第七章:燃ゆる想いを 箏のしらべに

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 右京がいない。  部屋の障子は開け放たれていて、中を覗け ば誰もいない和室に夕刻に染まり始めた淡い 陽射しだけが射し込んでいる。  どこかへ出掛けたのだろうか?  文机に洗濯物を置いておこうと部屋に足を 踏み入れた古都里は、けれどその瞬間ピタリ と足を止めた。  さわ、と背後から流れてきた緩やかな風が 首筋を撫でる。  不思議に思って振り返れば、右京の部屋の 向かいにある『開かずの間』の障子が半分ほ ど開いている。どきりと鼓動を鳴らしながら も古都里はそうっと忍び寄り、部屋を覗いた。  すると開け放たれた障子の向こう、広縁の 縁柱に背を預け、右京が庭を眺めている。  その頭にはピンとした白い耳と天井に向か って伸びる、同色の四本の尾。 ――妖狐の姿の右京がそこにいた。  古都里はその妖美な姿に心を奪われつつも、 恐る恐る彼に声を掛けた。  「……あのぅ、先生?」  腕を組み、庭を眺めていた右京が古都里を 向く。向けられた表情はどことなく愁いの色 が見て取れて、一瞬、古都里は声を掛けたこ とを後悔してしまう。何となく続ける言葉を 見つけられずにいると、右京はやんわりと目 を細めた。  「洗濯物か?」  「はい。あの、お部屋の文机に置いておく ので……」  そう言いかけた古都里を右京が手招きする。  古都里は遠慮がちに頷くと、床の間に立て 掛けてある朽ち果てた箏を横目に捉えながら、 右京の傍に立った。  そして庭に目を向けた古都里は、「わぁ」 と声を漏らした。  「綺麗なお庭ですね。あの薄い青紫のお花 は、竜胆ですか?」  決して広くはないけれど、社寺の庭園のよ うに手入れの施された庭を見、古都里は問い かける。石灯篭や周囲に点在する庭石、(つくばい)を 彩るように漏斗状の青紫の花が可憐に咲いて いた。右京はその問いに頷くと、穏やかな声 で言った。  「ハルリンドウじゃよ。玄関のアプローチ にも咲いておるじゃろう?妻が好きな花でな。 春に、秋に、咲くように家のあちこちに植え てある」  「そうなんですね。竜胆は秋のお花だと思 ってたから、玄関に咲いているのを見て不思 議に思っていたんです。でも……なんか素敵 ですね。奥さまの好きなお花が家のあちこち に咲いてるなんて」  上擦ることなく、自然に言えただろうか?  古都里は手にしていた洗濯物を、きゅ、と 握り締める。右京の口から『妻』という言葉 が紡がれただけで、その花が『妻』の好きな 花だと聞いただけで、胸はきりきりと痛みを 訴えていた。  右京は庭に目を向けたまま緩く息を吐くと、 ひどく遠い声で言った。
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