第六章:思い初める

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 すると、再びこちらに向かってこようとし ていた箏の化け物が、地を這うような低い呻 き声を漏らす。  「……グッ……グァウゥ」  まるで抗うようにぐねぐねと体をくねらせ ていたかと思うと、魂が抜けるように白い靄 が立ち上り、やがて元の朽ちた古い箏となっ てその場に転がってしまった。  その様を見て嘆息した右京は、つかつかと 歩み寄り、箏の龍服部分に護符を貼り付ける。  そうして元あった場所に箏を立て掛けると、 ばさりと袂を振り払って小雨を抱えたまま座 り込んでいる古都里の傍らに立った。  「もう大丈夫じゃ。怪我はないか?」  白く長い四本の尾を揺らしながら手を差し 伸べてくる右京に、古都里は震えながら頷く。  そして彼の手を掴み、よろけながら立ち上 がると、大きな大きな溜息を吐いた。  「このまま食べられちゃうかと思いました。 まさかあんなお化けがいるなんて思わなかっ たから……本当に、死ぬほど恐かったです」  最後の方は涙で声が揺れてしまって、古都 里は、すん、と洟をすする。右京の顔を見て ほっとしたら、張り詰めていたものが一気に 溢れ出してしまった。  ぽろりと一粒の滴が滑り落ちた頬を右京の 掌が撫でたかと思うと、不意に力強い腕が古 都里を抱き締める。気絶した小雨を抱えたま まで、古都里は右京の肩に頬を預けた。  「恐い思いをさせてしまったの、古都里」  もう大丈夫だと、安心させるように右京の 手が古都里の背を擦る。恐怖に震えていたは ずの心は瞬く間に鎮まり、なのに別の理由で また心が震え始めてしまう。  どうして右京の腕はこんなにもやさしくて、 自分は抗うことが出来ないのだろう?  なぜ一弟子に過ぎない自分が、まるで恋人 のように大切にされるのだろう?  右京には愛してやまない、奥さんがいると いうのに。  そんな思いが心に渦巻き始めていた古都里 の耳に右京の声が届く。肩に触れる頬からも、 彼の声が振動となって伝わった。  「あれは琴古主(ことふるぬし)という付喪神じゃ。人に使 われないまま長い年月を経た物は、時にああ して魂が宿ってしまう」  「付喪神……あれが?」  朽ち果てた箏に目や口が生え、ざんばら髪 のように箏糸を靡かせていた姿形を思い出し、 古都里は右京を見上げる。『付喪神』という 言葉自体は聞いたことがあったが、まさかあ んな風に荒れ狂い、人に襲い掛かる化け物に なってしまうとは思わなかった。  「妻が使っていた箏を処分する気にはなれ なくての。琴古主となってからも、人に危害 を及ぼすことのないよう封印しておったのじ ゃが……。まさか、あんな朽ちた箏に古都里 が手を触れてしまうとは思っておらんかった。 儂の不徳の極みじゃな。本当にすまんかった」  「ちょ、ちょっと待ってください!思って おらんかったって。あれを玄関に運んでおい てくれって言ったのは先生じゃないですかっ。 だからわたし……」
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