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第2話
「は……始めます」
「はいはーい。始めちゃって」
卒業試験といっても、すでに、ユーリが王宮で働くことは、エルベルトに弟子入りした時点で決まっていた。だから、この儀式は、それに必要な準備でしかなかった。自分のことをそばで守ってくれる、心優しい精霊を呼び出し契約することが今日の課題。
ユーリが、両手を紙の上に掲げた。
【――おいで、僕のお友達】
ユーリは、心の中で、遠くの世界へと呼びかけた。
「先生、今、ユーリ、何も言わなかった」
「今まで何人もの術師と出会ったけれど、こういうのを才能っていうんだろうね。あとは、もっと度胸があればねぇ。テオくんも修行して、ある程度は見えるようになったし、術師としては申し分ないんだけど……。多分、この先どんなに努力しても、ユーリくんのようには、なれないでしょう」
「そうっすか」
「悔しいですか?」
エルベルトは、からかうような表情でテオを覗き込むが、テオはそれに取り合わない。
「別に、俺はアイツについて先生のとこにきただけだから、どうでもいい」
しばらくすると、何もないユーリの目の前の空間に小さな稲妻がパチパチと走った。その次の瞬間、二体の黒い影がユーリの前方の頭上へあらわれる。
影は、次第に、はっきりとした獣の姿へと変化していった。一体は、白い犬、もう一体は、黒い犬だった。
「ほぉ、犬ですか……守護霊としては、珍しい。しかも同時に二体呼び出すとはね」
エルベルトが感嘆の声を出したとき、地面を揺さぶるような衝撃が走り、ユーリはその場に膝をついた。
「ユーリ! なにぼけっとしてるんだよ、早く白犬と契約して、黒犬を返せ」
テオが後ろから焦った声でユーリに指示した。
現れた黒い犬の霊の正体が何だとしても、元来黒い犬の霊は攻撃的と降霊術の書物で書かれていた。
王宮で働くなら心優しい霊の方が良いに決まっている。一体としか守護霊契約出来ないなら世の術師は迷わず白い犬を選ぶ。ユーリも、それは理解していた。
「でも、この子、この世に未練があるんだよ。だから白い子についてきたんじゃないかな。そんな気がする」
「偶然だろ。守護霊は一体。それに、ユーリが元の世界に返したって、別に、霊は恨んだりしねーよ、だから帰ってもらえ」
「でも、せっかく僕のところに来てくれたんだし、は、話は、しないと」
「は? 犬と何話すんだよ」
前方に掲げたままのユーリの手は震えている。
ユーリが呼び出した霊に降霊術師として出来るのは、話をすることだけだった。霊が人間と同じように見えるユーリは、どんなにその存在が恐ろしくても、彼らを否定したり、ましてや攻撃なんて出来ない。
「怖がりのくせに。そんなんだから悪霊につけ入られるんだろ」
「う、うるさいな、こ、この子は、い、犬だもん、人間じゃないし、ワンちゃんだから、可愛いし、だ、大丈夫だから、黒犬くんもおいで」
「二体契約する気かよ、無理だろ」
白犬と黒犬が、ゆっくりと降りてきて、ユーリの目の前の地面に足をついた。その時、突如黒犬の目が赤くなり、地を這うような唸り声をあげた。
「どうしたの? 黒犬くん、苦しい? 大丈夫だからね。ほら」
ユーリが手を差し伸べると、黒犬はユーリの手に噛み付こうと牙を向いた。
「このバカ!」
慌てたテオは、ユーリに駆け寄って肩を突き飛ばし、黒犬との間に割って入る。それは一瞬の出来事だった。
「ッ……テェな、このバカ犬、大丈夫だから、落ち着け」
黒犬に噛まれたテオの手からは血が流れて、ぽたぽたと地面にしたたっていた。通常、霊体である犬に噛まれたところで血は流れない。黒犬が強い力を持っている証拠だった。
テオに突き飛ばされたユーリは、転んだ拍子に顔から地面へ突っ込んでいた。慌てて体を起こしたユーリの前に、風に飛ばされてきた守護霊との契約書の紙が、はらりと落ちる。
「っぅ、テオ、大丈夫」
顔面を押さえたユーリの手の隙間からは、鼻血が一滴落ちた。
「……おやまぁ。ダイナミックな同時契約ですね。これは二人合格かな?」
こんな時でも、少しも動じないエルベルトは、目の前の光景を見下ろし、目をパチパチと瞬かせた。
守護霊との契約は、自身の血を呼び出した霊に一滴与えることで成立する。
手順通りなら、契約書に親指の血を落として終わるはずだった。けれど、黒犬は、テオに噛み付いて守護霊契約を結んでしまい、対してユーリは、地面に顔をぶつけた拍子に鼻血を流して白犬と契約を結んでしまった。
白犬は少し離れた場所から、心配そうな目でユーリたちの様子をうかがっていた。
「先生、俺は、犬に噛まれただけで何もしてないんだけど」
「でもね。実際テオくんの守護霊になっちゃってるし。多分、もう一度呼び出しても、その子がくるよ」
