第3章 ガラスのひびに月は溶けて

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 7月最初の日曜日。市民会館の茶室で、月釜が開催された。関係者やその家族を招く内々のお茶席だが、手も気も抜けない。  道具の運び入れは前日に行われ、今日は朝早くから茶道教室の先生や生徒が準備をしている。  透は、まず先生に挨拶し、架月を紹介した。高齢の先生も、年齢層が高い生徒も、孫のような架月に大はしゃぎだ。高校の制服を着ていることもあり、学校のことも聞かれる。  茶道界隈は、年齢層が高い。これまでは透がちやほやされたが、今回は穏やかにやり過ごせそうだ。透は着物を持っていないから、白のワイシャツとライトグレーのチノパンで地味になるようにしてきた。 「架月くん、久しぶり! 何だか、変わった気がする」  着物姿の灯子が、架月を見つけて嬉しそうだ。架月は恥ずかしそうに首を横に振り、トコさん綺麗、と呟いた。 「そこは、今日も綺麗、だろ」  透が耳打ちすると、架月は、うん、と頷いた。 「トコさん、今日も綺麗」 「架月くん、ありがとう。透くんは、変なこと吹き込まなくて良いからね」 「肝に銘ずることにします」  それを聞いた灯子は、噴き出した。 「透くん、ユニークになったわね」  ユニークか。俺が。透が返答に困っていると、臀部に何かぶつけられた。振り向いた瞬間、げ、と潰れたような声が出てしまう。 「キョコさん」  ぶつけられたのは、スーツケースだった。長い黒髪を下ろし、赤、オレンジ、黄色のしぼり染めのワンピースに大きなサングラスをかけた女性が、透を見上げる。 「ご無沙汰しています。お荷物お持ちします。お車にも何かありますか」  何か言われる前に、透は想定範囲内で提案をした。  杏子はサングラスを外し、スマートキーを出した。 「相変わらず、気持ち悪いくらい気が利くわね。車の中に、今日着るのがあるけど」  独特のアニメ声に、透は懐かしさを覚えた。 「取りに行ってきます」 「ありがと」  透は建物を出て、駐車場に向かう。架月も着いてきた。 「おにいちゃん、扱き使われてる」  杏子の圧のある物言いに、架月は勝呂の家のことを思い出してしまったようだ。 「今日は、そんなことないよ」  杏子の車の後部座席に、タトウ紙に包まれた着物があった。一部分を開けさせてもらい、絽であることを確認すると、建物に戻った。杏子は空き室で準備を始めていたので、中に持って行くのは灯子にお願いした。  透は、お茶室のバックヤードである水屋で、お茶碗やお菓子の準備をする。主茶碗となる平茶碗を布巾で拭きながら、透は気づいた。 「キョコさんのですね」 「やっぱり、透くんにはわかるのね」  灯子が感心した。架月が、ひょこっと覗き込み、透は架月にも見せてあげた。 「今日の香合(こうごう)は、透くんのだそうね」 「俺、聞いてないです!」  透は、お茶室の道具を確認した。(とこ)に飾られた、笹舟を模した陶器の香合は、透の作品だ。  いつの間にか、杏子が香合を覗き込んでいた。髪を結い上げ、絽の着物に身を包んだ杏子は、先程とはまるで別人だ。 「へえ。あんた、やるじゃん」  架月も香合を見たそうにしている。 「おにいちゃん、すごい」 「あんたのお兄ちゃんは、すごいのよ。あたしが保証する」  杏子が架月に柔らかい態度であることに、透は驚いた。 「あんた、お菓子やお茶をお出ししてみない?」 「でも、やったこと、ない」 「透が教えてくれるって」  そんなこと一言も言っていません、とは言えず、架月の大きな瞳に見つめられ、透は首肯した。  月釜が始まり、皆、水屋にスタンバイする。 「まずは透が見本を見せてきなさい」 「俺も人前に出るんですか」 「恰好良いところを見せてきなさい……あんたは、4人目のお客の前にお盆ごと置いてきて、お菓子をどうぞとお辞儀をしてきなさい」  架月はお盆を受け取り、不安そうに頷いた。 「行こう」  透もお盆を持ち、架月を促す。  畳のへりを踏まないように、すり足気味でお茶席に向かい、透は1番目の、架月は4番目のお客様の前にお盆を置いた。 「お菓子をどうぞ」  先に透が水屋に戻り、架月が着いてくる。あの子可愛かったわね、とお茶席から聞こえてきた。 「おつかれさま」  透が声をかけると、架月は俯いて首を横に振った。 「上手にできなかった」 「そんなこと、ないよ。ありがとう」  極度の緊張状態から解放されたように、架月は溜息をこぼした。 「お菓子、綺麗」  今日の菓子は、琥珀色の寒天を楕円形に固め、水の波紋のような模様が描かれている。中に小豆が入っている。 「綺麗だね。水の面だ」 「おにいちゃん、詳しいね」  これも知っていないと杏子にどつかれる、とは言えない。 「茶道(おちゃ)は、季節を少し先取りして意匠やお道具を決めるんだよ。梅雨明けの真夏をイメージして、水指(みずさし)はガラス製、蓋は芋の大きな葉っぱ」 「お菓子もお水で、涼しそう」  話しているうちに、()()しをせっつかれ、透は数茶碗に抹茶(おちゃ)を入れてポットから柄杓(ひしゃく)で湯を注ぎ、茶筅(ちゃせん)てお茶を点てる。おお、と架月が感嘆した。  古袱紗(こぶくさ)を借りて、架月もお客様にお茶をお出しする。透が隣で教えると、お兄ちゃんがいて良いわねー、とからかわれた。今日はお茶席の雰囲気が違う。孫の発表会と思われているのだろうか。微笑ましく見られていると、透は思った。
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