第2章 繕う月は陽光に煌めく

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 早朝の道路は空いており、赤信号にほとんど引っかからずに高校の近くまで来てしまった。停止したときに架月の様子をうかがおうとしていたが、そのタイミングは訪れなかった。  高校の第2駐車場に車を駐めると、架月は、ん、と声を漏らして目をしばたいた。 「寝ちゃった」  体調不良は起こしていないようで、透は安堵した。 「おにいちゃんと一緒にいると、気が緩んじゃう」 「緩んで良いんだよ」  透の頬が緩んでしまう。 「おにいちゃんは、すごいね。さっと料理ができちゃうんだもの」 「さっと料理できるものしか、つくらなかったよ」 「美味しかった。久しぶりに、お腹いっぱい食べた」  透は呆気にとられ、返事に困った。架月はそんなに食べなかったように見えたのだ。 「まだ、眠い」 「少し寝てなさい。俺は先生と話してくる」  先生、と聞くと、架月はびくりと震えた。 「俺も挨拶しなくちゃ」 「律儀だな」  まさかこんなに早く教員が出勤しているはずはないと透は思ったが、校門は開いている。もう出勤している教員がいるのだ。 「荷物くらい自分で持つよ」 「おにいちゃんに持たせてよ」  泊まり用のバッグは透が持ち、その後ろを架月が着いてくる。  正門前には、すでに観光バスが停まっていた。入学式で挨拶をした学年主任もいる。  透が学年主任に頭を下げようとしたとき、透は追突された。 「架月、おはよう!」  酒々井さん、と架月が呟いた。  明るく弾ける声の主は、架月のクラスメイトの酒々井千絵だ。 「架月、心配したんだよ。来られて良かった。あ、先生、おはようございます! 先に乗ってますね!」  追突した相手が架月ではなく透だが、千絵は気にしていない。架月の背中を押してバスに乗り込んでしまった。  学年主任は苦笑し、透に頭を下げた。透も頭を下げる。  透が入学式に来たことを、学年主任は覚えてくれていた。  立ち話になってしまうが、必要だと思ったことを学年主任に伝えた。架月が昨日、自宅の階段から落ち、病院を受診したこと。訳あって、しばらくは自宅ではなく透の家から通わせたいこと。透個人は、勝呂の両親ときちんと話し合いをするつもりでいること。研修の宿泊施設にシャワールームか個浴があれば架月にはそれを使ってもらいたいこと。  要点がまとまらない話になってしまったが、学年主任は思い当たる節があるようで、察してくれた。実は、教師陣も、近いうちに勝呂の親と話がしたいと思っていたらしい。クラス担任はまだ姿を見せていないが、学年主任がしっかりした人で、透は安心した。 「勝呂さん」 「酒々井さん」  千絵の姉、千津も来ていた。  バスの中から、千絵が手を振る。架月は、大きな瞳を見開いてから、微笑んだ。 「あの子達、行っちゃいますね」  千津が千絵に手を振る。 「そうですね」  透が架月に手を振ると、架月は引っ込んでしまった。 「酒々井さん、昨夜は本当にありがとうございました。本当に助かりました」 「いえいえ、困ったときはお互い様です」 「いやいや、俺の方が助けられてばかりです」 「そんなこと、ないですよ。勝呂さん、話しやすいですし。ほら、兄の目線が、姉の目線と近い気がして」  千津は、ちらっと目線を逸らした。 「富田先生」 「あ、酒々井千絵さんのお姉さん。おはようございます」  富田と呼ばれた若い女性の教員は、にこやかに千津に挨拶したが、一瞬だけ、透に向けて勝ち誇ったような笑みを見せた。 「先生、千絵のこと、どうかよろしくお願いします」 「任せて下さい。私も昔から、千絵さんと同じ症状と付き合ってきたんです。千絵さんの症状のことは、私がよく理解しています」 「本当に、ありがとうございます。富田先生が担任で、良かったです」  この人が担任か。透より年下で、千津とは年齢が近そうだ。透は入学式のときは周囲をよく見ることができず、ほとんど把握できていなかった。今後関わるかもしれない先生だから、覚えておかなくてはならない。  富田教諭は学年主任に呼ばれ、学年主任と話を始める。先程透が話した内容を、学年主任が富田教諭に伝えている。ちらちらと透に送られる視線が、居心地悪い。 「勝呂さんと富田先生、初対面ですよね?」 「そのはずなのですが」 「富田睦美先生、千絵のことに親身になってくれるんです。千絵はあんなに自由奔放な子で、病気のことも早々にクラスメイトに打ち明けたんですけど、やっぱり私は心配になってしまって」  妹とは対照的に、落ち着いた姉だ。透は素直に尊敬した。だが、睦美という名に引っかかった。病気、睦美、あの表情と目線……思い出したくない記憶をこじ開けてしまいそうだ。  富田教諭が、荷物を取ってきますね、と校舎の方へ向かった。透とすれ違い、嘲笑った。 「今度の餌食は男の子なんですね。相変わらず、趣味が悪い」  千津にもはっきり聞こえたようで、千津は、ぽかんとしてしまった。  透は、冷や汗を錯覚した。確認のために、千津に訊ねる。 「もしかして富田先生って、ご結婚されています?」 「はい、そう聞いています」 「旧姓は、唐沢ですか?」 「そこまでは」 「先生と千絵さんの病気というのは……糖尿病ですか?」 「はい。え……勝呂さん、すごい推理」  やはり。透はパーカーの上から胸を押さえ、早鐘を打つように焦る心を押し殺す。  やはり、あの人だ。透が教師を目指していた頃、その夢を潰した張本人である。
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