テオは目の前の黒犬の顔に向き直る。さっきまでの獰猛そうな様子は鳴りを潜め、テオに噛み付いたことになんだかショックを受け固まっているように見えた。テオは、ふっと笑い目を細める。
「あっそ、じゃあいいや。――よろしくな」
動物なので、たとえ霊でも人間と喋ったりは出来ないが、テオと既に血の繋がりが出来ているのか、傍目からは二人が会話しているようにみえる。地面に座って、黒犬の頭を撫でているテオに黒犬は、まるで長年の友達のように自然に寄り添っていた。
「テオ! 大丈夫、手、血出てるし!」
「お前も鼻血出てるけどな。普通、顔面からいくか? 転ぶ時は、先に手付けよ」
駆け寄ってテオの前に両膝をついて座ったユーリは、テオに鼻の頭をつままれた。
「い、痛い、テオ、でも、守護霊に黒犬は」
「別に、問題ねーだろ。こいつもそれでいいってさ。俺の手噛んだこと気にしてるんだよ。馬鹿だよなぁ、俺が勝手に口に手突っ込んだだけなのに」
テオはそう言ってにやりと笑う。
「噛み付くなんて、きっとヘルハウンドだよ。不吉で凶暴だって言われているし、もしテオの身に何かあったら!」
ユーリが畳み掛けるように言うと、テオはユーリの額をこつんと叩く。
「あのなぁ、ちゃんと見ろよ。こいつは教会の犬。チャーチグリムだ。噛んだのだって、ユーリに突然呼び出されて、周りを警戒しただけ。こいつの本能で別に悪気はない」
教会犬は、墓地を守る黒い犬の霊で、墓地を墓荒らしから守る以外に人に悪さをしたりはしない。基本的に優しく温和で、道に迷った子供を助けてくれたりもする。
歴とした由緒正しい精霊だ。
そんな優しい子を、悪者みたいに言ってしまったことに気づきユーリは慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい、僕のせいで、びっくりしたよね」
ユーリは、黒犬に抱きついて何度も頭を撫でた。
「ほんとにな」
「その黒犬くんは、ユーリくんの強い力に引き寄せられちゃったんだね。守護霊の呼び出し自体は失敗していないよ。強い力を持つ人間は、精霊たちにとっていつだって魅力的なのです」
「また先生は、ユーリをそうやって甘やかす。失敗は、失敗だろ」
「テオくんはユーリくんに手厳しいですねぇ」
テオは祭壇の向こうで震えている白犬に視線を向けた。
「で、そこの白犬が、ユーリの守護霊? 見た目だけは神々しいのに、お前そっくりだな。黒犬に怯えてるし」
「君もごめんね、大丈夫だから、この黒犬くんは良い子だから、ほら、こっちおいで」
ユーリは立ち上がって両手を伸ばし白犬を呼ぶ。すると、ゆっくりとした足取りでユーリのところまでやってきた。そしてぺったりとユーリにくっついて離れない
「そいつ、ちゃんとお前のこと守ってくれるのか? この臆病者め」
テオはユーリの足元にいる白犬の顔をまじまじと覗き込む。そのテオの顔が怖かったのか、白犬は後ろ足の間に尻尾を挟んで再びユーリの陰に隠れてしまった。
「テオ怖がらせないの! ねぇ、白犬くん、僕と一緒にいてくれる、かな? 怖がりだけど、僕も頑張って、君のこと守るから、ね?」
ユーリは、そう言って自分の元へやってきてくれた大きな白犬の体をぎゅっと抱きしめた。
もちろん霊なので、生きている犬のような温かさも重さも感じられない。けれど、確かに触れている感覚があった。
ふわふわの白い毛並みに、三角の垂れ耳、顔を覗き込めば、黒のくりっとした丸い目がユーリを見つめ返す。
「来てくれて本当にありがとう。仲良くしようね」
ユーリが優しく呼びかけると、白犬は、小さく返事をした。
「はい! じゃあ無事に守護霊との契約も終わったってことで、うちに帰ろうか。二人とも卒業おめでとう。あぁそうだ――テオくん」
エルベルトは、テオの顔を真剣な目でまっすぐに見た。
「少し込み入った話があるので、明日の朝一人で、私の書斎まで来てください」
「それ今じゃ駄目なんですか?」
「駄目、ですねぇ」
「降霊会の翌日は、いつも勉強昼からなのに。また、ユーリだけ甘やかす」
「理由は、君も分かってると思うけど」
エルベルトは、有無を言わさない笑顔を見せた。
呼び出される時は、いつも二人一緒だったのに、突然テオだけが呼び出されたことにユーリは、少しの違和感を覚える。けれど、深夜の降霊会の疲れと、やっと恐ろしい森から出られることへの安堵も相まって、すぐにそんなことは忘れていた。なにより、そばにいてくれる白犬の友達が来てくれたことが嬉しくて、ユーリは頭の中で、どんな名前を付けようとか、一緒に外で遊んでくれるだろうかといった楽しいことばかり考えていた。
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