの」 「ッ、テオ! ばっ、ばか!」 「兄弟子様は、全然そういう話しないから、えっちなこと全然興味ないのかと思ってた」  テオに身体中を触られているうちに、勝手に気持ちよくなっていた。 (なんで、なんで、こんなことで!) 「ユーリ、一緒にきもちいことしよっか」 「ッ、テオ、っ、や、やだぁ」 「ユーリ、好きだよ、大好き」  何度も耳元で、好きだと言われて、テオに腫れ上がったユーリの中心を握られて、撫でられている。 「ッ、あ……ッ、んんんっ」  何度も、擦られているうちに、テオの中でユーリの熱が達してしまった。 「早いな、ちゃんと抜いてるのか?」  テオは、ユーリが出したものを見せつけるようにぺろりと手のひらを舐めた。 「ッ、な、ぁ……あ」  ぼろぼろと涙が溢れて、困った。  痛くても苦しくても、一緒にいると言ったのに、本当にこれで間違っていないのか、ユーリは混乱した頭で分からなくなった。 (僕は、テオのことが大好きで、でもテオは、今、熱でおかしくなってて……こんなことしたら、テオは……絶対後悔する)  自分が襲われている側なのに、自分の方が、テオに年上なのに、とんでもないことをしてしまった気がして、ぐるぐると頭の中が混乱していた。 「ぁ、ユーリ? 泣いて、て、まて、俺、今、何してた?」  そして、さっきまでの空気が突然消える。テオは急に元に戻っていた。真顔で、顔を青くしていた。 「ッ……ぅ、テオ、よかった。元に戻ったぁあああ」  ユーリは、テオに抱きついて、わんわん泣いていた。テオがテオじゃなくなったみたいで怖かった。 「ユーリ、何、服……え」  テオによって乱暴に脱がされた服はところどころ破れていて、血こそ出ていないが、テオに掴まれた腕や、噛まれた首筋は、赤くなって跡が残っていた。  まるで、乱暴されたように。  テオは、ユーリの怪我の具合を確かめてさらに青ざめる。 「どこまで、や……いや、記憶は、所々あるんだけど、途中から、夢だと思ってて」 「ッ、全部、現実だよ!」 「つまり、俺は、お前の……舐めたのか、そうか」 「い、言わなくていい!」 「……ごめんな、怖かったよな。けど、なんで、戻れたんだ、俺」  しゅんと、犬のように落ち込むテオを見て、ユーリはテオの手を握った。 「あのね! テオ、僕、怖くないからね! テオは、テオだから。どんな姿になっても、嫌ったりしない。覚えてないかもしれないけど、僕が言った、それは嘘じゃない。僕、そんなに、頼りない兄弟子じゃないからね!」 「ユーリ……」  テオは、体を起こしてベッドの下に置いてあった箱を取り出して開けた。 「ユーリ怪我、手当てする、自分用に置いてたやつだけど」  よく見れば、テオの体には、自分と同じミミズ腫れがいくつも出来ていた。ずっと、こんな暗い塔に隠れて、レオンの霊を制御できない自分と戦っていたのかと思うと、悲しかった。 「テオは、その怪我、全部自分でやったの」 「あぁ、あいつがここに術かけてて、おかしくなっても、俺は、この牢から外に出て行くことはないけどさ――朝起きたら、いつも傷だらけで」 「もっと、早く言ってくれれば、良かったのに」 「霊が怖いお前に、霊に取り憑かれてます。暴れて、お前のこと襲うかもしれませんって? 治るもんでもないし、俺がレオンのこと制御できるまで一生こうなんだからな。――だから、ずっと、隠しておくつもりだった」 「でも、それ、そうなったの、僕が、卒業試験失敗したからじゃん」 「俺が、お前くらい、術師として才能があれば、こうは、ならなかったんだ」  兄弟子として、何も出来なかったことを情けないと思った。 「じゃあ、ずっと全部隠しておくつもりだったの」 「あぁ」 「――じゃあ、好きって、いうのも?」  ぼそり、とユーリは、さっきまでのテオの数々の告白が幻聴だったかもしれないと思って訊ねてみた。テオの顔が青くなって赤くなる。 「ッ、駄目だ。こんなの、やり直し!」 「え、やり直し? 何を」  じぃっと、テオは、ユーリの目を見た。 「今日のこと、忘れなくていいから、やり直しさせろ」  いつも強気で、どんな時も飄々としてるのがテオなので、真っ赤になって焦る姿が、珍しくて、言われるままこくこくと頷いてしまった。  なんだか、一生懸命なところが、可愛らしいなんて思ってしまった。 「でも、俺も嘘はついてないから。それだけは、覚えておいて」 「……うん。わかった」
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